最終話 よかったね

 萌香の家に住むようになって、2ヶ月以上が過ぎた。俺も萌香も、いつも部屋でぼーっとしながら酒を飲んで過ごした。常に酩酊して、空っぽの頭で過ごした。死ぬこと以外は何も考えずに過ごした。俺の貯金は尽きているから、資金面は萌香の過去の援助交際での貯金に頼っていた。


 ある日、萌香は妊娠検査薬を使った。結果は、陽性だ。


「赤ちゃんができた!」と萌香は笑って言った。

 

「子供ができたら優雅と一緒に死ぬ」と萌香は何度も言っていた。俺と萌香は遂に死ぬことになったのだ。萌香が妊娠したら2人で死ぬ、というのが2人の間の共通認識になっていた。だからセックスする時に避妊は絶対しなかった。破滅に向かう日々だった。


 ある日、薬局でDXMを買った俺は、部屋でODし、トリップして、幻覚を見ていた。

 俺の見た幻覚は、俺を現実の世界から解離させ、死後の世界へと誘った。

 同じ部屋にいる萌香の存在が【死者】に見えたのだ。萌香は死んでいる。そして俺も死んでいた。

 俺は萌香のベッドで横になっている。

 萌香は、とても心配そうな顔をして、優しく俺に言葉をかけてくる。


「優雅も私も、もう死んでるんだよ。ここはあの世なんだよ。また生まれる順番が来るまでは、私たちは底でずっと歯車になるの。順番が来るまでは、ずっと歯車のまま」


 俺は怖くなって、萌香に聞く。


「ずっと歯車にならないといけないの?」

「うん。ずっと」

「俺は一人ぼっち?」

「一人ぼっちじゃない。私もいるよ。死んだ人はみんなこうなるの。死んだ人はみんな、自分の順番が来るまでは歯車になってるの。でもいつか必ず順番が来て、また生まれることができるよ。それが数年後か、数千年後かは、わからない」


 ああ、俺は死後の世界に来てしまったんだ。俺は歯車になってしまったんだ。順番が来るまでずっと、歯車だ。ここには誰もいない。俺は一人ぼっちで、歯車にならなきゃいけない。

 俺は、遂に死んでしまったんだ。

 俺は、自分が死んでしまったという事実がとても怖くて、心細かった。

 これから俺はずっと歯車だ。萌香のベッドに横たわる俺は、あまりの恐怖で、大きな悲鳴を上げた。

 すると萌香は心配そうに、俺の顔を覗き込んだまま、優しく声をかける。


「優雅も私も死んじゃったんだよ。でも怖くない」


 俺は萌香が死者に見える。萌香も死んでいる。死んだ萌香の顔を見るのが怖くて、俺は何も言葉を発することができない。

 俺は枕元に置いていた自分のスマホを見る。すると、時間は14時26分だった。前スマホを見た時から、もう5時間は経ったような気がするのに、まだ3分くらいしか経ってない。時間感覚がめちゃくちゃになってしまった。

 

「助けて、萌香。俺は死んで、歯車になっちゃった」


 絞り出すようにして、俺は萌香に助けを求める。萌香は泣きそうな顔をして、俺のそばに立っている。


「いつか生まれる順番が来るから大丈夫だよ」

「それまでずっと歯車にならなきゃいけないの?」

「優雅は大丈夫だよ」

「いや、だめだよ。俺も萌香も歯車になっちゃった。俺も萌香も死んじゃった」


 俺は恐怖のあまり、泣きそうになった。

 体は途轍もなく重くて、鉛のようだったが、立とうと思えば何とか立てる。俺はベッドからゆっくりと立ち上がって、ゆっくり歩いて、萌香に抱きついた。

 その際にバランスを崩して倒れて、俺は萌香をベッドに押し倒す形になってしまった。俺は再び立ち上がり、部屋から出ようと思った。

 平衡感覚が狂っている。何度もバランスを崩して転びそうになるが、俺は何とか部屋を出た。部屋を出て、少し歩くと、階段がある。

 俺が階段を降りようとすると、後ろから萌香が来て、俺の腕を掴んだ。


「今は動いちゃ駄目。ベッドで寝てて」


 俺は振り返った。死者である萌香の目を、俺は、じっと見つめた。萌香の顔を見るのはとても怖かった。


「こっち来て」


 と萌香が言ったので、俺は萌香についていった。そして、またベッドに横たわった。俺は死んでしまった。俺は死んでいて、萌香も死んでいて、とても怖かった。


 ◆


 結局、俺の「幻覚・妄想」は、翌日になるまで続いた。俺が徐々に正気を取り戻すと萌香は安堵した。

 俺はバッドトリップしてしまったのだ。そのせいで俺は臨死体験をした。

 俺がDXMをキメた翌日、萌香もDXMをやりたがった。萌香はDXMをやったことが一度もなかった。

 

「気持ちいいけど、バッドトリップすると怖いよ」と俺が忠告したが、「私もやる」と言って聞かなかった。


 萌香は薬局でDXMを買い、部屋でODした。そしてしばらく時間が経つと、「あはは、私ラリってる。超気持ちいい!」と言って、萌香は気持ち良さそうな顔をしていた。目がトロンとしていた。

 何が楽しいのか分からないけど、萌香は一人で大笑いしていた。

 数時間後、案の定、萌香はバッドトリップしていた。

 ベッドに横になってる萌香は、「神様と会ってきた」と、死んだ目で何度も言った。


「萌香は今、死んでる?」と質問すると、


「死んでる。優雅、助けて。怖い。私、死んじゃった……」


 と泣きそうな声で言った。


「大丈夫だよ。怖くないよ。萌香」


 と萌香に言ったが、俺の言葉が今の萌香にどういう風に聞こえているのかは分からない。

 萌香の表情は酷く怯えているようだった。


「優雅も死んでるの?」

「俺も死んでるよ。だから寂しくないよ」


 と言って、俺は萌香の頭を撫でた。

 DXMでバッドトリップしている時は、自分がひどく孤独に思えるし、他者が怖く見える。だから萌香は今、俺が怖く見えているかもしれない。

 トリップすると、世界の向こう側に行ってしまったような感覚に陥る。そして、その妄想の世界が本物の世界なのだと錯覚してしまう。だからきっと、どんな言葉も今の萌香の救いにはならない。俺が何も言わずとも、萌香は妄想の世界の中で俺の言葉を聞いているはずだ。きっと恐ろしい言葉を。


「優雅、怖い。助けて。死んじゃった」

「大丈夫だよ」


 萌香はずっと怯えている。

 

「悪い神様に会って、否定された」


 萌香は悪い神様に会ってしまったらしい。俺は死後、歯車になる妄想に囚われたが、萌香は死後、神様に会って、怖い思いをしたようだ。

 

「怖い。助けて優雅。死んじゃった」


 そう言って、萌香はゆっくりベッドから起き上がった。そして、萌香はフラフラ立ち上がって、俺に抱きついてきた。萌香の体は脱力していて、今にも崩れ落ちそうだった。


「神様に会った。私は死んじゃった」


 俺の耳元で萌香が言う。

 俺は、萌香になんて言えばいいのかわからなかった。


「大丈夫だよ、萌香。俺がついてるから」と抱きながら言った。


 すると、萌香は俺から離れて、部屋から出ようとした。


「どこ行くの?」と聞いたが、萌香は無言だった。萌香は覚束無い足取りでフラフラ歩いて、ゆっくり部屋を出ようとする。

 俺は萌香の腕を掴んで、


「駄目だよ。今は危ない。ベッドで寝てて」


 と言った。

 すると萌香は、


「うん……」


 と言って、フラフラとベッドに戻っていった。そして萌香は横になり、目を閉じた。


 ◆


 翌日になると、萌香は徐々に正気を取り戻していった。


「バッドトリップ怖かったけど、めっちゃ気持ちよかった。癖になりそう」


 と萌香は言った。

 たしかにバッドトリップは恐ろしい。だが、DXMそのものはとても気持ちが良いのだ。しかし、DXMは耐性が付きやすいとされており、適度に間隔を空けなければならない。


「シラフに戻ると退屈だよね。DXMがずっと効いてる状態だったら人生すごく楽しい」


 と俺が言うと、


「そうだね。シラフは退屈すぎて死にたくなる」


 と萌香は言った。

 今、平日の昼間だ。

 俺と萌香は一階に行って、ウイスキーや缶チューハイを萌香の部屋へ持っていった。

 そして俺たちは、萌香の【妊娠祝い】をすることにした。

 萌香が妊娠したら死ぬ。それは2人の決め事だった。

 俺と萌香は平日の昼間から酒を飲みまくる。そして、頭を空っぽにする。俺も萌香もすぐ酩酊した。紅潮した顔の萌香が言う。


「優雅、硫化水素で死ぬのめんどくさいから、やっぱり電車で死なない? 2人で手を繋いで線路に落ちるの」

「そうだね。もう痛いとか痛くないとかどうでもいいや。電車で死のう。快速列車」

「赤ちゃんの性別どっちだと思う? 私は女の子だと思う」

「じゃあ俺も女の子」

「赤ちゃんも含めて3人で死ねる。あいりちゃんも含めれば4人か」

「いっぱいだね」


 あいりは今も、この部屋にいた。俺に話しかけてくることはほとんど無くなったが、ずっと俺と一緒にいた。俺が生きている限り、あいりは存在するのだ。


「明日の朝、電車で死のうか」


 と萌香が言う。

 

「うん」


 と俺は答える。

 練炭自殺には失敗したが、快速列車での自殺には必ず成功するだろう。早かれ遅かれ、俺はいつか必ず自殺するつもりだった。自閉症の社会不適合の引きこもり。俺には生きている価値がない。どこかにあるだろうと思っていたが、どこにも無かった。探す熱意ももう無かった。クソみたいな23年間の生涯だった。それに悔いもない。


「萌香はどうして死にたいの?」と聞く。


 すると萌香は、


「考えすぎて、もうよく分かんないよ。生きるのがめんどくさいだけ」


 と言った。


「優雅はどうして死にたいの?」と萌香。

「俺はもう、人生どうでもいいから」


 俺と萌香はずっと酒を飲んでいた。頭は空っぽだった。


 ◆


 翌朝、俺と萌香は◆◆駅のホームにいた。今の時間は9時を過ぎたところだ。俺と萌香はスウェットを着ていて、2人で並んで椅子に座って、缶チューハイを飲みまくって、酔っ払っていた。周りからは奇異の目で見られているだろうが、そんなのはどうでもよかった。

 2人で酒を飲んで、酔っていた。頭を空っぽにして、その時が来るのを待っていた。酔って、少しでも恐怖を減らしたかった。

 死ぬまでに人間が感じる苦痛は、本来であれば数十年に渡って分散される。だが、俺たちは今から、その数十年分の苦痛を一点に集中させて、一気に全てを清算しようとしている。

 数十年分の苦しみを一瞬の間に凝縮するのだから、自殺が痛くないわけがないし、怖くないわけがない。でもその痛みや怖さを、憂鬱や絶望が上回ることがある。俺は高校生の頃からずっと漠然とした絶望感に覆われていた。その正体は希死念慮だった。


「死ぬの怖い?」と萌香に聞くと、「全然怖くない」と返ってきた。


「優雅は怖い?」と聞かれたので、「俺も怖くない」と返した。


 怖くない、と返したが、本当は少しだけ怖かった。でもいつかは覚悟を決める日が来るんだと知っていた。それに、俺には萌香がいる。

 ふいに、萌香が俺の手を握ってきた。俺も萌香の手を握り返す。手を繋いだら、萌香の手汗がすごかった。

 

「私の手汗すごいでしょ?」

「うん。すごい」

「私、本当は、死ぬのが少し怖い」

「実は俺も」


 俺たちは無言になった。

 静寂を切り裂くようにして、俺は言った。


「怖いなら、死ぬのやめる?」


 すると萌香はしばらく経って、こう言った。


「怖いけど、私は死ななきゃいけない。幸せなんて要らない。希望も無いのに無駄にダラダラ生き延びるくらいなら今死ぬ」

「俺も自分が死ななきゃいけない立場の人間だって知ってた。ずっと昔から。ずっと昔から死にたかった。俺は死ぬために生まれてきた」


 俺の手を握る萌香の力が強くなる。俺も萌香の手を強く握る。


『間もなく1番線に快速列車が参ります。危険ですので黄色い線の内側までお下がりください』


 アナウンスが聞こえた。

 

「行こう」


 と俺が言って立ち上がると、


「うん」


 と言って萌香も立ち上がる。

 電車は大きな音を立てて近づいてくる。

 俺と萌香は強く手を繋いで、周囲の人を避けながら、線路側へと向かう。黄色い線の外側まで行くと、電車は警笛を鳴らした。周りの人達が少しざわついてるのが分かる。電車が轟音を鳴らして近づいてくる。

 電車は左側から来ている。

 俺は左に立ち、萌香は右に立つ。このまま線路に着地して死のう。

 電車がそばに来た。

 俺たちは手を繋いだまま同時に飛び降りて、線路に着地した。

 そして俺は強く目を閉じた。

 俺は今から、生まれて初めて、救われる。

 

「──よかったね」


 と、耳元であいりの声がした。

 







 〜完結〜

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引きこもり男と妄想彼女 Unknown @unknown_saigo

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