武藤玲子は神様の夢を見る

蜂賀三月

武藤玲子は神様の夢を見る

武藤玲子むとうれいこは冷たい女」


 聞こえるように言われた同僚の言葉は、聞き慣れたものだった。

 

 武藤玲子が特別養護老人ホーム・福花荘に勤めて二年になる。その間、誰からも「やさしい」と言われたことはなかった。生まれつきの仏頂面と淡々とした性格も相まって、周りの人間に冷酷な印象を与えていたからだ。玲子本人も自分をやさしいとは思わなかったし、まわりの人間になにを言われても気にしないように努めた。五十年間、そのように生きてきた。


 立冬直後、いつもニコニコとしていた田木さんが亡くなった。

 とても愛想が良いおじいさんで、職員から絶大な人気を誇っていた。朝礼でそのことを聞いた玲子は驚いたが、いつものようにすぐ仕事を始める。しかし、他の職員は誰も動こうとせず、さめざめと泣いていた。


「あの、排泄介助の時間ですが」


 声を掛けると、職員たちは玲子を睨んだ。


「田木ちゃんが亡くなったのに、なにも思わないの!?」

「仕事の時間は始まっているので」


 別に入居者が亡くなろうと仕事は待ってくれない。玲子からしたら、まだ泣いている同僚の方がおかしかった。田木さんだけでなく、今までもそうだった。たくさんの人が亡くなっていくのを見てきたが、むしろ介護が大変な入居者が亡くなったときは、ほっとしていたくらいだった。


 泣いている職員を背に、玲子はおむつの交換に向かう。

 この日を境に、もともと職場で浮いていた玲子はさらに孤立することになった。

 

 玲子が夜勤の日だった。福花荘の夜勤は16時から翌日9時までの勤務で、体力的に辛いものがある。福花荘は寝たきりの人もいればよく動く人もいた。だからこそ、食事をするタイミングで入居者を食堂に集めるのが一番大変なことだった。


 寝たきりの人をベッドから起こし、車いすに座らせる。歩くことがおぼつかない人のお手伝いをし、トイレに行ってから食堂まで付き添う。徘徊する人に声を掛けて食事の時間だと伝える……そのようなことを30人にも及ぶ入居者にするため、季節に関係なく体が汗ばんでくる。今日のような寒い日でもだ。玲子は羽織っていたカーディガンの袖をまくり上げ、入居者を次々と食堂へ誘導する。


 ――15人ほど誘導してから気づく。食堂に自分が誘導した人以外の入居者が増えていかない。本来なら、職員みんなで誘導をするのでこんな状況は有り得ない。スタッフルームを覗くと、職員が談笑している。


「朝食が始まるんですが」

 

 声をかけても、職員は動かない。あからさまな無視だった。玲子は諦めて、スタッフルームをあとにした。


「――笑顔もないし、まるで入居者さんを物としか思ってないみたい。嫌ねぇ」


 そんな声が背中越しに聞こえた。


 結局、いくら待っても他の職員は来なく、玲子はひとりで入居者を起こし続けた。困ったのは、ベッドから車いすに座ってもらうのに、ひとりで介護するには危ないヨネさんという入居者がいたことだ。体重も重いし、体が固まっていたりで危険が伴う。時間はもう8時を過ぎている。玲子は仕方なく、その入居者の介護をひとりでした。夜勤の朝で体力はなく、ずしりとしたヨネさんの重みが腰に響くようだった。


 食堂にヨネさんを誘導すると、職員はすでに朝食の配膳をしている。まるで玲子に「遅いんだけど」とでも言いたげな目を向けていたので、さすがに嫌な気持ちになった。


 どうにか朝食が終わり、玲子は勤務記録を書く。


「あの、武藤さん」


 声を掛けてきたのは、スタッフリーダーだった。玲子の半分程度の年齢だが、このフロアの責任者になっている。


「なんでしょう?」

「聞いたんですけど、ヨネちゃんの移乗介助をひとりでしたそうですね。ふたりで介助をするのが基本なんで、やめてください。帰るまえに、ヒヤリハット報告をお願いします」


 玲子の前に記入項目の多い用紙が置かれる。事故が起こりそうな出来事があった場合は報告しなければならない。玲子は「すみませんでした」と一言、スタッフリーダーに伝えて用紙を受け取った。


 退勤は昼前になっていた。ぼやける視界を擦りながら、玲子は帰路につく。

 早く寝たい。だけど、もやもやした感情が胸に充満したままだ。その気持ちを少しでも解消したく、近所にある古い神社に寄ることにした。


 玲子は信心深いわけではないが、神社の荘厳な雰囲気が好きだった。その場に身を置きお参りをすると、なぜだか心が軽くなる。今日もその効果を期待し、ふらつく足取りで神社の石段を昇る。


 勢いよく手を叩いてお参りをすると、強い風がびゅうと吹いた。



 玲子はその日、神様の夢を見た。


 神様とは初めて会ったのに、なぜかとても懐かしい気持ちになった。古くからの友人に会ったような感覚。神様は玲子の手を取ると、大切なものを包むように優しく撫でてくれた。目が覚めたときには、もう夜の20時になっていた。「おかしな夢だったな」玲子は独りごちる。不思議とあたたかい気持ちになっていた。原因のわからない頭痛の気配を遠くに感じながら、あの神社の神様だろうか、と夢の続きを空想していた。


 それからたびたび神様の夢を見るようになった。特にご利益があるわけでもなく、むしろ前よりも孤立していた。職員が入居者にまで玲子を「冷たい人」だと流布していたからだった。しっかりとしている入居者では玲子の介助を嫌がる人まで出てきて、業務に支障が出ている。そのことでまた他の職員から「どうして入居者から嫌われるんですか? 心を持って寄り添ってないからでしょう?」と何度も責められた。

 

 仕事で辛いことがあった日は、必ず神様が夢に現れる。そのひとときのぬくもりは玲子にとって大切なものとなり、夜勤明けにはいつも神社のお参りへ行くようになっていた。


 拝殿に手を合わせて、玲子は目を閉じる。



 神様、私は仕事をサボりません。仕事もちゃんとしてるつもりです。それなのに、介護の仕事はそれだけじゃダメなようです。同僚と同じ仕事をしても、認めてもらえません。否定されているだけだと、心が折れてしまいそうです。せめて、私を認めてくれる人がひとりでもいれば――


 半ば愚痴のような祈りを捧げると、以前と同じような強い風が、白髪交じりの髪を揺らした。

 


 次の出勤日、新しい入居者が福花荘に入所した。木村さんは83歳の女性で、認知症は比較的軽度らしい。玲子は木村さんを見たとき、なぜか懐かしい気分になった。だからといって、玲子が木村さんと世間話をしたり、特別扱いすることはなかった。


 木村さんが入所して一週間が経った頃、同僚が木村さんと話をしている場面に出くわした。


「木村さぁん。職員で武藤さんっているでしょ。冷たい人だから、あんまりお世話してくれないでしょう?」


「トイレの手伝いも風呂のこともしっかりしてくれるけど」


 木村さんははっきり答えた。


「そう? でも怖い顔だから、やってもらっても嫌な気持ちになるでしょう。他の人もみんな武藤さんは怖いって言っててね」


「――顔なんて生まれつきのものでしょ。皮と肉が削げたらみんな同じようなものです」


 同僚の言葉を遮るように木村さんは続ける。


「武藤さんみたいに真面目に丁寧な仕事をしてくれる人が、私は好きです」


 その言葉を聞いた玲子は、視界が滲むほど嬉しかった。胸のなかに『好き』という言葉が、枯れた砂の隅々に水が染みわたるように広がっていった。同時に、玲子は気づく。神様が願いを叶えてくれたことに……。


 自分のことをわかってくれる人がいる。玲子は、今まで以上に真面目に仕事をした。そうしていると、徐々に入居者からは「丁寧で真面目な人」と言ってもらえることが増えてきた。他の入居者が「木村さんは、ことあるごとに武藤さんのことを褒めているよ」と教えてくれた。そんな奥ゆかしい木村さんの心遣いに、玲子は頭が下がる思いだった。



 夜勤明け、玲子は拝殿に手を合わせる。


「神様、ありがとうございます。私みたいな女でも、必要としてくれる人がいました。きっと、神様がきっかけを作ってくれたのでしょう。木村さんとの出会いで、この仕事を続ける勇気を持てました」


 もちろん、返事なんてない。頬をさすような冷たい風に身震いしながら、玲子は足早に神社を出た。


 

 玲子の勤務は月の八割以上が夜勤になっていた。どの職員も夜勤が嫌だと言うので、毎月回数が増えていく。カーディガンを羽織りスタッフルームに入る。介護記録を見ると、信じられない文字が目に入った。


「木村さん、亡くなったんですか……?」

「はい。老衰ってドクターが」

「なぜ教えてくれなかったんですか?」


 木村さんが玲子のことを『お気に入り』だということは他の職員もわかっていたはずだった。せめて、最期の挨拶くらいさせてほしかった。玲子は唇を噛みしめる。


「武藤さんって、入居者さんにやさしくしないでしょ? 連絡しても迷惑だと思って」

 

 職員の目の奥が笑っていることに気づいた玲子は、職場で初めて涙した。

 その涙が悲しいせいなのか、怒りのせいなのかは、玲子にもわからない。

 それでも時間通りに仕事を始める。入居者の食欲も尿意も便意も、玲子の都合で待ってはくれない。今やれることを少しでも、と自分に言い聞かせながら仕事をする。


 夜勤明け、玲子が泥のように眠っていると、神様が夢に出てきた。

 いつものように手を握ってくれる神様に、玲子は初めて声をかけた。


「神様、いつもありがとうございます。私のお願いをもうひとつだけ、叶えてください。……私をやさしくしてください。無理ならやさしい顔つきにしてください。こんな辛い気持ちになるのは、もう嫌です」


 神様は、玲子を抱きしめた。懐かしい木村さんの気配がした。


「お前はずっと前からやさしい。お前のようなやさしい人間が、辛い目に合わないように……その願いを叶えよう」




 翌々日、玲子は冷たくなって発見された。

 違法な夜勤体制での過労が原因だとマスメディアは報じた。



 玲子の死に顔は安らかで、やさしく微笑んでいたことを、誰も知らない。



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武藤玲子は神様の夢を見る 蜂賀三月 @Apis3281

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