第2話 新しい鬱

 胸焼けや吐き気、不意の涙が収まってきたのは一年が経った頃だった。


 採用面接で精神病を患ったことを正直に打ち明けると「うちは健康体で隠蔽体質な人物より、病気とうまく付き合いながら正直でいる人物の方を評価する」と言ってくれた。


 Q氏は目頭が熱くなるのを止められず、溢れかけた涙を指で拭った。恩義を抱き、終身雇用が崩壊した時代としては珍しく「この会社で骨をうずめるつもりで頑張ろう」と覚悟した。


 休日や平日の仕事外の時間にビジネス書を読み、セミナーに通ってスキルを磨き上げた。業務のミスは減り、業績を出せるようになってきた。精神病を患った者は役職者になることが難しいとされる時代で、鬱とうまく付き合って再発しないように心がけながら、主任、係長、課長補佐、課長、副部長と年を重ねるごとに順調に昇格していった。そして五十四歳になったとき、部長に昇格した。


 その頃には息子が二十二歳となり、大学を卒業して会社で働き始めていた。しかし、三ヶ月も経たないうちに息子がQ氏と同じように鬱を発症して休職し、家に引きこもってしまった。息子の部屋をノックしても応答がない。Q氏は自分の新卒時代を引き合いに出し、息子のよき理解者として毎日ドア越しに話しかけた。


 ある日曜、いつもどおりドアの前で話していると、ドアがゆっくりと開き、Q氏の額とぶつかった。上下スウェット姿の息子が俯き加減出てきた。Q氏は額を抑えつつ照れ笑いを浮かべ、息子の背中に手を当ててリビングのテーブルまで誘導した。


 息子は会社で起こったことを訥々と話し始めた。


「厳しく指導してほしいのに、上司は優しすぎるし友達みたいな関係で接してくるんだ。それが気持ち悪くて我慢してたけど、吐き気とか熱とかが治らなくなって、それが鬱だったんだ」


 テーブルに置いていた拳に力が入った。息子の言うことが全く理解できなかった。先輩や上司に良くしてもらってそれが気持ち悪いという思考に働くなんてどこで育て方を間違えたのか自身を責めた。


「お前は甘えているだけだ。いい会社なのに休職なんかして……。どうしようもない奴だ」

「甘えなんかじゃないよ。僕はもっと厳しい環境で努力したいんだ」

「お前が働きやすいように職場の皆さんは工夫してるのがわからないのか」

「お父さんこそ僕の悩みを全然理解してくれないじゃないか。お父さんだって鬱になったんでしょ」


 Q氏は振り上げた拳をテーブルに叩きつけた。


「お前は鬱なんかじゃない。鬱を言い訳にしたずる休みだ!」


 Q氏は息子を見放すようにテーブルの席を立った。Q氏の頭の中にあるのは、今の時代は俺の時代より恵まれているのになんてひ弱な奴だという憤りだった。


 息子は部屋から出てくるようになったものの、Q氏は話しかけることはなかった。その代わり、妻に時おり息子の様子を窺うようになった。


 一年後、Q氏の息子は2010年代に非難されたようなブラック企業に入社し、月から土で早朝5時から深夜1時まで働き尽くしているらしい。最初の会社に抱いていた不満は一切なく、休みなく働いて安い給料という厳しい環境を提供してくれて感謝しているという。

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新しい鬱 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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