新しい鬱

佐々井 サイジ

第1話 鬱

 課長の口から唾の破片がQ氏の紺色のスーツの袖に飛んできた。しばらく半球の形をつくったが、延々と続く課長の叱責を象徴するように、唾はスーツに染み込んでいってしまった。


「新卒ってこと差し引いても、ミスばっかなのどうにかなんねえのかお前はよ。こんなんでよく生きてこられたな。不細工だったらせめて仕事くらいできておけよ。責任取る俺の身にもなれよ。お前責任取れんのか? 取れねえだろうがよ」


 研修レポートで「関心」を「感心」と変換ミスしただけで、もう三十分は怒られている。明らかに人格攻撃をされ、聞き流すことはできない。かといって言い返す勇気もない。新卒の僕に味方してくれる社員は誰もいない。いじめの構図と一緒だった。ここ最近、胃酸が胃を溶かしているような、胸やけに似た苦しさが続いている。


 ワンルームの家に帰れば、涙が溢れてくる。止めようとすれば逆効果で課長の言葉が脳内に跳梁跋扈する。ベッドに潜り込んで無理やり寝ようとするも飛び交う言葉は勢いが止まず、そのまま朝を迎えることが多くなった。


 いつの間にか窓から日が差し込んでいて、ベッドの上のデジタル時計を見ると「2016年7月15日 06:02」と表示されている。

 今日は何を言われるのかと思ったとき、肋骨の中央がグモモモと圧迫されるような感覚がした途端、吐瀉物が噴き出た。枕やベッドカバー、タオルケット、床に敷いた薄いカーペットに飛び散った。酸っぱい匂いが鼻を突き、吐き気が誘発されると、吐瀉物を踏みながらトイレに駆け込んだ。


 吐き気が収まり四つん這いでバスルームに移動して足の裏に付いた吐瀉物をシャワーで洗い落とした。その後、つま先で部屋中の吐瀉物を避けながら棚に入っている引き出しから体温計を取り出した。何度測っても39.6℃前後だった。


『朝早くに失礼いたします。本日39.6℃の発熱と継続する吐き気により、お休みさせていただけませんでしょうか』


 課長にメールを送ると、すぐにスマートフォンが震えた。


「お前よ、毎日怒られてるから逃げたいだけだろ。熱があったとしても簡単な事務作業できるだろうが」

「吐き気もひどくて……」

「じゃあよ、家でやれや。今日中に提出するもんもあんだろ」


 会社では欠勤扱い。でも家で働けと言われる。Q氏は言い返すこともできずにスマートフォンを置いた。パソコンを見ていても視界は二重三重になり、立ち眩み、吐き気といったせいでまったく仕事ができない。昼を過ぎたあたりから動悸が激しくなり、涙が出るようになった。


 結局内科に行き、薬をもらったが、対症療法でしかないことは十分わかっていた。心療内科に電話しても今日中には無理だという。一週間後に心療内科に行くと案の定、鬱と診断されて、休職するよう促された。


『叱られて弱る思考じゃどこ行ってもやってけないぞ』

『こうなった責任は会社じゃなくQの幼稚なメンタルだからな』

『子どもじゃねえんだからずる休みがダメってことはわかるよな』


 Q氏を責め、会社の責任を回避するメールが毎日届いた。課長の文字を見るだけで吐き気がする。Q氏は退職希望の旨を書いてメールを送ると、一分もしないうちに了承の返事が来た。Q氏はトイレに駆け込んで黄色い液体を吐き出しながら課長のような腐った人格にだけはならないと誓った。

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