第8話 医者の不養生
東京に戻った林医師は患者として、かつて自分が指導した後輩の医師の診察を受けていた。
「林先生。どうして、もっと早く、私たちに相談してくださらなかったんですか?」と後輩医師が尋ねる。
「自分の弱さを認められない、私の弱さだった」と、林医師は苦笑いを浮かべながら答えた。
後輩医師は、林医師の誇り高い性格を理解しつつも、患者としての彼への心配を隠せなかった。
林医師は、自分の症状について淡々と話し、検査や治療の選択肢についても論理的に話し合った。しかし、彼の目には、医師としての自信とは異なる、一人の人間としての不安が見て取れた。
「先生。何でも話してください」と後輩医師が伝えると、林医師は深くうなずき、「ありがとう。君たちがいてくれて心強いよ」と感謝を表した。
いつもの手術室は、状況が一変していた。今日、林医師は執刀医ではなく、脳腫瘍摘出手術の患者として、ベッドに横たわっていた。彼を取り囲むのは彼自身が、かつて指導した後輩たちだった。
執刀を担当する若手医師の手は、微かに震えていた。彼は何度も深呼吸を繰り返し、集中を高めようとしていた。その緊張は手術室全体に伝わっていた。看護師たちも、いつも以上に神経を尖らせ、機器のチェックや手術準備を丁寧に進めていた。
林医師は麻酔が効き始めると、深い眠りに落ちていった。彼が眠る姿は平穏そのもので、長年の疲れから解放されているようにも見えた。執刀医はメスを手に取り、手術を開始した。彼の動きは慎重で、かつて林医師が彼に教えた手技を、忠実に再現していた。
手術室の空気は厳粛で、誰もが彼らの師である林医師の命を預かる重責を感じていた。しかし、彼らは、その緊張を力に変え、一丸となって手術に臨んだ。手術室の中では、機器のピープ音と、静かな指示の声だけが響いていた。
時間が経過するにつれ、手術は順調に進んでいった。執刀医は腫瘍に近づき、極めて繊細な操作で、それを摘出した。手術が終わると、手術室に安堵のため息が漏れた。看護師たちは、互いに微笑みを交わし、若手医師の視線は、林医師への深い敬意を表していた。
術後、林医師は経過観察室で静かに目を覚ました。彼の身体は重く、動きは鈍かったが、精神は明晰だった。彼のベッドサイドには、メモ帳とペンが置かれており、林医師はおぼつかない手で、患者としての体験を書き記し始めた。
メモには、手術前の不安、麻酔から覚めた時の混乱、そして患者として感じた孤独感が綴られていた。彼は、これまで無数の患者を診てきたが、自分自身が患者の立場になることで、その経験の重みを真に理解した。
リハビリの際も、林医師は困難に直面した。かつて彼が指導した看護師やリハビリスタッフに支えられながら、基本的な動作を一から学び直す必要があった。リハビリ中、彼は自分の進歩をメモし、その中には挫折感や小さな達成感が混在していた。
彼にとってメモを書く行為は、これまでの医師としてのキャリアを反省し、新たな道を模索する過程だった。林医師は、自身の経験を通して、医療提供者と患者との間のギャップを感じた。患者にとっては、技術的な治療だけではなく、共感と理解も大切なのだということを実感した。
林医師の回復は順調で、仕事に復帰する準備が整い始めていた。ある日、彼は病院の医療部長と将来についての重要な話し合いを持った。
医療部長は林医師に、管理職への昇格を提案した。「林先生。あなたの経験と知識は、マネージャーとしても、大いに役立ちます」と部長は説得した。しかし、林医師は頑なに拒否した。「執刀医としてのポジションに、未練はありません。心のケアをする専門家として、患者と手術チームの架け橋になりたいのです」と、彼は主張した。
林医師は自身の体験を通じて、患者が手術前後に抱える心理的な不安やストレスを深く理解していた。
彼は、患者が安心して手術を受けられるようにサポートする役割を果たしたいと強く望んだ。また、彼は手術チームのメンバーとしても貢献し続けることで、若手医師たちへの経験と知識の伝達を続けたいと考えていた。
医療部長は、林医師の意志を尊重し、「あなたは、当院の誇りです」と称えた。
林医師の診察室には、混乱している脳腫瘍の患者がいた。言葉は支離滅裂で、彼の恐怖と不安が顔に浮かんでいた。林医師は患者の手を優しく握り、「大丈夫ですよ、一緒に頑張りましょう」と静かに話しかけた。彼の声には温かみがあり、患者の緊張が少し和らいだようだった。
林医師は、患者の言葉を丁寧に聞き、彼の症状を詳細に記録した。診察を進める中で、患者の混乱にも関わらず、彼の身体的な不調や心理的な状態を的確に把握し、治療計画を練り始めた。彼は看護師に患者のケアを指示し、手術が必要かどうかを判断するための追加検査を行うよう手配した。
診察が終わり、林医師は患者の家族に状況を説明した。彼は家族の質問に丁寧に答え、患者の治療過程での不安や疑問に対して、専門的な知識をもって安心を提供した。
林医師は診察のたびに、かつて自分が患者だったときのことを思い出す。この経験を彼は、患者の心を支えるために役立てていく。
幻の手術 何もなかった人 @kiyokunkikaku
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