その言葉に意味を足したい

新巻へもん

警察を作った男たち

「まったく。実に嘆かわしい」

 ヘンリーは苛立たし気にデスクの表面を指で叩く。

 ロンドンの治安判事を務めるヘンリー・フィールディングは、あまりに非効率な犯罪捜査や訴追に頭を悩ませていた。


 イギリスにおいては住民自らが地域の安寧を図るべきという考えが根付いており、国家が組織する警察組織は存在しない。

 盗賊捕獲人と呼ばれる存在が個人的に犯罪被害者から依頼を受けて犯人を追跡する業務を行っていたが、あくまで私的なものであり弊害も大きかった。


 盗賊捕獲人はもともと自分自身が犯罪行為に手を染めていたことが多く、そのために裏社会のことに通暁しているという側面がある。

 犯人を追跡して当局に通報して報奨金を得たり、被害者から盗品の買戻しの依頼を受けてその手数料を受け取ったりして生計を立てていた。


 江戸時代の町奉行所の組織の末端に連なる目明し、岡っ引きの類とある意味よく似ている。

 岡っ引きは正規の役人である同心に個人的に雇用されている立場であり、十手を預かったと称しているのはそのことを表していた。


 そして、江戸の町には町奉行所や火付盗賊改方に計100名を超える治安維持を行う役人が配属されている。

 実際にはこれでも手は足りていなかったようであるが、ロンドンにはその100名さえ存在しなかったのだった。

 18世紀初頭のロンドンと江戸の町人人口はほぼ同数とみていい規模であり、その異様さが理解できると思う。


 盗賊捕獲人がきちんと職務を果たしているならそれでもいいのだが、実際には様々な弊害があった。

 報奨金目当てに犯人のでっち上げも行われたし、十分な報奨金が見込めないときは犯人からお目こぼしの金を強請るようなこともしている。


 また、自らや配下のものを使って物を盗んでおき、被害者から依頼を受けて買い戻すという自作自演も行われていた。

 ジョナサン・ワイルドはそういった裏の顔を持つ盗賊捕獲人として有名な一人であり、悪事が露見して絞首刑となっている。


 ヘンリーは安楽椅子に腰かける弟のジョンに話しかけた。

「やはり盗賊捕獲人には限界がある。多少は盗みの手口を知っているかもしれないが、追跡、調査、尋問などに関しては素人だ。我々は知識や技能を持ち規律正しい巡査を持つべきだよ」


 目の上に布を巻いたジョンは兄の方へ顔を向ける。

 ジョンは外科手術の失敗のために失明しており、傷跡を隠すために布をつけていた。

「兄さん。その考えは正しいと思うよ。でも、二つ問題がある」


 ジョンは右手を上げて人差し指を立てる。

「巡査も人間だ。いくら理想論を唱えても自らや家族を養うための金が必要だよ」

「ああ。そうだな。私は政府に掛け合って彼らに払う俸給に当てる資金を獲得するつもりだ。金額は週1ギニー。この金額なら忠誠を期待できると思うね」


 1ギニーは21シリングの価値があった。

 職工の週給が8シリングであり、その2倍強に相当する。

 ジョンは左手で拳を叩いた。

「素晴らしい。それはいいアイデアだ。じゃあ、もう一つの懸念材料を言うよ。市民は盗賊捕獲人に辟易している。いくら能力や士気を高めても市民の協力が得られなければ十分な活動はできないだろう」


「確かに。新しい酒は新しい革袋に盛れ、だな。巡査というのは耳慣れないし、近寄りがたい。何か親しみやすい呼び名をつけよう。治安判事の事務所のあるボウストリートにちなんで……、ボウストリート・ランナーズというのはどうだろうか」

「それはいいね。響きもいいし、親しみやすそうだ」


 ボウストリート・ランナーズ。

 こうして近代警察の礎が築かれる。

 ヘンリーの死後、その業務を引き継いだジョンによってボウストリート・ランナーズは着実な成果を挙げた。


 紆余曲折を経てボウストリート・ランナーズはロンドン警視庁スコットランドヤードに吸収される形で発展的解消を遂げる。

 しかし、近代警察の幕開けは間違いなくボウストリート・ランナーズによって始まったのだった。

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