チャーハン龍の巣立ち

暇崎ルア

チャーハン龍の巣立ち

 十二月三十一日、特にやることもないのでサークルの同期の牧岡の家に遊びに行くことにした。今日ぐらい、課題のレポートのことぐらい忘れたっていいだろう。あいつの家ならネトフリ見られるし。

 今から行くな、と電話をすると案の定嫌味が飛んでくる。

「お前な、何もこの日にオレんとこ来る必要ないだろ。暇なの?」

「どうせ暇だよ。あと、この電話とってる時点でお前も暇人確定」

「うるせえ、皆まで言うな」

 それでも本当に断られなかったのは、あいつもそこまで嫌なわけじゃなかったということ。要するに「ツンデレ」だ。


 どこ入ってもいいけど、トイレの隣の部屋だけは入るなよ。

 牧岡の住む部屋に入って早速スニーカーを脱いでいる最中に、言われたのはそれだった。

「何? 開かずの間?」

 ドアを開けたら、お札とかが部屋中に貼ってあったりするのか。

「まー、そんなもん」

「逆にそれは言わない方がいいんじゃねーの?」

「だって、お前ドアがあったらとりあえず開けてみるタイプのやつだろ」

 そんなデリカシーのないやつだと思われてるのか、と普通に傷ついた。当たってるけど。

「だけどさなんか、人情っていうの? 好奇心がそそられるっつーか。『青髭』でもそうだったろ」

「誰?」

「シャルル・ペローの童話だよ。子供の頃読むだろ、普通」

 娶った花嫁を「立ち入り禁止の部屋には行くなよ」と誘導し、誘惑に負けて入ってしまった花嫁を殺すのが趣味のやばい男の童話だ。正直、子供に向けた話としては怖すぎると思う。

「人は禁止されたことをやりたくなるけど、やめろと言われたなら止めといた方がいい」ということをわかりやすく教えてくれる教訓話でもあるんだけどな。

「自分が知ってるものは誰でも知ってると思うなよ。オレは、お前みたいな文学少年じゃなかったの、おりこうさん」

「はいはい、わかったよ」

「おとなしくネトフリでも見とけ」

 酒とつまみとか買いに行く牧岡は、ダウンを着こんで出て行った。すぐ近くにコンビニがあるから十五分ぐらいで帰ってくるだろう。

 言われた通りテレビでも見てるか、とリビングに足を踏み入れる。

 ばたん、とトイレの隣の部屋から音がした。物が落ちたように聞こえたんだけども。

 牧岡は一人暮らしだ。買い出しに行ったから、当然今ここには押しかけて来た俺しかいないことになる。

「やっぱ、なんかいんのか?」

 暗い廊下に俺の独り言が虚しく反響する。

 一人暮らしの若い男の賃貸部屋に存在する開かずの間。犯罪とサスペンスの匂いしかしてこない。常識人だと思ってたけど一線超えちゃってたのか、もしかして。

 ドアに耳をくっつけて、意識を集中させてみる。一分ぐらい待ったけど、何も聞こえない。

「……俺の好奇心をくすぐったあいつが悪い」

 レバーを下に下げるタイプのドアノブを手にかける。ガチャガチャやってみても、開かない。鍵がかかってる。鍵穴も見当たらないから、ミステリみたいにヘアピンとか針金でこじ開けることもできない。そんなもの持ってないしな。

「何だよ、鍵かけてんなら最初から俺に言う必要ねーだろ」

 馬鹿だな、あいつと笑おうとしたけど何かが頭に引っかかる。違和感。ホラー映画だと、ここで無視すると後々大変なことになる死亡フラグ。

 ブブブ、とパーカーのポケットの中の携帯が震える。牧岡からのメールだ。

『買い出しで遠めのスーパー行かないといけないの思い出した。遅くなる』

 そういうのはさっき言っておいてほしかったんだよな。

「……寒っ」

 さすがに廊下にずっといると冷えてくる。

 寒さから逃れたいという本能が勝ってしまい、違和感のことなど忘れリビングに飛び込んだ。


 大画面のテレビでサブスクの映画を見てられるのは最高だ。牧岡がバイト代を貯めて買った小さめのこたつもあるので、凍える心配はない。

 牧岡が部屋を出て行ってすでに三十分。俺が選んだホラー映画では、罰当たりな若者たちがそれぞれハンディカメラを手に、個別に分かれて曰く付きの廃墟を巡り始めたところ。後で全員痛い目に遭うオチだとわかってるけど、それが見たくて見るんだよな。

 だけど牧岡のやつ、あとどれぐらいで帰ってくるのか。携帯で聞けばいいんだけど、それも面倒だ。

 びたーん、と廊下の方で音がした。絶対に映画の効果音じゃない。しかも、結構大きかったぞ。

 気のせいか、と画面を凝視するもさっきの音が気になって映画の字幕も頭に入ってこなくなる。わざわざ、意識を何かに集中させようとしている時点で物事に集中などできるわけがない。

 画面内では、二階の一室に入ったら勝手にドアの鍵がかかってしまったことに気づいたヒロインがパニックで叫びまくっている。

 部屋の鍵。そういえば「開かずの間」のドアは、鍵穴がついていなかった。内側からしか鍵を閉められないタイプだ。

 ということは、牧岡はあの部屋に入って鍵をかけたら、出られないということだ。じゃあ、あいつどうやって出たんだよ? 部屋には窓があったりしてそこから出られるのか。だけど、ここは四階だから、外に出られる窓があったとしても、スパイダーマンみたいに建物の壁を這って出ることになる。さすがにありえないだろ。そもそも、そこまでして特定の部屋を閉めないといけない理由は何だ。

 映画を一時停止すらせず、廊下に向かう。また、ドアに耳をくっつけた。何かいるなら、今音を出してくれよ。

 中に誰か閉じ込められてて、SOSを発しているのか。ジャック・ケッチャムの小説『隣の家の少女』を想像してぞっとする。牧岡、監禁事件とか起こすようなやつだったのか。本気でそういうことするやつだとわかれば、容赦なく警察に突き出してやるからな、俺は。

 ドアをどん、どん、どんと強めにノックする。三回ノックはトイレに入ってる人を急かすものでもあるけど、そんなこと言ってられる場合じゃない。

「すみませーん、誰かいますかー?」

 返事はない。声が出せないのか。

 ピタピタと音が近づいてきた。中にいるやつは裸足なのか。

「大丈夫ですかー? 開けてくださいっ」

 ガチャリ、とついに内側から鍵が外される音がした。

「良かった。大丈夫……」

 ですか? は喉の奥に飲み込まれていった。

 ワニを思わせる口元が細い頭。金色の角。長い髭。

 部屋の床にびたーん、と長い尾を叩きつけたそいつは俺に向かって、うぎゃああと赤ん坊みたいな声で叫んだ。

 部屋の中は、本や衣類が乱雑に床に落ちている。

「ほらな、開けてんじゃねーかよ」

 右を向いたら、長ネギや肉のパックが覗いているビニール袋を手にした牧岡が帰ってきている。

「……ごめん。俺殺される?」

 青髭に約束を破ったことがばれ、追い詰められた花嫁の気分だった。

 いや、待てよ。

「ドア直接開けたのは俺じゃないって」

「わかってるよ。でも、三回ノックしただろ」

「あ、したな」

「それが『開けてくれ』の合図だよ、オレたちの」

 賢いし器用だからドアぐらい自分で開けられるんだ、と牧岡はなぜか誇らしげだった。

「ごめんな、寂しかっただろ」

 なだめるように牧岡の方に首を伸ばした生物の下顎を撫でる。

 どうやら慣れたことらしい。


「開かずの間」にいた少女でも人間でもないそいつは、くちゃくちゃと咀嚼音を立てながら丼に盛られた牧岡特製高菜チャーハンを実にうまそうに食べている。

「ごめんな、昨日材料買っとくべきだったんだけど、思い出したのさっきだったんだよ」

 牧岡はチャーハンを食べる龍に目を細めながら、謝っている。野球のボールぐらいの大きさのうろこが、蛍光灯の光を受けて時折虹色に輝く。

「こいつ、何?」

「龍」

「ビールのラベルに描いてあるやつ?」

「あれは麒麟」

「あーもう、どっちでもいいわ」

「お前が言い出したんだろ……」

「とにかくなんでお前の家にいるんだ?」

考え込む牧岡。

「拾った」

「嘘つくな」

「拾ってください」って書いてある段ボール箱に入って道端で震えてるのは子猫か子犬であって、龍なわけないだろ。

「本当に拾ったんだよ。文化祭準備で一週間休みあったろ」

「あったな」

 この間といっても、十月末のことだ。特にサークルも入っていない俺たちにとっては、文化祭準備も講義もないただの休みだった。

「お前、日帰りで箱根行ってなかったっけ?」

 牧岡の趣味は「料理」ともう一つ、「温泉巡り」だ。

「行ったよ。箱根の温泉の湯煙の中でピーピー鳴いてた」

「おかしいだろ」

「オレに言うな。――おう、うまかったか」

 チャーハンを食べ終わり、頭をもたげて見つめてくる龍の下顎を撫でる牧岡。

「龍ってチャーハン食うのか」

「さあな。でも、見ての通り雑食だよ。とりあえず高菜チャーハン食わせたら、気に入ったみたいでさ。何でも食うけど、基本これを喜んで食べる」

 実家から定期的に高菜が届くそうなので、チャーハン作りには困らないという。

「拾ったときは、小っちゃくてさ。まだ、こーんなだったんだけどな」

 牧岡が両手を広げて示した大きさは、チワワぐらい。それがちょっとした恐竜ぐらいのサイズにはなるのか。

「育つのを見てるの壮観なんだけどな。けどさすがに、これ以上育たれるとこの部屋にはいられないんだよ」

 龍がいる部屋は六畳ぐらい。長い胴体を丸めているから小さく見えるが、伸ばせば全長五メートルぐらいにはなるんだろうか。

「グリーンイグアナの成体ぐらいで成長止まると思ってたんだけど、計算違いだった」

「イグアナ飼うのと同じノリで飼うなよ」

 神聖な生き物とかじゃなかったか、中国だと。

「ほっとけば、それこそ罰当たりだろ」

 ぎゃおおおう。窓の外を見ていた龍が、雄たけびのようなものを上げ、俺たちの視線は自然とそちらに行く。

「何か見つけたか」

 細い足でぴたぴたと音を立てながら、龍が移動する。ふらりと振ったしっぽが小さいラックにがつんと当たり、天板に載っていた本が落ちた。最初に俺が聞いた物が落ちる音は、龍が振ったしっぽが部屋のどこかにぶつかって物が落下する音だったというわけ。そそっかしいやつだ。

「どうしたんだよ、急に」

 チャーハン龍は窓に前足をつき、外を食い入るように眺めている。

「こんな部屋じゃ狭すぎるか、お前には」

 龍を見つめる牧岡は目を細める。大切なものを見つめる人間の表情。こいつもこういう顔するのか。

「悪いな、今開けるから」

 窓のロックを素早く外し、牧岡が窓を全開にする。

「外に放すのか」

「まだ何とか通れるか、今のこいつなら」

 窓の幅は一メートルいかないぐらい。チャーハン龍の胴体の横幅はぎりぎりといったところ。

 外に出られることに気がついた龍は、ちらりと牧岡を見た。澱もにごりもない水面のような澄んだ水色の瞳で。

 牧岡は頷く。

「大丈夫だ、出られるよ」

 チャーハン龍が長い首をすとんと落とす。「わかったよ」と頷いているようにも、牧岡に礼のお辞儀をしているようにも見える。どっちでもないかもしれないけど。龍の考えてることなんかわからん。

 龍が飛び立つまでは、あっという間だった。ベランダに一歩出た龍はふわりと浮き上がると、暮れかけた大晦日の空に向かって飛んで行った。羽がなくたって、飛べるのだ。龍だから。

 俺と牧岡は、長い胴体と尾が部屋から完全に外に行ってしまうまでを何も言わず見つめていた。

「元気でな」

 チャーハン龍のいなくなった部屋で、ぽつりと牧岡がつぶやく。

 感傷的になって、少年ジャッキーと友達の魔法の龍の歌を口ずさまずにはいられなかったが、牧岡が顔をしかめる。

「『パフ』は龍じゃなくてドラゴンだよ」

「ドラゴンも龍も一緒だろ」

「全然違うっての。まあ、ジャッキーも俺もあいつらより先に年老いて死ぬっていう点では一緒だけど」

「悲しいこと言うなって」

 その夜、空を飛ぶ龍の姿がネットで話題になった。「新宿区の夜の上空を優雅に飛んでいた」とか「九州に向かって飛んでいるんじゃないか」とか。真相は不明だし、知らなくたっていい。知らない方が良い、と牧岡は思っているんじゃないかな。寂しくなるだろうから。

 牧岡が龍を拾って育てたのは、寂しかったからだと俺は思った。どれだけ大きく育ったとしても、一緒に同居できるような人間以外の相手が欲しかったっていうことだ、多分。

「来年何年だっけ」

 リビングのこたつで余った高菜チャーハンを食べながら、紅白を見ている牧岡に聞いてみる。

「辰年」

「だから、来たのかもよ」

「オレ、亥年なんだけどな」

「じゃあ、あれだ。お前が高菜チャーハン食わせてくれる優しいやつだったから」

 実際、こいつの作った高菜チャーハンは胡椒と和風だしがよく効いていていて絶品だった。

「それで済ませるな」

 牧岡が苦笑いする。

 龍が巣立ってから三時間、牧岡が初めて見せた笑顔だった。

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