第3話 先生

 オフィーシス・アルベシカ。煙の香りがする中心街から、少し離れた場所に住む男性。職業はとある会社の事務員で、大人しい以外にこれといった特徴はないと、会社の同僚から言われてしまうような、影の薄い人物。

 そんな彼は、額に汗を浮かべながら自宅に駆け込んでいた。玄関のドアを閉めて、震える手でどうにか鍵を締めて、ようやっと体のざわつきが落ち着いてきた。

 大きく息を吐き、ドアに背を預けて座り込む。ぎゅっと縮こまった肩の力が抜けた。すぐに立ち上がれそうにはなかった。

 あの男は。上がった息が落ち着いてくるのと同時に、電車の中で出会った男のことを思いだす。トンネルを過ぎたとき、目の前から消えていたこと。フルネームを知っていたこと。そしてオフィーシスのことを「先生」と呼んだこと。ただ一枚、切符を席に残して姿を消した彼は、何者なのか。

 男が消えた後、オフィーシスは言いようのない恐怖に襲われた。だから、汽車が駅に着いたとき、誰よりも早く車内から降りて、一目散に自宅への帰路を目指したのだ。

「……喉が渇いた」

 独り言。ひとりでいる不安をごまかすように呟いた。なんとか立ち上がり、オフィーシスはキッチンへ向かった。水でも飲めば落ち着く。祈るような気持ちで、よろける足を動かした。

 ようやくキッチンに辿り着き、シンクにある蛇口を捻れば水が出てくる。それを手で掬いあげ、口元に運んだ。冷たい感覚が喉を通り、腹の中へ消えていく。何度かそれを繰り返したところで、気持ち悪さで吐き戻してしまった。

「……っ……はは」

 何がおかしいのか、自分でも分からない。けれど、今は笑うしかなかった。水もろくに飲めなくない状態と、震える体で逃げ帰ってきた姿が、どうしようもなく惨めでたまらないからだ。



 オフィーシスが言いようのない恐怖を感じたのは、男が自分の名前を知っていたからでも、突然姿を消したからでもない。

「自分が昨晩書いていた小説と、同じような展開で男が姿を消したこと」が、彼を一番震え上がらせたのだった。




数日後。オフィーシスは机に向かって書き物をしていた。それは、例の小説の続きだった。冒頭と結末だけ書き終わっていて、中身はこれから。そんな状態だから、ほとんど小説の体を為していない。けれど、オフィーシスが筆を走らせるたび、その物語は形を得ていった。この感覚が、オフィーシスにとって一番楽しいことだった。

 一方、汽車での出来事は、オフィーシスの頭にしがみ付いて離れなかった。時間が経っても、言い表せない薄ら寒さはなかなか消えなかった。いま書いている話の結末通りのことを体験したのだ。これを不思議な話と片付けてしまえるほど、オフィーシスは能天気ではない。

 ただ、物語を書く行為はオフィーシスの心を落ち着かせる。その結末で、恐ろしい思いをしたとしても、オフィーシスは書くことを止められないのだ。

 サラサラと、紙の上をペンが走る。人が、風景が、世界のすべてが、オフィーシスによって与えられた命だった。


『暗闇の中で、男は言った。「その旅人は祈った。無事に山を越えられますようにと。そうして薄暗い道に足を踏み入れた……あなたは、どう思いますか? 旅人は、無事に山を越えられたのでしょうか?」男の問いかけに少し頭を捻り、青年はこう言った。』


「いいえ、彼は狼に食われてしまいます」

 耳元で低い声がする。ペンを走らせていた手が止まり、一瞬遅れて心臓が大きく跳ねた。オフィーシスは一人暮らし。彼以外がいるはずがない。では、誰がすぐ側にいるというのか。

「彼は食われて、骨すらもかみ砕かれて消えてしまう。彼がそこにいた証は、何も残りません。彼は家にも、土にも、帰ることができなくなってしまうのです」

 低い声は、オフィーシスが書いている文章を読んでいた。その吐息がオフィーシスの耳を撫で、寒気が全身を包む。力が抜けた指からペンが落ち、机の上を転がる。やがてカランと音を立てて床に落ちた。

 その瞬間、体のこわばりが取れたオフィーシスが後ろを振り返った。目に入ってくるのは、黒いコートに身を包んだ体。そして鼻に入ってくるのは重く甘い香り。ゆっくりと首を上に上げていけば、そこには汽車の中で見た男の顔があった。

「こんにちは、先生」

 汽車の中で見たときと変わらない微笑みで、男はオフィーシスを先生と呼んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪魔と物書き あかもち @haka8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ