第2話 才の悪魔

 世界規模の大戦が幕を閉じたころ。戦争一色だったその街は、段々とかつての日常を取り戻していた。ただ、街外れの工場の煙突だけは、どうにも大戦のとき以上に黒煙を噴き出しているようだった。

 煙は空に広がり、のっぺりと漂っている。そのせいか、日が高くなる正午を過ぎても、街はどこか薄暗い空気を漂わせていた。

 ただ、人々は活気に満ちあふれていた。よやく安心して商売ができること、眠れないほどの不安に襲われないこと、理由はいくつかある。なにより、生きるためには動かなければならないこと、これが一番の理由だろう。

 今日も、往来では数多くの人々がいる。その中に一人だけ、やけに人波をかわすのが上手い男がいた。ただゆったり歩き、悠々とコートの裾を揺らしながら歩いていた。

 その足が向かった先は、街で一番大きな駅のすぐ隣、品ぞろえが良いと評判の本屋だった。

「いらっしゃいませ」

 ドアベルの音に、受付に座っていた店員が顔を上げた。声をかけられた男は、被っていた帽子を右手で軽く掴み、簡単な挨拶をする。

「ここは、街で一番の品ぞろえと聞いて」

「もちろん。古いものから新しいものまで揃えております。なにかお求めのものが?」

 店員の問いに、男は小さく頷く。しかし、何かを思い直したのか、首を横に振った。

「自分で探すよ。ありがとう」

 そう言って、男は店の中を歩き出した。棚は綺麗に整理され、目当ての本を探し出しやすいようになっている。それに、街一番の品ぞろえという評判は、あながち間違いでもないらしい。店内に満ちた紙独特の香りが、その数の多さを物語っていた。

 男はゆっくりとした足取りで、本棚の間を歩いていく。たまに適当な棚で立ち止ると、そこにある一冊の本を手に取った。ぱらぱらとページを捲り、文章を流し読みしていく。その本を閉じて棚に戻すと、また別の本を取り出してページを捲った。

 これを繰り返していくこと、どれくらいだろう。男の目に、一冊の本が映った。

 男は、その本を手に取って中を開いた。一ページ、二ページと読み進めていき、中身を吟味していく。

 やがて、男の唇に笑みが浮かんだ。まるで、待ち望んでいたものをようやく手に入れた、とばかりの表情だった。

 本を棚に戻し、男は来た道を戻っていく。出口までくると、先ほど話しかけてきた店員が、近くの棚の整理をしているところだった。男が近付いてくるのに気付いてか、ぱっと笑顔を見せた。

「お探しのものはありましたか」

 そう言った店員に、男は頷いた。

「久しぶりに良い物を見つけたよ。街一番の本屋というのは嘘じゃない」

 そして男は、扉を開けて店を出ていった。ドアベルの音が、チリンと軽やかな音を出す。それと同時に、店員の鼻を甘くて重い匂いが通り抜けた。

 思わずせき込んだ店員は、ふとドアの方を見た。自分はここで何をしていたのか、分からなくなったのだ。

 扉近くの棚を整理していたのは確かだ。けれど、誰も扉から出入りしていないはず。ではなぜ、ドアベルの音がなったのか。

 店員は、また甘い匂いにせき込んだ。今しがた、自分が話していた男のことなど、少しも覚えてはいない。ただ、喉にしがみついて離れないこの甘い匂いの正体を、探すほかなかった。




 才の悪魔は、契約した人間に才能を与える。才能を与えられた人間は、それまでの人生からは考えられないほどの成功をおさめ、富や名声をほしいままにする。けれど、その富や名声が最高潮に達したときを境に、人間はその才能を失ってしまう。

 そのあと、辿る道はすべて同じ。絶望か、錯乱か。いづれにしても、その人間は自ら命を絶つのだ。

 そして、悪魔は笑う。人間とは、なんて単純で面白い生き物だろうか。

 才の悪魔というのは、ただ才能を与えるだけの悪魔ではない。その人間の、残りの人生における「使われるはずのすべての才能」を与えるのだ。

 これが尽きてしまうと、絶望に暮れてしまう人間は多い。与えられた才能が、有限だなんて考えに思い至る方が難しいのだから、仕方がない。

 だから人々は恐れる。才能ある人間が、悪魔に魅入られてしまうことを。その生涯を短く終えてしまう恐怖を。



 幾年も前に読んだ文章を、男は思い返していた。そして、間違っている内容があっても、もう訂正すべがないことにため息をついた。

 正しく言うのならば、才の悪魔は「彼らの才能を愛する」から、与えてやるのだ。使われない才能というのは勿体ない。ならば、眠らせておくべきではなく、見える形で与えてやる方がよっぽど良い。

 つまり、面白半分で才能をもてあそぶのではなく、才能を操れる悪魔だからこその親切心だった。だから、故意に絶望させようとはしていない。結果的に、人間が絶望をして、命を絶ってしまう。これだけのことだった。

 男は、「才の悪魔」について書いた作家が、すでにこの世にはいないことを知っていた。だから、彼の訂正は、彼自身の中にとどめておこうと、気持ちを切り替えた。

 才の悪魔は、親切な悪魔。こんなことを思いながら、人ごみを避けつつ、男は駅へ向かった。

 駅についた男は、ポケットを探り、一枚の切符を手に取る。改札にいき、駅員にハサミを入れてもらうと、丁度ホームにきた汽車に乗り込んだ。運よく空いていた席に座り、窓の外をみる。黒煙の隙間から、やけに晴れた空が見えていた。

 やがて汽車は動き出した。ゆっくりと動く中、通路を歩く人間の姿が窓に映る。

 男は瞬きをした。そして、小さく微笑んだ。あの本を見つけたときと、同じ表情だった。

「席をお探しですか」

 男はその人間に声をかけた。通り過ぎようとしていた足を止め、人間は男の方を見た。

「……ええ」

「よろしければ、わたしの向かい側にどうぞ」

 男は目の前の座席を手で示した。それに対して、人間は目を指で擦り、何かを考えるような仕草をした。けれど、車内が大きく揺れたのをきっかけに、席へ座ることにした。

 男と人間の間に、奇妙な空気が流れた。男は相変わらず微笑んでいるし、人間の方も、居心地が良いとは言えない表情を浮かべている。

「あの、ありがとうございます。席」

 ぎこちないながらも、人間の方から口を開いた。男の方は、気にするなと首を横に振る。

「お気になさらず。ですが、どうして座るのをためらわれたのですか?」 

 男が聞いた。先ほど、人間がすぐに席へ座らなかった理由が聞きたいようだ。

「なんと言えばいいか……僕には、この席が埋まっているように見えたんです。座席の布色が見えなかったから。寝不足で疲れているのかな」

 人間は困ったように笑った。その目の下には薄い隈がある。

「夜、何かなさっていたのですか」

 また男が聞いた。人間は「まあ、そうですね」と曖昧な言葉で返す。しかし、男の視線に耐えられなくなったのか、こう言った。

「実は、小説を書いていましてね。売れないもんですから、別で仕事もしているんですけど。それでまあ、先週くらいから色々ありまして。昨日なんかは、夜通し書き物をしていました」

 いや、お恥ずかしい話で。人間は困ったように窓の外を見た。すでに街は抜けていて、外には畑や木々が目立つようになってきている。記憶が正しければ、もうすぐトンネルに差しかかるはずだった。

「どんな内容なんですか」

 男が口を開く。まだこの話を続けるのか、と人間は驚いた。

「内容ですか」

「ええ、お聞かせください」

「……あんまり、面白くはないですよ」

 こう言うと、人間は一つの物語を話しはじめた。

「舞台は、僕たちがいるような汽車の中です。汽車は、山と丘を二つずつ越えた先の街に行く途中で。そこで主人公は、一人の男と知り合う。主人公と男は、馬があったのか、途切れることなく会話をするんです。けれど、山と丘、それぞれに作られた四つの長いトンネルを抜けるときだけ、男が不思議な話をする。まるで聖書の中の逸話みたいなものを。そして、四つめのトンネルを抜けたころ、男は跡形もなく消え去っていた……こういう話です」

 人間は、ふっと息をはいた。

「ね? 面白くないでしょ」

 そして、汽車がトンネルに入った。一気に暗くなった車内で、男の顔は見えなくなっていた。けれど、微笑んでいることだけは、なぜかはっきりと分かった。

「あなたは、随分と愛されているようだ」

 男がこう言った。人間がその意味を理解する前に、男はひとつの名前を口にした。

「オフィーシス・アルベシカ」

 人間の背筋に冷たいものが走った。その名前を、男はなぜ知っているのか。

「また会いにきます」

 先生。そうやって語りかけた男。人間が席を立とうとすると、ぱっと車内が明るくなった。トンネルを越えたのだ。

 あまりの眩しさに目を閉じ、少し経ってからゆっくりと開ける。そうしてみた先に男はいない。ただ、座席の上に一枚の切符があるだけだった。




 

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