30.壊れたおもちゃ
卒業式まであと5日。体育館は卒業式の準備が進められていて、美術の授業で中3の卒業制作として描いた自画像が壁に貼られている。個々の自画像がどれかすぐに判別ができないから、これはこれで良しとした。ただ、並んでいる自画像たちは少々不気味だ。
私は、不二祐介に告白することを決めた。
四の五の言わず『好き』という気持ちを伝えることにした。
卒業式の日に告白するのはタイミングを逃すかもしれないと考え、私は卒業式の前に想いを告げようと決める。本当は昨日が心を決めた日だったが、不二は学校に来ていなかった。不二もこの卒業式を機に臨時教師の契約期間が終わる。春からは産休明けの原ちゃん先生が復帰するようだ。
不二は、美術で使う画材などの倉庫を自分の部屋のように使っていた。おそらくこの数日間は小部屋の片付けをするはずだ。だから、今日は来ているはず。小部屋の片付けを手伝うのもありだろう。
片づけを手伝った後に、告白する? 手伝いながらさらりと伝える? そんなあれこれを考えたところで、計画通り、告白できるわけじゃない。それでも経験がない私は、シミュレーションをしておかないと、結局、何も言えず終いだったとなりかねない。
岡田のように、飾らず、直球で。真っすぐに思いを伝える。彼のようにちゃんと気持ちを届けたい。
放課後、覚悟を決めて美術室へ行った。ところが誰もいない。小部屋も様子を伺ったが人の気配を感じない。躊躇しつつ、ドアノブを回してみたが鍵がかかっていた。
(今日も不二は来てないのかな・・・?)
音楽室にはブラスバンド部の部員なのか、誰かがいるようだった。合唱部の練習は無いのでピアノ室にも誰もいない。
もう、ピアノ室ともお別れだ。
私は誰もいないピアノ室の写真を撮影した。そういえば、不二と一緒に撮影した写真が1枚もない。不二ひとりの写真もない。告白をする前に、写真を撮ってほしいとお願いしてみようかな・・・。そんなことを考えながら、ピアノの蓋を開ける。
鍵盤に手を置く。ぽろんと音を出した。
不二が側にいて、ラヴェルを弾いたときのことを思い出す。とても穏やかで心地のよいひとときだった。そのときに初めて、未来の不二と私を想像した。大人になった私と年を重ねた不二がいて、互いがそれぞれの好きなことをしながら、同じ空間で同じ時間を共有する。誰にもとやかく言われずに、誰の目を気にすることもなく、2人がともに過ごす未来。
好きという気持ちを伝えたところで、すぐに彼と付き合いたいという気持ちはないし、恋人になりたいとも思っていない。ただ、彼を想う気持ちを年々積み重ねていく中で、未来が開けていけたらという、願いだ。
ピアノ室を出て教室に戻った。まだおしゃべりしている生徒も残っていた。千里たちはそれぞれ予定があるようで、今日は早々に帰宅している。私も帰ることにした。自転車に乗って中学校から帰るこの道も、自転車から見える風景も、卒業すればもう、見ることがない。どれもこれも、あと数日。
それにしても今日も不二に会えなかった。家に帰ったら、やはり、思い切ってメールをしようと思った。約束を取り付けたほうが確実に会えるし、やっぱり辞めた!と、逃げることができなくなるから、退路は断ったほうがいい。家に到着し、紅茶を飲むためのお湯を沸かす準備をしつつ、スマホをカバンから取り出そうとした。
「あれ、無い・・・。」
いつもカバンに手をいれてごそごそすれば、スマホに手が当たるのにそれが無い。青ざめる。ほぼ学校では使わないから無くすポイントがない。どうして?と頭を巡らしたとき、ピアノ室で写真を撮影したことを思い出す。まずい・・・。電話を鳴らしたところでマナーモードに設定している。私はやかんの火を止め、制服のまま、家を飛び出した。
スマホには大切なデータが入っている。不二の携帯電話番号、そして不二からのメッセージと写真。あれだけは絶対に失いたくない!
私は必死に自転車を漕いだ。夕暮れに差し掛かっている。息を切らし自転車置き場に捨てるように自転車を置く。サッカー部がグランドの整備をし部活動を終える仕度をしている様子を横目に、校舎へと急いだ。
ピアノ室に入るとピアノの上に携帯電話が置いてある。ぼんやりと思い出にふけっていたから手元が緩んだのかと、携帯電話を掴んで安堵する。全身の力が抜けた。今はこのスマホがないと、不二とのつながりも切れてしまう気がしていた。
呼吸を整えていると「ガタン」と隣の部屋から物音がする。
(不二がいる・・・?)
反射的に私は乱れた髪を手で整えた。深呼吸をしてから慎重に静かにピアノ室を出て、小部屋に耳を立てる。人の気配がある。思い切ってドアノックをした。一瞬、静まり返った。ドアノブに手を伸ばし、開けようとしたが鍵がかかっている。
コンコンともう一度、ノックをしようとすると、バタンと美術室のほうから音がし、服装が乱れた女生徒が美術室の入口が出て、走り去っていく姿が見えた。それは、舞妓たちと一緒にいつもつるんでいた、松田かよ子だった。
私は意標に突かれたまま、足は吸い寄せられるように美術室へ向かい、美術室から小部屋に入ることができるドアから中に入った。不二の姿があった。
彼は椅子に座ったまま、服のボタンが外されていて、上半身がはだけていた。華奢だと思っていた胸板は広く、アイボリーの肌は綺麗だった。彼の表情は無表情で、瞳は何も映していないように見えた。
「一体、何を・・・。」
声にならないような声でつぶやいた私は、足がすくみ、ドアの前で立ち尽くしていた。なぜ、かよ子と不二がこの部屋にいたのか。走り去るかよ子の姿が改めて脳裏に浮かぶ。彼女は下着姿の上に、上着を羽織ってたような気がする。
不二の虚ろな瞳がやっと私を映した。彼は徐々に目を見開き、私を捉えた。無表情だった顔が困惑していき、すがるような表情になり、私の瞳をじっと見つめた。そして彼の目から涙が流れた。声を出すことなく、涙は次から次に頬をつたっていた。その姿は、成人男性には見えなかった。少年のように儚く、今にも壊れてしまいそうに見えた。私はゆっくりと彼に近づき、両腕を伸ばして彼をそっと包み込んだ。
以前、私が彼にピアノ室でそうしてもらったように。
彼はゆっくりと私の胸に顔をうずめた。彼が震えていることに気が付く。何が起こっているのだろう。舞妓の嫌がらせの数々を思い返し、さきほど見た、かよ子のことを考える。何が、ここで起こっていたのだろう。
ーーー不二はね、抱いてと言えば抱いてくれるんだよ。
そう、卑しく笑った舞妓の品の無い顔を思い出していた。まさか。
(あの女がかよ子にたきつけた?)
とんでもない想像をし、めまいがした。狂った舞妓なら在り得ないことが起こるかもしれない。しかし、たとえそうだったとして、何故、不二は・・・。
かよ子と不二の乱れた服、姿を見れば、私がドアをノックしたとき、密室で何が起こっていたのか嫌でも想像したくなる。
ーーー不二はとても丁寧に舐めてくれた・・・
舞妓の下品な言葉がこだまし、さらに強いめまいが起きた。舞妓が私に伝えたことは事実なのか?
不二の上着が床に落ちているのを見つけた。今私の腕の中にいる不二は、シャツのボタンは全て外され、素肌をさらしている。
不二が以前私にしてくれたように、私は少し腕に力を入れて抱きしめた。不二の側で呼吸をすると彼の匂いが鼻に届く。とても癒される匂いだった。本当ならその匂いを知って幸せな気持ちが高まるはずだったのに。
「お願いされたら・・・抱くんですか?」
質問してしまったあと「しまった」と思ったが、もう、遅い。おそらく頭のどこかにこびりついていた、「あの女」の言葉が忘れられず、口から滑り落ちてしまったのだろう。涙で濡れた頬をさらしながら、不二は答える。
「・・・そうだね。僕は
(そうだね? 抱くの? ダンショウ?)
連続で私の頭ではすぐに理解できない言葉が並んだ。彼を包んでいた両腕が緩み、彼と向き合う。
「じゃ、さっきの、女生徒は・・・? 頼まれたんですか?」
不二はこくんと頷いた。思い出したくもない舞妓の言葉を浮かべる。あの女がかよ子をそそのかした? 吐き気がする。あの女に殺意が芽生えた。
「したんですか・・・。」
「僕はED(勃起障害)だから、性行為はできないよ。」
ED? 性行為? そんな言葉が不二から出て来ると思わず、私の脳みその容量が瞬時にオーバーヒートする。
(性行為までは出来なくても、その手前までなら出来るということ? してしまうの?)
具体的な質問は、そのときの私には出来なかった。
「なぜ、断らないんですか。拒否すればいいじゃないですか。」
私は思春期の少年を叱るように言う。
「・・・拒み方がわからない。子供の頃から分からない。」
(拒めない? 子供の頃から? ・・・虐待されてきたということ?)
「何を言っているんです。拒んでいいんです、嫌なんでしょう。無気力にならないで。考えることを辞めないでください。嫌なことは嫌だと、言わなくちゃ。」
「・・・。」
彼は濡れた瞳で私を上目遣いに見た。不思議そうな顔をしている。
「拒んで大丈夫なんです。これからは絶対に拒んでください。逃げてください。」
しばらく物思いにふけっていた彼は、消えそうな声で言葉をつなぐ。
「僕は、女性というものがわからない。幼少の頃は恐怖でしかなく、のちに嫌悪感に変わり、今は無機質なモノとしか思えない。」
さきほどからずっと、聞き逃さないよう彼の言葉を必死に聞き、彼の真意を正しく汲み取りたいと思っているが、頭がまわらない。未熟な私は彼の底知れぬ闇を解読できず焦っていた。
「
彼のことを美しいと思っていたのは私のほうだ。私なんて眩しい存在でもない。綺麗でもない。
「わ、私は。私は・・・。」
改めて彼から少し距離をとり、彼の肩に手を置いて、真っすぐに不二を見た。
「不二祐介が好きです。」
不二はわずかに目を丸くさせた。驚いているようだった。
「貴方が私の初恋です。」
窓から見えた空は赤く染まり、夕焼けを見せた。その空の色はあの高台から眺めた空とは、似て非なるものに見えた。
いつも見ていた長くて綺麗な手が、私の両頬を包み、優しく私を引き寄せ、唇が重ねられた。柔らかくヒンヤリとした唇だった。唇が離れると、少し角度を変えて再び塞がれた。そして唇を挟んでは離すを繰り返えされる。私は彼の動きに任せていた。脳は考えることを放棄しているようだった。
口と口を重ねた状態で彼は私の唇をついばみ、吸い、ときに軽く歯を当て、唇を噛むようなしぐさをし、私の唇を舐めた。自然と私の唇が開かれていき、彼の舌が私の口内に入ってくる。
(一体、何が起きているの・・・?)
彼の舌が口の中に入ってきたとき、私は少しだけ我に返った。でもすぐに思考が働かなくなる。彼の舌は私の舌を求め、絡めたり、吸ったり、ときおり唇を噛まれた。彼がする行為以外、私は何も考えられなくなった。
舌が解放されると、彼の唇は私の耳に軽く触れ、耳の後ろに多くのキスをした。そのまま首筋にたくさん唇をあて、鎖骨辺りまで彼の唇は触れた。
そのままぎゅっと、強く抱きしめられた。
強く、長く、胸が苦しくなるくらいに。
また唇が塞がれる。彼の手は私の首元にあった制服のリボンを外し、シャツのボタンを外し始めた。彼は私を抱き上げると中央のテーブルの上に私を運び寝かせる。何が起こっているのか急に不安に包まれた。彼の左手は私の背中をしっかりとホールドし、私の胸に顔を埋めた。シャツから肌けた私の胸まわりに彼の唇が触れる。その唇は徐々に下方へ進んでいく・・・。
「あ、待って。ちょっ・・・。待って。」
語尾を強めて発した声に、ぴたりと彼の動きが止まった。気づいたときには私の目の前に彼の瞳があった。「ごめん。」と、彼は言ったが、焦っているようにも、本当に謝罪しているようにも見えなかった。このまま身を彼に預けたら、彼は、あの女が言っていたようなことを致すのだろうか。いたたまれない気持ちになった。
不二祐介は、壊れている。
と、私は思った。
「・・・初めて女性に欲情した。」
「EDなんですよね?」
「うん。」と言いながら彼は微笑んだ。ほら、彼は壊れている。EDであることを伝え、こんな場面でも美しく微笑み、15の女に欲情していると平気な顔して告げるのだから。
授業中、彼を見ていると別世界にいるように感じていたが、本当に彼は私がいる世界の常識の中では生きていない人なんだということを知る。私の理解の
1年近く彼を見つめ、何度も迷走し、混乱する自分と向き合い、やっと彼への恋心に気が付いた。そして決死の思いで彼に「好き」だという気持ちを伝えようと決めて、彼に会いに来た。なのに、私の初恋の相手は、まるで壊れたおもちゃだ。壊れっぱなしのまま、動いている。
15の純粋な告白対してこの仕打ち。私の純情をおもんぱかることができないのか。何よりもこの、壊れた人間をどう扱えばいいのだろう。こんなにも綺麗で美しい
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