生け贄と書いて浮気相手と読む by巫女

黒本聖南

◆◆◆

 地上の光が一切届かぬ座敷牢。用意された古くさい燭台の灯りは頼りなく、どうにか手元が見えるばかり。


「そのまま畳を眺めていろ、私が許すまで口を開くな」


 尊大で、どことなく舌足らずな少女の声が、弥太郎やたろうの耳に届く。彼女がそう言わずとも、この座敷牢に連れてこられる前に、弥太郎はそのように注意を受けていた。

 緊張からか小刻みに震える自身の身体に苛立ちを覚えながら、弥太郎は頭を下げ続け、次の言葉を待つ。


「私の元に来たということは……ささめ様はまた、私という者がありながら生け贄を求めたということか。浮気者め」


 何やら変なことを言っているが、弥太郎が口を開くことは許されていない。指先に力を込め、意識を集中した。


「それで、生け贄はお前の何だ? 恋人か、姉妹か」

「……」

「発言を許す」

「……妹、です」


 弥太郎が答えると、少女の声は皮肉げに笑った。


「妹、妹か。大切な身内を、そら失いたくはないわな」


 けらけらと、げらげらと、たっぷりの皮肉を込めた笑い声。それを頭から浴び、弥太郎の緊張はどこかに消えた。代わりにふつふつと怒りが湧いてくる。

 何も分からぬまま、ここに来れば妹は助かると言われて縋りにきた。その結果がこれなのかと、畳の上に揃えた手が丸まっていく。それを声の主に振るうことは許されていない。彼女は座敷牢の中、木製の格子が暴力を拒む。

 それでも、傷つくことも構わず行動に移してしまえば──弥太郎の希望は潰えてしまうだろう。


 村人に奪われた彼の妹は、生け贄に選ばれた。


 弥太郎と妹は、ただ、田舎の祖母の家に遊びに来ただけだった。

 祖母の暮らす村では林檎を育てているが、今年は虫の被害が多く、林檎のほとんどが駄目になったらしい。連絡するたびに酷く落ち込んだ様子の祖母が気になって、親には内緒で妹と共に遊びに来てみれば──妹だけ村人達に捕まった。

 曰く、生け贄だ。

 曰く、若い娘が好きだから。

 曰く、龍神様に頼むんだ、と。

 地面に押さえつけられた弥太郎は、連れていかれる妹を見送るしかできず、解放されたその後で、突然やってきた孫に驚く祖母に説明を求めれば、とにかくここへ行けと、必ず助けてくれるからと、村の外れにある神社まで走らされ、そして──座敷牢の前に連れてこられた。

 少女の姿はろくに見えない。赤い着物の裾が辛うじて見えるばかり。格子の向こうの誰かが、本当に声の通りの少女なのかも分からない。

 それでも、妹を助けてくれるのなら、何だっていい。

 弥太郎は頭を下げ続けた。


「……さて、少年。ささめ様、いや龍神様への生け贄をどうやって、そしてどうして、捧げると思う? 発言してもいいぞ、思い当たるのなら」


 そんなことを言われても、余所者の弥太郎には分かるはずもなく、何の反応もしなければ、いかにも馬鹿にしたような笑い声が耳に届いた。


「山の中に泉があってな、龍神様はそこで寝起きをしている。清らかなものは力を増大させてくれるからな。その泉は、満月の夜に輝く時があり、その際に生け贄を泉に突き落とせば、龍神がそれを食らい、更に力を得て、泉の傍にあるこの村に利益をもたらすのだと」

「……っ」


 弥太郎は声をもらしそうになり、固く閉ざした口に力を込める。駄目だ、黙らなければ妹はと、そればかり頭の中で繰り返す。

 正面、格子の向こうで衣擦れの音がし、次いで、鼻を鳴らす音がした。


「浮気は、現行犯でないと言いくるめられる。未然に防げば激しく……ふふっ」


 偉ぶった少女の声が不意に、柔らかなものに切り替わる。気にはなったが、弥太郎は頭を上げられない。

 何の反応もしない内に、声はまた尊大なものに戻った。


「少年、お前はどこに住んでいる。発言を許す」

「……ここじゃない所、都会の方です」

「何故、この村に来た」

「……この村に住む、祖母に会いに」

「なら、対価はお前の祖母に求めよう。この村のことはこの村で済ませる。先に決まりを破ったのは村人だしな。私の龍神様に浮気相手を見繕うとはなんたる無礼。許すまじあいつら」


 声がもれぬよう気にしながら、弥太郎は浅く呼吸を繰り返す。何も訊くまい、何も反応すまい。そうすれば、妹は……と。


「改めて、問おう。お前は私に何を求める」

「──妹を、助けてください!」

「あい分かった」


 では出ていけと、どこからか足音が聞こえてきて、気付いた時には弥太郎は、腕を両側から持ち上げられ、元来た道を引っ立てられていく。

 そんな彼の背中に、少女の声が届いた。


「家から一歩も出るな。雨が降るのを待て。降ったら村の出入り口に向かえ。待てば妹が来る。そうしたら逃げろ。二度と来るなよ」


 返事をする余裕はなかった。


◆◆◆


 神社を追い出された弥太郎は、言われた通りに、祖母の家に戻ってからは一歩も外に出ず、雨が降るのを待った。

 雨はなかなか降らず、二日経ち、その日の夜は見事な満月であった。縁側に寝そべりながら眺めていると、弥太郎の心中は失望と怒りに染められていく。

 騙された。

 そればかり考えていた弥太郎は、身体を起こし玄関に向かう。いつ出てもいいように、纏めた荷物はそこに置いていた。


「何をしているの、弥太郎」


 厠から出てきた祖母が声を掛ける。少女に告げられた言葉は、祖母に全て話していた。


弥生やよいを助けに」


 二日ぶりに口にした妹の名。それを耳にした祖母は、お待ちと、巫女様を信じてと止めてくる。

 何を言われても無視して外に出るつもりだった弥太郎だが、巫女という言葉が引っ掛かり足を止める。巫女、巫女様、とは。

 訊ねてみれば、祖母は容易く教えてくれた。


「あの神社には、雨を降らすことができる巫女様がいてね、龍神様が泉に住むまではあそこの巫女様が祀られていた。けれど龍神様が現れてからはそちらが祀られ、巫女様は龍神様の番人、という扱いになったんだ」

「番人なのに捕らわれているのか」

「巫女様があの場所にいることに、何か意味があるらしい。私もこれ以上のことは知らないけれど、巫女様に雨さえ降らしてもらえば、弥生は救われる。いつもそうだった」

「いつも?」

「……若い娘が村に来るたび、血の気の多い村の者が捕まえて、龍神様の生け贄にしようとしてきた。何か不幸があればどうにかしてもらおうと、何もなければより良い明日をとね。今年は虫の被害があったから、あんた達、特に弥生には来てほしくなかったのに、何で来たんだい」

「ご、ごめん」


 とにかく雨を待ちな。待てば全部終わる。弥生は助かる。

 そんな会話をしながら、祖母と共に居間に戻る弥太郎。縁側に視線を向けて、彼は思わず声を上げた。

 ──雨が降った。

 先ほどまで雲一つなかったというのに、満月は分厚い雲に隠れてしまい、ぽつりぽつりと最初は弱々しく、やがて雨脚は音を立てて強くなる。庭の項垂れた葉をぼんやり眺めていた弥太郎の肩を、祖母は思い切り叩いた。


「二度と来るんじゃないよ、馬鹿孫!」

「……うん!」


 玄関へと引き返し、勢い良く外へ。

 荷物は持った。だが慌てていた為に、傘を忘れた弥太郎。ずぶ濡れになりながら村の入り口へと向かい、雨風の寒さに震えながら妹を待つ。

 待つ。

 待つ。

 待つ。

 ──待つ。

 また、騙されているんじゃないか、そんな考えが脳裏を過った所で、声がした。


「──お兄ちゃん」


 声のした方に視線を向ければ、自分と同じく濡れ鼠になった妹がそこにいる。無理矢理着替えさせられたのか、白い浴衣を着ていた。

 弥太郎はすぐに駆け寄って、荷物の中から薄手のカーディガンを妹の肩に掛ける。この状況で大して意味はないかもしれないが、しないよりはマシだ。

 そして妹の手を取り、走り出す。

 雨音は激しく、追っ手の足音など聞こえない。ぬかるんだ地面に足を取られそうになっても、速度はそのまま。止まったら捕まる、その一心で足を動かし続けた。

 人心地ついたのは、発車間近の電車に乗り込めて、しばらく経った頃。


「ごめんな、あんな村だって知ってたら、連れてこなかった」

「……多分、信じないで無理矢理ついてきたかも。だって今、令和だよ。令和なのに、あんな、あんなの……おかしい……」

「……ごめん」


 それからは二人、黙って電車に揺られ、一睡もせず、何度か乗り換えた末に家に着くと、両親への説明もろくにせず、死体のように眠った。

 起きてから全てを説明した所で、父はまるで納得しなかったが、あの村の出身である母は重く受け止め、これ以降、弥太郎達家族があの村に行くことはなく、しばらくして、廃業した祖母がこちらに来て、同居することになった。

 特に事件も起こることなく、日々は平和に過ぎていき──数年後、弥太郎は家を出ることになる。

 これまでは実家から職場に通っていたが、転勤を命じられ、引っ越すことになったのだ。

 多くの時間を過ごした我が家。名残惜しいがこれも人生、何事もなく明日が終わればいいと願いながら眠ろうとすれば──祖母が、部屋にやってくる。


「これ、持っていきな」


 古い木札だった。

 表に「護」と一文字だけ書かれ、裏返せば、白い龍に巻き付かれた黒髪の巫女が描かれている。


「あんたが住む所、あの村に近いから……。あんたは男だけど、念の為にね」

「……婆ちゃん、弥生に渡した方がいいんじゃ」

「とっくに渡してるよ。村を出る時、巫女様の遣いの方から頂いた物をね」

「……なら、大丈夫か」


 弥太郎は木札を見下ろしながら、ぽつりと、別に返事を求めずに言葉を溢す。


「龍神とか巫女とか、何なんだよあの村」

「……何だったんだろうね。今後は関わらないのが一番だよ」


 それだけ言って、祖母は部屋から出ていった。閉じた扉を見つめながら、弥太郎は妹のことを思い出す。彼女は弥太郎よりも先に家を出た。二年くらいは顔を見ていない。

 あの村での出来事を、弥太郎が妹と話したことはない。

 聞いて妹が平気なのかという心配もあるにはあるが、自分が思い出したくないというのもあった。

 押さえつけられた恐怖。身勝手な行動で身内を失いかけた恐怖。何度も感じた怒りと失望。雨の冷たさ。

 思い出して良いことはない。

 忘れよう、今度こそ忘れようと思うのに、弥太郎が全てを忘れることができないのは、


『──ささめ様』


 できないのは、少女、もとい巫女と交わした会話のせいか。

 その名を口にした時、巫女の声の尊大さがほんのりと薄まっていた、気がする。

 巫女は龍神の番人。

 彼らは、果たしてそれだけの関係なのか。


「いや、やめだやめ。忘れろ! もうあんな村、関わりたくない!」


 口ではそう言いながらも、弥太郎の部屋にはそれなりの数のスクラップブックが置かれていた。


 ──どれもこれも、龍神伝説をまとめたものだ。

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