鹽夜亮

 私は誕生した。それを記憶してはいない。母を知った。人を知った。愛情と呼ばれるのももう欠片を見た。睡眠欲を知り、食欲を知り、排泄を知り、五感を知った。世界というのはいかにも、刺激に溢れてることを、知った。

 成長することの痛みを、人との関わりにおける傷を、そしてそれへの対処を少しずつ覚えていった。恋の発芽を知った。それはまだ性浴の色彩を帯びなかった。人の単純さと複雑さと、集団を知った。それは永遠の命題だった。

 やがて孤独を知った。甘美で、悲劇的で、幸福なそれはあらゆる根源だとその存在を私に刻みつけた。

 離別を知った。永遠に再開することのない、写真だけの存在に生物が成ることを覚えた。心には穴が空くことを、その穴は決して埋まらないことを知った。

 性欲を知った。その衝動性は私にとって恐怖だった。しかし、原初のそれはあまりにも罪を持たなかった。それを知るのは、叶わざる性欲の屈折を待たねばならなかった。

 芸術を知った。視覚で、聴覚で、あらゆる感性で、それは私の存在へと押し寄せた。木々のざわめき、石の曲線、風の音、秋の空気、夕焼けの緋色、自然は色彩を変えた。自然とは、ただ存在するものでありながら、完成された美であることを私は了解した。

 愛情と呼ばれるものの一端を覚えた。否、それを愛情と呼べるかは今になっても私にはわからない。しかし、人々はそれを愛情と呼んだ。私はそれだけを知るに過ぎなかった。

 金を知った。悪夢のようなそれは、生命維持に不可欠であることを知らねばならなかった。私がそれを尊ぶことは遂に無かった。

 希望と絶望を知った。それは庭先の石ころのように瑣末な、取るに足らない存在だった。私はそれらを投げ捨てようと足掻いた。だが、常に手元にはどちらかを握っていた。捨てたとて、足元にはその残骸と、次のそれらがいつも転がっていた。…

 希望と絶望の先に、知性を見た。私がそれを得ることはなかった。夢のように儚く、いつの間にか覚えた煙草の紫煙のようにあっさりと、掴もうとすれば消えてしまうそれは、あまりにも魅惑的だった。

 死神を知った。それは絶望の先に、希望の先に、性欲の先に、美学の先に、あらゆる願望の先に、崖の突端に立っていた。私は初めて、恋焦がれる熱情を知った。

 夢を知った。夢は、私にとって興味深い事柄であり続けた。それは死神の出でる場所であるから、というのも間違いではなかった。夢はあらゆる私を内包していた。私は、私を知るために躍起になってそれを解読しようと試みた。正解のない問いは、永遠に思われる時を泳いだ。

 私は、私を少しばかり知った。他者を少しばかり理解した。畢竟、そこにも正解はなかった。人とは、解の持たない公式に過ぎなかった。白と黒の合間で、永遠の灰色を漂うそれらは、灰色だからこそ美しいのだと、私に投げかけた。私はそれを、了解した。そこに欠片ほどの諦めもないと言えば、嘘になるだろう。

 苦しみを知った。心、体、それは歳を経る毎に悪化の一途を辿った。生物の死へ近づく過程を、私はやっとのことで了解した。その苦痛を誤魔化す手法だけは、次第に手慣れたものになっていった。

 

 私は、私を知れなかった。

 だが、あなたは私の一端を知るだろう。

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鹽夜亮 @yuu1201

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