難信人

世良ストラ

難信人

「信じられない!」

「あれもこれも信じられない!」



 あるとき、人は疑い深くなった。

 いや、信じ難くなった。

 『難信』になったんだ。

 そんな人達は難信人って呼ばれていたけど、それはほんの一時のことだった。

 というのも、これは世界の至るところで爆発的に起きていたし、すぐに全人類が難信人になったから、区別して呼ぶ必要なんてなかったというわけさ。


 さて、ここで誰しもが疑問に思う。

 なんで難信になったのかと。



「DNAの塩基配列が突如として変化し、人間が作り替えられたのだ」



 というのがその当時の主流だった。


 これを簡単に言い換えるために本棚をイメージしてみる。

 その本棚の中には既読の本も、もちろん未読の本もあって、既読の本の情報が人間を作っていたんだ。

 そんなある日、ふと本棚を見ると見知らぬ本が入っていた。



「あれ? これは何だろう?」



 とその本を手に取り読んだ。

 実はその本のタイトルが『難信』で、そこに書かれていた情報が人を難信に変えてしまったというわけさ。



「パンドラの箱が開かれたのだ!」



 と喚く人もたくさんいたけど、実際のところ理由はわからない。

 そうやって理由を探ったところで、誰も彼も難信人なのだから信じやしない。

 第一、理由が正しいとしても、なんでパンドラの箱が開かれたのか、そのきっかけは何? ということだよ。



「つい先日、彗星が地球へ急接近したことにより、地軸がずれ、地磁気が変化し、それが人間に作用したに違いない」



 と物理学者はいい。



「某国の兵器実験が暴走した結果だ」



 と軍事ジャーナリストはいい。



「これは神から下された天罰なのだ。甘んじて受け入れるしかないのだ」



 と宗教者はいった。


 どんな説が唱えられようとも結局は説でしかなく、きっかけすらもわからないまま……。

 とまあ、きっけかは何であれ、難信は人から人へと感染するように瞬く間に広がった。

 そんな中、自分という存在までをも信じられなくなる人が出てきたんだ。



「俺は本当にここにいるのか!」

「わたしは一体なんなの!」



 と自己を失い、精神がおかしくなる者、自ら命を絶つ者まで増えていった。

 といっても、こんな極端な事例はほんの一部で、多くの人が、自分の存在だけは、何の疑いもなく信じ続けていたのだから面白いよね。


 ともあれ、難信人で覆われた社会で最も問題になったのがお金というものだった。

 お金とは数字の書かれた紙や鉄の玉のことで、国を統治する政府が、その価値を保証していた交換チケットのようなもの。

 それの受け渡しを主に社会は動いていたんだ。



「この大根と百円を交換しましょう」

「この百円と人参を交換しましょう」



 という風に、物をお金に変えて、今度は、お金を物に変えていたんだ。

 物以外にも、相手のために尽くすようなサービス――形のない財――に当てはめても同じことだよ。


 実はこのお金、政府がその価値を保証するだけでなく、使う側のみんながその価値を信じてこそ、交換チケットとして機能できていたらしい。

 逆に言えば、政府と大勢の信用さえあれば、紙や鉄の玉以外であってもお金として利用できていたんだ。

 ところが、難信の世界になった。



「この紙に、お金としての価値が本当にあるのか?」

「この鉄の玉がなぜ、お金として利用できていたのかしら?」



 と難信人は思ってしまった。

 そもそも、政府を動かしていた人達も難信になったのだから、政府自体が機能しなくなっていたし、ましてや、お金の価値を保証することなどできるわけがなかった。

 お金をお金たらしめるその信用は完全に失われたんだ。

 結果、お金はその価値を失い、お金だったものはただの紙切れと鉄の玉と化した。

 そして、お金というたったひとつの物が消えただけで、社会はその活動を停止した。


 けれども、地球上に人間がいることには変わりない。



「生きていきたい!」

「食べ物が欲しい!」



 と思うのが人間の本能さ。

 ならば、どう社会活動を再開させるのか。


 最初に思いついたのは物々交換だった。

 やっていることはお金の世界とさほど変わらないけど、今まではお金というクッションを介していたのを、ブツやサービスそのもの同士を交換するようになったんだ。



「この時計と大根を交換しよう」

「部屋を掃除するから人参と交換してくれ」



 という具合にね。

 でも、そう言われた相手の反応というと。



「それは本当に時計なのかい? 大根と同じ価値があるのかい?」

「部屋をちゃんと掃除してくれたのかい? この掃除と人参は同じ価値なのかい?」



 その本物さや価値は目に見えず、お金と同じように信じ難いことには変わりなかったんだ。

 それでも、お金よりはまだ実体感があったのか、物々交換の試みは、止まっていた社会の歩みを数歩だけ進めた。


 だけど、その当時、交換に耐えうるブツ量を持っている人などそういなかった。

 特にこれは都会の人間に顕著だったんだ。

 彼らは実体のない電子情報や、サブスクといった借り物ばかり持っていたから、物々交換に使えるような自分のブツが少なかった。

 さらに言えば、それをサービスで補おうとしても限界があった。

 ブツそのものに比べて、サービスはその価値を測りにくかったし、交換しても自分のものになったことを実感しにくかったから、難信人同士の物々交換では、サービスは劣勢に立たされていたんだよ。



「それじゃあ、この物々交換の世界では誰がリッチになったの?」



 と思うわけだけど、難信以前の世界では人手不足に悩まされていた第一次産業の方が、億ションに住んでいる人よりもリッチになったんだ。

 だって、彼ら農家などは食料を生み出すプロだったから、交換先のほとんどが彼らになり、彼らにサービスやブツがどんどん集まっていくのは自然な流れだったというわけさ。


 だからといって、今までリッチだった人達がただ指をくわえているはずもない。

 彼らは、世界共通認識としてあるはずの時間を、お金の代わりに使えないかと試みた。



「数字の書かれた紙や鉄の玉よりも、時間の方がずっと信じられるに違いない!」



 という時間マネーの登場だ。


 この時間マネーには大きく二つの種類があった。

 その一――人がその場に留まっていた時間が時間マネーになり、交換に使えるというもの。

 その二――小説からパクったらしいけど、時間の入った時間缶を交換のブツとして使うというもの。

 時間缶について補足すると、缶詰とか瓶とかの入れ物の前に時計を置き、一定時間経った後に蓋を閉めた物のこと。

 そうすることで、その入れ物には経過時間が封入されている、と見なすものだったらしい。


 でも、ここで考えてみよう。



「その場に留まっていることに、一体なんの価値がある?」



 誰の目にも、交換に値する価値がないことは明らかだった。



「時間缶を使ったところで、一体なんの価値がある?」



 封入された時間を使ったところで、その当時は無価値だった。

 お金で動いていた世界、お金のために働いていた世界ではたしかに価値があったと思う。

 例えば、働いている最中に時間缶を使うと、封入時間分は仕事から解放されて自由になる。

 その上、その時間分のお金は貰えるとなったら、誰しも喜んで使っただろうね。

 だけど、世界は変わってしまった。

 そんな自由な時間ができたところで、なんの腹の足しにもならないというわけさ。


 なんにせよ、この時間マネーの試みは一瞬だけ盛り上がり、あとは風船がしぼむ、というより、風船に針を突き立てたようにパッと消えてなくなった。

 その頃には、住む場所さえも交換して失う人が続出し、インフラも不安定になり、それでも物々交換のブツは手元から消えていくばかりで、飢えで亡くなる人も増えてきていた。

 でも、人間はまだまだ生きている。

 その生きたいという本能が導くように、物々交換に時間マネーを足して、それを二で割ったようなシステムが誕生したんだ。



「交換できるブツがないなら働け。働いて食料を作れ」



 何より生存が第一の人間にとって、第一次産業下で労働し、その労働時間を食料と交換するのが主流となっていった――『人間労働時間』が物々交換のブツになったんだ。

 この瞬間、お金の世界での上下関係は完全にひっくり返った。



「まあ、何はともあれ、これで安心して生きていけるんだ」



 と丸く収まるかと思いきや、まだまだ問題は山積みだった。

 というのも、この人間労働時間システムの上に立ち、命令する人達も、もちろん難信人であったわけで、彼らは当然のようにこういったんだ。



「本当にその時間分ちゃんと働いたのか? 信じられるわけがない」



 どれだけ働こうとも、人間労働時間の価値を正しく評価してもらえず、その結果、食料との交換は滞り、野垂れ死ぬ者が出てくるなど、未だ状況は好転しなかったんだ。


 だけど、こういう時にこそ希望の光が見えるものさ。

 あるとき現れた変人がこういったんだ。



「俺はタイムマシンに乗って、過去を見てきた」



 ここでは、「タイムマシンなんてあるわけがない!」とか、「そんなものを作っている暇があったのか!」とか、「過去に戻れるなら難信の原因を探り、止めてこい!」という突っ込みはなしにしよう――特に、過去の原因を消せたとしても、既に難信になっている世界は、紙を切って貼ったように急に変るわけではないだろうしね。


 この変人も過去の原因を突き止めても無意味だと思っていたのか、時間を正確に指定できなかったのか、ただの嘘だったのか、彼が遡ったのは一万年以上も前の縄文時代で、彼の見てきたその頃の暮らしぶりとはこういうものだった。



「彼ら彼女らは、必要な分だけ食料をとり、服を作り、家を作り、食料だけでなく全てを皆で分かち合っていた。しかも、小さくともその集団では皆対等で、各々誰かに命令されることもなく、皆遊ぶように自由に生きていたんだ」



 実際はもっと長かったらしいけど要点だけつまむとこういうこと。

 もちろん、彼の言葉――特にタイムマシンについては――誰も信じなかったし、これを『変人の与太話』と捉える人がほとんどだったけど、彼の見てきた縄文の世界観を聞き、あることをふと思う者が出てきたんだ。



「所有、責務、ヒエラルキーとはなんだ?」



 所有っていうのは自由に使い、処分できる権利を持っていることであって、例えば、コップを考えてみよう。

 コップをただ手に持っているだけでは所有とはいわなくて、『自分のものとして』持っていること、名前入りコップを持っているようなイメージが所有なんだ。

 たしかに、コップなら手に持てるからまだ所有感はあるけど、その当時、人よりうんと大きな土地でさえも所有しているといっていたんだよ。

 でもだよ、縄文の世界では全てを分かち合っていたと。



「その食料は俺のもんだ! 誰にも渡さねえ!」



 なんて所有を巡って争うこともなかったと。

 思えば所有なんていう概念も、お金の価値と同じように目に見えないものであって、なぜ今まで、それを疑うことなく信じ続けていたのか? と疑問を抱いたわけさ。


 次に、責務っていうのは各々の立場において当然果たすべき事柄のこと。



「お前は〇〇なんだろ? ならば△△しろ!」



 と口うるさく言われていたルールみたいなもの。

 特にその当時、人々は食料を得るために、人間労働時間システムにおける責務を全うしようと懸命に働いていたんだ。

 でもだよ、縄文の世界では皆遊ぶように自由に生きていたらしいと。

 責務という固い考えに縛られることなく、人間が生きていた時代もあったのかと。

 そのことに気がついた人達は、所有と同様、責務を信じ続けていることにもおかしさを感じ始めたんだ。


 そして最後に、ヒエラルキーっていうのは順序をつけて並べること。



「俺はお前よりブツを持っているから、俺の方が偉いんだ!」

「人間労働時間システムにいたいのなら、俺に従え!」



 といった具合に、人間には上下関係がつきものだった。

 でもだよ、縄文時代では誰かに命令されることもなかったと。集団では皆対等だったと。

 ヒエラルキーがある――同じ人間に上下がある――という考えも、ただ信じているに過ぎないもの、実は架空のものなのでは? と思い始める人が出てきたわけさ。


 こうして、他の人達が真理のように捉え、疑いもしなかった所有、責務、ヒエラルキーという概念までをも信じられなくなった人達は、物々交換=自分の所有ブツと他人の所有ブツを交換することに意味を見出せなくなった。

 そもそも、どれが誰のものなのかという概念がないのだから、交換しようがないわけだ。

 さらに、人間労働時間システムにいる意味も見出せなくなった。

 システムにおけるヒエラルキーや、『責務を全うした労働時間分、食料と交換できる』という中の責務を信じられなくなったのだから、それは当然のことだよね。


 結局、これら三つを信じられなくなった人達は、人間労働時間の世界になじめなくなり離脱していった。

 そして、彼らは面白いように引き寄せあい、小さな集団を作ったんだ。

 そんな集団にいる人達は口を揃えてこういっていたよ。



「何だか翼が生えたように身軽だわ」

「どこまでもいけそうだよ」



 所有がなくなって、あれは自分のもの、あれは他人のもの、という考えすら浮かばなくなり、物を取り合うことがなくなった。

 これは、お金のあった世界――所有それ自体が目的であったかのように、お金ばかり追い求め、競争していた昔の世界――では想像もつかなかったことだよ。

 責務がなくなって、これをしなければならない! と各々の立場に縛られることがなくなった。

 ヒエラルキーがなくなって、従うべき上の存在もなくなった。

 すると、皆自然としたいことをするようになったんだ――何かをせよ! と言われなくなくなったことで、何かを自ずと始めたくなるとは、なんて皮肉なものだろうね。


 その集団では、農業をしたい人は畑を耕し、料理をしたい人は鍋を振り、きれい好きな人は掃除をし、音楽をしたい人は音を紡ぎと、各々やりたいことだけをやっている世界が広がっていた――以前は無視していた内なる衝動に正直になったかのように、皆好きに動き始めていたんだ。


 そんな集団の様子を外から見ていたのが人間労働時間システムに残った人達さ。

 彼らはこの集団をこう揶揄していたよ。



「空想に浸っていては生きていけない。現実を見なきゃね」



 だけど、その集団がはちゃめちゃだったかというと意外にもそうではなかった。

 そもそも、その集団では各々生み出したものは誰のものでもなかった。

 シェア=『誰かが持っているもの』を分かち合う、という感覚すらない。

 農業したい人はただやりたいからする。

 料理人はその食材を自由に使って料理するし、それをみんなが自由に食べることになる。

 そんな食事の場を音楽で盛り上げる人もいるし、きれい好きな人は後片付けをする。

 各々好きなことをやっているだけで、リーダーがいて命令しているわけでもなく、義務でもなければ、押しつけられているわけでもなかった。

 それなのに、パズルのピースがピタリはまるように生活はうまく回り、皆満足していたんだ。


 それでももちろん、困りごとが起こることはあったよ。

 だけど、そういう時にはきまって困りごとを解決できるような人がポンと現れ、集団はその人達を取り込みながら徐々にその規模を拡大していったんだ。





「はい! お芝居はここまで!」



 タクオは手を叩いた。



「みんな、どうだったかな?」



 と小さな観客席に座っている子供達に感想を聞いた。



「そもそもシンジルってなに?」

「オカネ? ショユウ? セキム? ヒエラルキー? 昔の人は変わってるね」

「よくわかんない!」

「うーん。わからないか」



 タクオは頭をかいた。



「最後のシュウダンっていうのが、僕達がいるこのムラのこと?」



 と一人の子供が訊ねた。



「そういうことさ」



 タクオはいった。



「君達が生まれ育っているこのムラの生活は、昔の世界とは全くの別物なんだよ」

「何か特別なの?」

「みんなはさ、自分の親にだけ育ててもらっているって、そう感じてる?」

「ぜーんぜん。だってさ、アヤさんも、マキトさんも、ケイコさんも、みんな見てくれるけど、お母さんでもお父さんでもないもん」

「でしょ? でもね、昔の世界では、親が責任を持って自分の子供を育てるべしと、そりゃあもう大変だったんだ。その頃はお金を求めて両親ともに労働漬け。働いている間は子供の面倒を見られないから、子供を施設に預けたい。だけど、施設に空きはないし、そもそも働いてもお金はないしで、悲しいことに親が面倒を見られず、亡くなってしまう子供までいたんだ」

「お母さんとお父さんしか、そこにはいなかったの?」

「もちろん他の人もいたさ。でも、自分の子供以外には関与しない。これがあの頃の普通だったんだ」

「変な普通だね」

「言い方は悪いけど、子供は親の所有物で、親にだけ子供を育てる義務があり、そこに他人は関与しない、みたいな感じさ。でもこのムラでは誰が誰の子供とか気にしない。ここではみんなが親だし、子供はムラの中を駆け回り、いろんな人と関わりながら成長していく」

「でも、お母さんはお母さんだし、お父さんはお父さんだよ?」

「そうだね。育て方が変わっても、親は自分の子供が大切なんだ。みんなだって、お母さんとお父さんは大切でしょ?」



 とタクオが問いかけると、子供達は揃って首を縦に振った。



「この親子の絆は、大人達も、ここにいるみんなも、きっと信じ続けていくことなんだろうね」





「バイバイ! おじさん!」

「また、お芝居してね!」

「じゃあね、みんな!」



 タクオは子供達をテントから見送り、子供達が座っていた小さな椅子に腰掛けた。


 タクオには、この一人芝居を続ける中で分かったことがあった。

 それは、このムラで生まれた子供達には、昔の世界での常識はファンタジーであるということだった。

 当たり前といえばそうだ。

 彼らは信じるというものを、正確には昔の社会システムが生み出した信じる――『後天的信じる』とでもいおうか――を知らない。

 それでも、親子の絆や、自分達の存在は信じ続けている。

 彼らが確固として持っているこの信じるを『本質的信じる』といっても過言ではないだろう。

 それは人間が本質的に備えているものだから意識すらしない。

 そんな感覚で生きているのがきっと彼ら子供達なのであり、もしかしたら、彼らこそが人間本来の姿なのかもしれない。

 そんな妄想じみたことを、タクオは最近真剣に考えるようになっていた。



「あなた。今日の芝居の反応はどうだった?」



 妻のエミがテントに入ってきた。



「ああ、エミか。やっぱり、子供達にはわからないみたいだ」

「そうでしょうね。だって、昔の世界にいた私達でさえ、今となれば、あの世界で生きられていたことが不思議なくらいなんですもの」

「それで、何かようかい? 何か言いたいことがあって、終わるのを待っていたんだろ?」

「そうそう。今日の夜のことなんだけど、タカさんとふたりで過ごすから」

「タカさんって、サキさんの旦那さんのことか?」

「そうよ。それがどうしたの?」



 とエミは純粋な表情で問いかけてきた。



「夜には戻ってくるのかい?」

「たぶん、朝になるかも。というわけで、また明日! 愛しているわ、あなた!」



 とエミは楽しそうにテントから出ていった。



「エミ! 行くな! 愛の約束を交わしただろ!」



 と彼女の背中に投げかけはしないが、喉まで迫り上がってくるこの言葉――妻は自分だけの人でいて欲しいという考え――は、自分がまだ『後天的信じる』に囚われている証なのか、それともこれは『本質的信じる』であり、捨てることができないものなのか……。

 タクオはそんな迷いをかき消すように、一人芝居の台本を開き、歴史をもっとわかりやすく伝えられないものかと頭を抱えながら、ひとりペンを走らせ始めていた。

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