月夜に紛れ煙を吐く

由甫 啓

吐く男

 風に揺られ燻る煙草の煙は実に風情がある。


「これが堪らんのだなあ、君。分かるかね」

 木々に紛れ男の声がする。


 空に登るは、半月と細長い雲。月明かりに照らされて、池のほとりに佇む男の姿が見える。


 切り株に一人腰を落ち着け、実に気持ちよく煙草を吸い、盛大に煙を吐き出している。が、その周りに人の姿は見当たらない。

 独り、悦に入り、煙を吐いている。


「実に静かだ。心地よくさえあるほどのしじまだ。その中において、煙草の燃ゆるちりちりという音の美しさ。吐き出した煙のたなびく様にさえ何か、軽妙な音を感じる。ああ、分からんだろうなあ! この気持ち良さは!」


 池に浮かぶ月の笑い顔に男は煙をふーっと吹きかける。煙に揺れ、浮かぶ月がその姿を曖昧にしながら揺れ動いている。


「そもとして、この心地よい感情を誰かと分かち合おうなどとは思わぬ。これは己が感情だけであれば良い。この世界において、ただ一つ。ここにだけあればよい」


 さぁーっと吹いた一陣の風に生い茂る緑青が揺れ動く。

 一筋の煙が空へ空へと細く細く昇っていく。

 その煙の尾が長く続けば続くほど男は郷愁が胸に募るのを感じる。いや、感じずにはいられなかった。


「まだ夜は更けゆくというのに、これが吸い終われば帰らねばならぬ。嗚呼、もう半分もない」


 幾度もこの池のほとりでこうして独り、煙草を以って煙を食んできた。

 その幾度もはいつだって男に吸えば終わってしまうことへの寂しさを、侘しさを感じさせる。


 それを男は儚さだと思う。この思いは独りでなければ味わえぬ。


 心を満たした煙を吐き出せば吐き出すほど厚くなるかのように、男の頭上で雲がその勢力を広げていく。

 男は味わうように煙を噛み締め、空をみやる。


 月は、半月ではあるが実に美しく雲を寄せ付けんとばかりに光っている。

 半月であるから、満月にはないより一層の美しさを感じるのやもしれぬな、とぼそりと呟いた。

 そして、半月であることが満ち足りぬ事への想いを募らせるのだろう。


「夜が更けいづこより出でた雲が月を隠す。暗雲。そう、暗雲だ。この吐き出す白く美しい煙と相対するような、濃くどよりとした黒き煙」


 さらさらと一際強い風が池を揺らしていく。雨が降る予兆だろうか。


「あの酷く濃い黒を吸い吐き出す輩がこの空の下、どこかにいるのだろうか。いるのであれば何故、斯様な煙を吐くのだろうか」


 勿論、そのような煙を吐ける煙草がいづこにも無いであろうと分かっている。

 だが、もしあるのならそれはどの様な味わいがあるのだろう。どのような香りが烟るのか。


 男はぶるりと肩を震わすと煙草を惜しみながら、また吸えるようにと先端だけ丁寧に揉み消した。


「曇天ともなれば帰るのも一苦労か。急ぎ、帰らねばならんなぁ。惜しいが、止むをえん……」


 男は立ち上がると、空を一度見上げた。黒い雲が月を、空を覆い隠そうとしている。そうなるように風が吹いている。


 月が隠れれば、明かりがなくなる。この辺りは町より離れている。全く暗くなれば幾らかは彷徨わねばなるまい。


 男は駆けるような早足で池を後にする。些か遠出をし過ぎてしまったと頭を後悔が駆けてゆく。

 それでも煙草を吸うならあの場所と決めているのだ。

 爺様より貰ったキセルは、その取り回しから最近の流行りである紙巻へと変わってしまったが、その習慣だけは変えずにいた。


 気づけば辺り一面がただ黒であった。

 走る足も、木にぶつかれば大事と遅くなり、目をきっと凝らしながら、大凡の方向をなんとはなしに歩いていく。

 突き出した手が掴むのは黒い煙のような闇ばかり。


「はて、そろそろ森を抜けていいはずだが。しかし……なにやら臭い。酷い臭いだ」


 鼻を思わず摘みながらも暫し歩けば、黒い煙のような闇の帷がはたと開け小高い丘に飛び出した。

 淡い月明かりに照らされて、仄暗い。森を抜けた安堵感に、走り乱れた着流しを正しながら、辺りを見回して男は眼下に広がる光景にくらりとする衝撃を覚えた。


「これはどういうことか。あれらはなんだ!」


 男の前には筒があった。十人、いや、もしかしたらもっと居なければ囲うことも出来ないのではというほど巨大な筒。

 それが何本も、何本もと地面から聳え立っているのだ。その先からもくもくと黒い煙が吹き出し、空を黒く染め上げていく。


 その根元には何もない。ただただ、荒地にぱくりと開いた亀裂より太く天を衝くような巨大な筒が突き出ている。

 工場の類いでは決してない。であればあれはなんだ?


 悪臭の正体はあれだろうか? であればここはどこか。もしや、日の本ではないのではないか。いつの間に、他国へと、何か妖怪変化の類に飛ばされたのではあるまいか。


 実に異様な光景であった。

 両の手では足りぬ。それ程の筒が幾本も寄り合って、濃く黒い煙を吐き出している。


 友人たる学者先生が、昨今工場をバカスカと建てすぎである。などと口にしていたのが頭を掠めた。

 もし、地球が生き物であれば咳き込んでしまうに違いないよと。


 しかし、どうだ。その煙の吐き出しっぷりたるや、中々の好き者である。

 余程の煙重篤者だ。

 その姿は何とも奇妙に気持ちがよさそうに見えるが、同時に男を見るときの妻の気持ちが分かる気がした。


「地が煙草を吸うなどとは正に面妖なことだ。あれほどの煙をもうもうと吐き出せば、空が地が汚れてしまうのではないか……」

 そして、それは男の体にも言えるのだと思わず、唸る。


 まさに自分なのだな。独り、煙を食んでいるこの星は自分なのだ。それを非難する言葉を吐いたことを思いバツが悪い。


 きりと、決意を固めると震える手で男は懐から吸いかけの煙草を取り出した。暫くじっと見据えたのち、やはり……いや、しかし……これで最後……後生であるから……でも、勿体ない……だが……と酷く悩んで、なんなら叫びそうになるほどの慟哭をも、ぐっと飲み込んで煙草をぽいと投げ捨てた。


 拾いたい気持ちに突き動かされたが、空を突かんばかりの何本もの煙草をきっと睨むと振り切るように元来たと思われる森へと駆け込んだ。


 さらば、同好の士よ。

 あの池を通じ、声を聞いたが故にあの場へ誘ったのだろうか。もしかすると話を交わす様に煙を交わしたかったのかもしれぬ。


 周りからどう見えるか諭そうとして見せた夢幻なのやもしれぬ。走り去った今となってはもう、何とは分からない……。

 


 爽やかな風が頬を撫でた。


「ん、これは。はて、寝ていたのか」


 男は切り株に座って煙草を吸ってるうちに、うとうとと舟を漕いでいたらしい。


 手には残り半分ほどまで吸った煙草が一本。その先で煙が薄くけぶっている。

 何やら、酷く怖い夢を見ていたような気がする。それが何であるかは思い出せないが、何か妙にやらねばという気持ちがある。


「……うむ、これもまたいい機会か」


 男は煙草に灯った火を消すと、足早に帰路に着いた。

 月は辺りを明るく照らしており、雲は風に吹かれるまま流れていく。


 帰宅して、脱いだ着流しは妙な異臭がこぶりついており、嗅いだ男は思わず顔をしかめたが、はてどこで染み付いたのか。全く思い出せなかった。


 その男は煙草を辞めたその日、中々取れぬ臭いに怒る妻に、煙の代わりに弱音を吐いた。

 その味は存外悪くなかったとは本人の弁。

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