読みながら胸は苦しくなるし、それでも、スクロールは止まらないし、色んな意味で大変だった。あいりちゃんはイマジナリーフレンドなんだろうけれども私も子供の頃、あいりちゃんみたいな子がいてその孤独の深さを思い出した。
読んでいて今の社会の根深い闇を突きつけられる。そして、自分自身の生きづらさも。
今日、家の近くの路線で人身事故が発生した。死んだその人はどんな思いで飛び込んだのだろう。
優雅たちのように死にたくて集団自殺を計画したり、それで閉鎖病棟に入院したりしているか弱い人は知られていないだけでたくさんいるのだろう。
苦しくはなるが辛い時はむしろ、悲しい物語を読むと救われることもある。
本作のおもな登場人物は、主人公『俺』と、タルパ、つまりイマジナリー・フレンドとしての恋人である『あいり』と、物語の途中で、奇妙な出逢いをして昵懇の仲となる女性、『田中さん』である。
主人公は鬱病に罹患しており、曩時から自殺願望があるのだが、前述のとおり、タルパである『あいり』は、主人公の擬似的な恋人であり、想像上の恋人であるため、必然的に、主人公が自殺すれば、あいりも消滅してしまう運命にある。
愚生は最初、この『あいり』という存在を、主人公が死ぬことで同時に死ぬ構造にあるので、主人公の『人生』そのもののメタファーとして読んでいたが、中途から、『あいりこそが鬱病のメタファーではないか』とかんがえるようになった。
鬱病患者が生きているかぎり、鬱病に懊悩し、殪死することでしか、鬱病と訣別できない、という構造が、想像上の恋人であるあいりという存在と一致するからである。
主人公にとって、想像上ながらも恋人であるあいりは、生きることそのものであり、そうであるがために、構造上、主人公は『鬱病の御蔭で生きている』ことになる。
鬱病患者の主人公は、鬱病そのものを恋人として生きているのだ。
気障な表現をすれば、『鬱病患者にとって、鬱病こそが生きる意味なのである』ともいえる。
その反対に、集団自殺をこころみた爾時に邂逅した田中さんは、やがて、主人公にとってかけがえのない存在になり、主人公が『生きる』ことに喜びをかんじるきっかけとなり、だからこそ、主人公は破滅的な終焉をむかえることとなる。
つまり、『死ぬ』ことを象徴するあいりのために生きてきた主人公は、『生きる』ことを象徴する田中さんのために、『逆説的に死へむかう』ことになる。
斯様にかんがえれば、『あいり』が最後、主人公に囁嚅する言葉が、『生きることの象徴』である田中さんをえらんだ主人公へ、『あいり』からおくられる『さようなら』であり、『鬱病からの解放』を意味すると読むことが出来る。
本作は、我我に、『鬱病患者は、自殺すれば鬱病から解放されるが、同時に、自殺することで鬱病という人生の伴走者と訣別する悲劇にもなる』という鬱病の逆説をおしえてくれる。
つまり、運命とやらが、我我に才能やら仕事やら個性やらを授けるのとおなじく、鬱病患者は鬱病という厄介なプレゼントをおくられて生まれてきているのである。
本作は、鬱病という親友とともに生きるか、鬱病という親友と訣別して死ぬか、という鬱病患者の悲劇的な、あまりにも悲劇的な二律背反をえがいた、鬱病文學の傑作である。