蒼い森に眠る

紅瑠璃~kururi

迷い込んだ森

女は森の中で眠っていた。


柔らかい早緑さみどりの下草を背に、なだらかな胸の裾野辺りで両手を組んでいる。鎖骨がくっきりと浮き出た艶やかなデコルテを縁取るのは白い絹のレース。女の肩の辺りに咲き群れる淡いピンクの花々が透明の露をたたえ、その寝顔に光を添えている。


生き物の気配がまったく感じられない静寂の森で耳を澄ますと、微かな呼吸音が聞こえてきた。私の気息と同期しているかのようだ。女の胸に手を当てると、温かい心臓の鼓動を感じることもできるだろう。


女のうなじを支えているのは、太い幹から地を縫うように伸びた木の根である。森の中央に根を張ったその木は、天を目指して高くそびえている。高い末端の枝々にまで葉が生い茂り、重なり合った葉っぱが暗緑色のフレームとなってその中に空が見える。その狭い空は、青い粒子のみを抽出したかのように青い。暗い無窮の宇宙へとつながっているのがとても想像できない明るさだ。


万物がそよとも動かない景色は何か落ち着かないものだ。せめて音をたてて蜂でも飛んで来ればいいのに…そんなことを考えながら女を見ると、胸元と同じ白いレースで縁取った裾の辺りに気になる色を見つけた。

深紅は血の色でもある。少しぞっとしながらよく見ると、草色の地面に点在する小さな野イチゴのような赤い実だった。一つつまんでみたくなるような甘い香りが一瞬鼻先を漂い過ぎた。


再び、女の顔に目をやる。

緩やかにウエーブした髪は腰のあたりまで伸びていて、いかにも柔らかそうな透き通るような金色だ。

組まれた手から首元へと目をやると、七宝のような桜色の花びらをあしらった銀の鎖が、胸の隆起に阻まれて鎖骨の方へと垂れている。そこで乱反射しているのは、花びらの露に見立てられた米粒のような水晶玉だろうか。

大きく開けた胸元の肌は白いが、身にまとった純白のドレスと比べると、わずかに赤味を帯びているのがわかる。


艶やかなルビーを思わせる唇は、毒リンゴでも食したかのように赤く、足元に散らばっている草の実の色と比べても遜色ない。

ふと、この実には毒があるのかもしれないなどと妄想してみたりする。

健やかな感性と知性が感じられる秀でた額の辺りから細い三日月眉、端整な鼻梁へと視線を移してみるが、苦痛の気配は微塵もなく、穏やかに眠っているように見える。何も不穏な要素はなさそうだ。


しかし、純白の衣装をまとって人気のない森で眠っているというのは、一体どういうことなのだろう。

そう考えたとき、胸の奥で突然不協和音が鳴った。その反動で一歩退いたとき、女が眠っている森の奥で何かが動いた。


それはやがてぼんやりとした人影となり、ゆっくりと私に近づいてきた。



「気づかないまま、先に行ってしまっていたわ」

振り返ると、同伴者が笑って立っていた。精緻な彫刻を施した金色のフレームに囲まれたガラス面に映りこんで、背後から近づいてきたのは彼女だった。


まばらに静かに人々が散策する、ここは地方の小さな美術館である。展示品の数は少ないものの、個性的な美術品が展示されていることで有名だ。


「この女の人は神話の女神か何かかな?どこかで見たような気がするのだけれど…」

ようやく絵画の中から現実に戻ってきた私は、独り言のような口調で彼女に尋ねた。

「なにを言ってるの? ここに答えがあるじゃないの」

彼女の指さしたプレートに目をやる。女神にしては赤すぎる唇の謎が解けた。

『眠れるクローディア』…それがこの絵のタイトルだった。


展示室から出て天井近くまであるガラス窓に囲まれたラウンジから外を見ると、敷地内に整えられた緑の庭園が遠くの山々を借景にして広がっている。


「つまり、ヴァンパイアか」

彼女は、私がアン・ライスのヴァンパイア・シリーズを愛読しているのを知っている。

「しかし、クローディアは子どもの姿のままで成長しないはずだが」

「だから、作者が大人になったクローディアを表現したのよ、彼女の願いを叶えるために」

なるほど、読みが深い。私の本棚にあるヴァンパイア・クロニクルズの中の一冊を読んだのだろうか。

「どの作品を読んだの?」と問うと彼女は答えた。

「一緒に映画に行ったじゃない」


カフェの窓際のテーブルから広々しとした芝生の若緑を眺めていると、紅茶のカップを皿に戻して彼女が言った。

「それにしても、不思議よね」

「何が?」と私。

「絵を展示する場合、反射グレアを防ぐための策はとっていると思うんだけど」


彼女は日本画を趣味にしていて、時々グループで展示会を催すときに絵の設置の手伝いなどしているのでその辺りは詳しいようだ。

「美術館は展示のプロでもあるわけで、絵画のガラス面に光や背景が写らないような工夫はしているはずなのに…」

「何かの拍子に照明の位置がずれたとか?」

「ずれたら直すよね」と彼女が微笑する。

声を出さずにうなずきつつ、夕食前にでももう一度確認してみようと私は思った。

そして、美術館の担当者に注意でもしようかと。



美術館にはホテルが併設されている。というよりも、ホテルに美術館が併設されているという方が正しいのか。そのホテルの部屋で、自分で淹れたコーヒーを飲みながら一息いれている間に、彼女はディナー用の少しおしゃれな装いに着替えていた。

「まだ、照明のことが気になる?」


再びラウンジに来てみると、明るかった庭園は、あちこちに灯されたガーデンライトだけが目立つ別世界となっていた。

美術館の入口近くのソファに彼女を残して、私はひとり中へ入った。

夕食前のせいか、私のほかには誰もいない夜の美術館は、また違った雰囲気を醸し出していた。


昼間よりも少し重くなったような空気の中、ゆっくりとあの絵に近づいた。

絵を照らす光源は正しく設置されているようで、絵画のガラス面には邪魔な光も影も映り込んでいなかった。そして「眠れる美女」を再びなめるように鑑賞した。


「今度は私の影が映らなかったようね」知らぬ間に彼女が後に立っていた。


時間帯によるものだったのか?しかし、何か違和感が残った。


彼女に促されて出口へと向かう際に振り向いて絵画をもう一度見たときに、通奏低音のようになり響いていた違和感の原因を知ることになる。


ふたつの虹彩が青く光って私を見ていた。

眠っているはずの美女が目を開けていたのだ。



夕食を共にしながら、私の脳は先ほど見た光景を理性的に分析しようとフル回転していた。

「なんだか寡黙ね、今夜は」彼女が言った。

あの状況をそのまま伝えたなら、多分「幻覚よ」と一言で片づけられ、その後に「知らぬ間にお酒でも飲んでいたの?」と冗談めかして笑われるだけだろう。

私の理性も「あれは幻覚だ」と連呼して私を説き伏せようとしていた。


妄想とは知りつつ、誰かがあの美女を観るたびにその人間のエネルギーを受け取り、徐々にリアルへと変化してゆくさまを想像した。

次はどこが生き返るのだろうか。


まずは目を開けて辺りを見回し、ゆっくりと半身を起こす。

あの桜をあしらった銀のネックレスは胸の谷間に形よく収まり、彼女は豊かな金髪を一振りする。

彼女が立ち上がると純白のドレスが質感をもって揺れ、絹のひだが豪奢に光る。

私はただ見とれるしかない。

そんな私の心中を見透かしたかのように女は真っ赤な唇を緩めて何かをささやく…


恐怖を感じながらも、私はあの青い瞳に既に魅入られているのかもしれなかった。


「ほんとうに喋らないのね、今夜は」

食後のコーヒーを飲み終え、カップを置いて彼女を見た。

彼女もゆっくりと視線を上げた。

瞳が青く光って見えたのは、多分照明のせいなのだろう。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16817330648117816742

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