ベテルギウスの爆ぜる夜に

洗濯綿飴

ベテルギウスの爆ぜる夜に

 不思議な人に出会った。

 僕の部屋のベランダからは、素性もよく分からない隣の家の、ちょうど同じ高さにあるベランダが見える。毎年秋になると白い望遠鏡が設置されて、春になると片付けられる。僕は毎年その望遠鏡で季節の変わり目を感じていた。

 何てことのない日常の風景だった。あの望遠鏡を昼ではなく、夜に見るまでは。

 夜は窓のカーテンを閉めているので、その望遠鏡が夜にどんな使われ方をされているのか知らなかった。でもとある晴れた日の夜、“ほんの気まぐれ”でカーテンを開けてみると、そこには望遠鏡を覗きこんでいる人がいた。そういえばあれが使われているところは見たことがなかったなと思い、少し観察してみた。

 望遠鏡を使っていたのは僕と年の変わらなそうな女の子だった。右手にノートとシャープペンシルを持ち、望遠鏡を覗いては、真剣な顔で何かをノートに書いている。年が近い割には学校で見たことがない子だ。別の学校にでも通っているのだろうか。天体観測が終わったのか、ノートを閉じて部屋に入っていったので、僕もカーテンを閉めて机に戻った。

 また別の晴れた夜の日、“ふと”あの事を思いだしてカーテンを開けると、やっぱりその子はそこにいて、何かを一生懸命に観察している。

 その次の日にもその子は望遠鏡を覗いていた。どうやら晴れた日はほぼ毎日天体観測をしているらしい。毎回その子は冬の寒さに白い息を吐いて、身を震わしていた。そこまでして見たいものがあるのかと、僕は次第に興味を募らせていた。

 そしてとある日。その子はいつものように望遠鏡を覗きこんでいた。今日もやってるなと思い、とっとと宿題に戻ろうかと思ったが、声をかけてみようかという思いが“ふと”湧いてきた。このままあの子を覗き見し続けるのはなんかもったいない気がしたし、申し訳ない気もした。天体観測が終わる頃を見計らい、ベランダの窓を開けた。

「ねぇ。」

 その子は驚いて背筋をぴんと伸ばして振り向いた。

「何見てるの?」

 僕はややぶきっちょにその子に質問した。その子は目を丸くして、口を三角に開けてこちらを見ていたが、しばらくして目を輝かせて嬉しそうな顔をした。

「知りたい!?」

 その勢いに少し圧倒された。

「まあ、うん。」

「じゃあうち来ない?」

「え?」

 ものすごく唐突な展開に追いつけない。

「…おうちの人とか大丈夫なの?」

「うん!親…い…今はいないから!」

「え、どうしよ、ちょっと待って…。」

 僕は行くか行かないかかなり迷った。だけど、“なんとなく”この機会を逃してはいけない気がした。

「分かった、行ってみる…。」



 僕はその子の家のインターホンを鳴らした。少しして、その子が興奮した様子でドアを開けた。中を見る限り普通の家といった感じだ。その子以外の人の気配はない。僕はその子に案内されるままにその子の部屋に入った。

 部屋の中はけっこう散らかっていた。壁には理科室に貼ってありそうなポスターが貼ってある。机では五個くらいのふりこの両端だけが動くやつがカチカチと鳴っている。床にはよく分からない科学の本や開いた状態のノートが散らばっている。その中に一冊の漫画が落ちていたので拾って見てみた。

「お、ジョジョ興味ある?読んでていいよ。」

 その子がそれに反応した。見ると確かに「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン」と書いてあった。生憎読む気にはならなかったので、元の位置に戻した。

「自己紹介がまだだったね。私はツヅミ。増永ツヅミだよ。」

「増永…?君ってもしかして僕と同じ学校?」

 僕は学校で増永という名字を聞いたことがあった。でもその人の顔は知らない。

「そうかもね。私不登校だからよく分かんないけど。」

「あ、そうだったんだ…。」

 少し申し訳ない気持ちになった。

「学校ってなんか面白みないんだよね~。」

 そういいながらツヅミはベランダに出て夜空を眺めていた。ツヅミの向こう側にうちのベランダが見える。

「…さて、本題に入ろっか。私が見てるのは~あれ!」

 ツヅミはびしっと夜空を指差した。

「どれ?」

 僕は床の本を避けながら急いでベランダに向かった。

「あれだよあれ!あのオレンジ色のさー…。」

 指差す方向には確かに橙色に光る星があった。

「あれって…ベテルギウス?」

「そう!ベテルギウス!!」

「へー。ベテルギウスが好きなんだ。」

「うん!あれが爆発するのを待ってるの!」

「…え?」

「だから!あれが爆発するのを待ってるの!!」

「…ええ?それで毎日…?」

「この時期はそうだね。見える限りは毎日観測してるよ。」

 あまりにあっけに取られた。星が爆発するのを望むってどういうことなの…。

 と、困惑しているうちにツヅミはいつの間にかベランダから出て、机に置いてあったノートを手に取っていた。

「ほらこれ。」

 ツヅミはノートの中身を僕に見せてきた。天体観測中に書いていた、あのノートだ。見てみるとベテルギウスの日ごとの様子が事細かに記されている。が、どれも同じ絵に見える。

「…これ、毎日描く必要ある?」

「ええ?全然違うじゃん!ほらこの日のベテルギウスめっちゃかわいくない!?あとこの日のベテルギウスはちょっと機嫌が悪くて~、ワンチャン爆発するかもって思ったんだけど~…」

 僕は分かった。この人ヤバい。

「えーと、なんでそんなに爆発するのが見たいの…?」

 僕はツヅミにそう質問した。僕がいい感じに食いついてくれたからか、ツヅミはまた目を輝かせた。

「君ってさ、なんで私に声かけようと思ったの?」

 ツヅミは質問を質問で返してきた。しかもその質問が突拍子のない質問でびっくりした。

「えーと、いや別に“なんとなく”…。ただの“気まぐれ”だよ。」

「“気まぐれ”かぁ…。へぇ…。」

 その言葉をツヅミは興味深そうに聞いた。

「君、物理分かる?」

 ツヅミはベランダへと続く窓を閉めてカーテンを引きながら言った。

「まあ、なんとなく。」

「エネルギー保存の法則は知ってる?」

「一応知ってる。学校で習った。」

 エネルギー保存の法則は確か熱エネルギーとか運動エネルギーの全体のエネルギー量は運動の前後で変わらないといった感じの法則だ。

「よし。なら大丈夫かな。この法則があるってことはさ、どこかで新たなエネルギーが産まれることはないってことなんだよ。これがどういうことか分かる?」

 なんだか話が壮大になってきた。

「分からない。」

「つまり、この世の全てのエネルギーは最初のビッグバンに由来してるってわけ!スーパーの野菜が千葉県産なのと同じでエネルギーはビッグバン産なの!!面白いと思わない!?」

「…はぁ。」

 ビッグバンは確かこの宇宙を作り出した最初の爆発のことだ。話が思っていたのとだいぶ違う方向に膨らんでいる。あとスーパーの野菜は千葉県産とは限らないと思う。

「それで、エネルギー保存の法則に限らずこの宇宙の万物はあらゆる物理法則の上に成り立ってるんだ。君はここに来たのは“気まぐれ”って言ったよね。」

「うん。」

「それは偶然なんかじゃなくて必然なの!人間内にある全原子が全く同じ配置にあって、なおかつその人が全く同じ状況に置かれていたら何度もその“気まぐれ”を選択するの。そして、その体の全原子は物理法則に従って瞬間の位置についた…。つまり人間、もとい生命の自律したかのような動きも石と石がぶつかるのと同じ、物理法則上の運動に過ぎない!これがどういうことか分かる?」

「いや分かるわけないよ。さっきから何の話してるか分かんない。」

 そう言うとツヅミはこれまでの興奮した様子から一転、冷静になった。

「…ごめんごめん。つい熱くなりすぎて聞き手を置いてけぼりにしちゃうこと、よくあるんだ。」

 ツヅミは一息ついてからまた話し始めた。

「単刀直入に言うと、私はビッグバンがどう爆発したかを解明したいんだ。もっと言うと、正確に何個の、どんな種類の粒子が、どの方向に飛んだかを知りたい。そしたら未来が全部分かるんだ。」

 相変わらず壮大なことを言っている。

「ビッグバンを解明したら未来が?何で?」

「ビッグバンっていうのは、いわばビリヤードの最初の一突き。その力が1から15の球に伝わって、お互いにぶつかったりしながら台の中を縦横無尽に駆け巡る。今の宇宙の星々、それから人間でさえこの球と同じ。極論、物理法則に基づいた計算をしまくればビリヤードの球がどう動くのか予知できるでしょ?それは宇宙というビリヤード台でも同じことなの。」

 やっと話の筋が掴めてきた気がする。

「つまりツヅミは運命を信じてるってこと?」

「そういうことになるかな。私たちの未来は、ビッグバンから続く物理法則の連続で確定してる。君の“気まぐれ”も定められた運命だったんだ。私は運命が知りたい。だから手始めにもうすぐ爆発しそうなベテルギウスの爆発を観測しようかなって思ってるんだ。」

「すごい目標だね。でも、僕たちが生きてる間に爆発するかは分からないよ。」

「…分からないね。運命次第だね。」

 そう言いながらもツヅミは笑っていた。まさか望遠鏡を覗く目的がここまでのものとは思っていなかった。僕が今一度ツヅミの言ったことを脳で反芻していたのもあって、しばらく無言の時間が続いた。反芻する中で“ふと”一つの疑問が浮かんだ。

「…どうして、」

「ん?」

「どうして、運命が知りたいの?」

 そう聞くとツヅミは急に神妙な面持ちになった。しばらく目を伏せてから、ツヅミはゆっくり口を開いた。

「…なんてことはないよ。ちょっと明日が来るのが怖いだけ。」

「明日?明日何かあるの?」

「違う。そういうことじゃないの。毎日漠然とした明日への不安に駆られてるの。明日、私のまわりに当たり前にあるものが全部壊されるかもしれないって考えると怖いんだ。人の恐怖の根源は『未知』なんだよ。せめて運命が分かれば、たとえそれが変えられないものだとしても、少しは怖くなくなるかなって。」

「…そうなんだ。」

「…はは、馬鹿だよね、ごめんね。こんなしょうもない理由でビッグバンを解明したいだなんて…。」

「……。」

 僕は言葉に詰まった。明日が来ることを怖いと感じたことがなかったからだ。この恐怖にかけるべき言葉は励ましか労いか、それすらも分からなかった。

「…さてと、そろそろ君も帰らなきゃなんじゃない?もう話したいことは大体話したよ。」

 ツヅミは暗い気持ちをごまかすかのように言った。そういえば親に詳しい事情も伝えず出てきてしまったので、あまり遅いと心配させてしまう。

「…そうだね。そろそろ帰るよ。」

 そう言って立ち上がり、部屋を出る間際、“ふと”さっきのポスターが目に止まった。それは宇宙の一生が描かれたポスターだった。宇宙はビッグバンと共に始まり、その宇宙が終わると同時に次のビッグバンが起こり新たな宇宙が始まる、という循環を表している。

「へぇ、宇宙ってこんな感じにループするんだね…。」

「…そ、そうだよ。あわよくば次の宇宙のビッグバンも解明できたらいいよね。次のビッグバンはどんな爆発をするのかな。できれば…」

 この後の言葉は続かず、また無言の時間が生じた。今度はツヅミがこれを破った。

「…あのさ。」

「ん?」

「私のやってることに興味を持ってくれてありがとう。私の研究を誰かに話せて、今日はとても楽しかった。おかげで明日への恐怖も少し和らいだよ。」

 僕はそう言ってうつむくツヅミをしばらく見つめてから言った。

「…感謝するなら僕にじゃなくてビッグバンにじゃない?だってこれが運命なんでしょ?」

 ツヅミははっとして顔を上げた。僕はもう一度ポスターに向き直って言った。

「…もし今の宇宙が終わって、次の宇宙が始まる時も全く同じビッグバンが起こるならさ…、

 次もこうやって、ツヅミと話ができたらいいな。」

 それを聞いたツヅミは今までで一番嬉しそうに、悲しそうに笑った。

「…そうだね。私も。」



「それじゃあまたね。」

「うん、またね。」

 僕は玄関でツヅミと手を振り別れ、隣にある自分の家までゆっくりと歩いた。歩くことすら運命をなぞることなんだと思うとなんだか感慨深かった。そして自分の家の門を開ける手前で、“ふと”夜空を見上げると、



 そこには、月よりも明るく輝く、橙色の光があった。

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