第4話

 エマは三日後に意識を取り戻しました。彼女が眠っている間、レオを責める者は一人もいませんでした。むしろ、みんながレオを褒め称えるのです。旦那様は「レオがいたからエマは一命をとりとめた」と言い、ハンナは「すぐに知らせてくれてありがとう」と感謝を述べ、リリーは「なんて賢い犬なの」と抱きしめてくれました。その度にレオの胸は痛みました。

 しかし、エマは目覚めて以降、見るからに衰弱し、ベッドの上で過ごすことが多くなりました。

 レオは日がな一日、エマのそばにいました。彼女のそばを片時も離れたくなかったのです。

「パパとは結局、お茶できなかったわね。お仕事があるからと、また帰ってしまわれたし。次はいつ会えるかしら。あぁ、あなたのせいじゃないわよ。わたしが決めたんだもの。後悔だってしていないの。幸せいっぱいよ。だってルピナスの丘はとっても素敵だったんだもの。この病気はね、どうせ長くは生きられないの。ならばせめて、見たいものを見てから死にたいじゃない」


 季節が秋へと移ろってもエマは庭を散歩する体力さえ取り戻すことができずにいました。

「ダンは私のことが嫌いになったのかしら。なぜお手紙をくれなくなってしまったのかしら」

 エマはこうして時折、弱々しくもらすこともありました。体調が下降するにつれて寂しさも募るようでした。ダンが亡くなったことを知らずにいることがエマにとって良いことなのか悪いことなのか、レオにはわかりませんでした。

 それでも夜になるとエマは、不思議な世界に迷い込む話やお姫様と騎士のロマンスなど、色々なお話を聞かせてくれました。「眠る前に素敵な物語に浸ると眠った後はいい夢を見られるのよ」と言って。

 その日もエマは少年が旅をする物語を聞かせてくれました。語り終えたあと、「水が少ないわ。ハンナを呼んできてくれない?」とレオにお願いしました。エマのそばを離れるのは嫌でしたが、彼女の望みは叶えるべきことなのでハンナの部屋へと向かいました。

「あら、レオ。どうしたのです?」

 言いながら、ハンナはレオを部屋に招き入れてくれました。ハンナを呼びに来ただけのはずでしたが、ハンナの部屋に入るのは初めてだったのでレオは好奇心に勝てませんでした。ハンナの部屋はエマの部屋に比べるととても小さく、家具はベッドと机と椅子があるだけです。机にはいくつか封筒が並べて置いてありました。レオがクンクンと匂いを嗅ぎながら近付くとハンナは「あぁ」と小さく声をもらしました。

「そのお手紙をどうすればいいのか悩んでいたのです。捨てることもお嬢様に渡すこともできず」

 ハンナは手紙を一通持ち上げて深いため息を吐きました。

「私は、許されないことをしました。これはお嬢様が文通をしていた、ダン様という方からのお手紙なのです」

 突然の告白にレオは戸惑いました。

「聞いてくれますか、レオ。私の罪を」

 ハンナは椅子に腰掛けて徐に語り出します。レオもじっと耳を傾けることにしました。

「私は、お嬢様がダン様とお手紙のやり取りをしているのは知っていました。お嬢様の密やかな、唯一の楽しみを奪いたくなくて知らぬふりをしていたのです。お嬢様が嬉しそうに笑う姿は私の心を温かくしてくれるのですもの。けれど次第にお嬢様の外出への憧れを強くなっていきました。私は旦那様にお嬢様のことをお願いされていましたから、お嬢様の望みであっても体に毒だとわかっているお願いを聞くことはできません。しかし、お嬢様は許可がおりないとわかると、私たちの目を盗んで抜け出してしまわれたのです。そのことに気付いた私は、慌ててお嬢様を探しに行きました。そして倒れているお嬢様を見つけたのです。なぜお嬢様があれほど外へ出たがるのか。その理由はダン様のお手紙にあるのではないかと考えました。そこで私はこっそり彼からのお手紙を読んでみたのです。そこには溢れんばかりの町の美しさが記されていました。お嬢様でなくてもこの町を散策したいと思うことでしょう。私はこれ以上、文通を続けさせるのは危険だと判断しました」

 ダンの手紙は、ダンが亡くなる前から途切れていたのです。

「牛乳配達の男の子を捕まえて、ダン様からのお手紙も、お嬢様からのお手紙も、私に渡すよう指示しました。そしてこのことは決してお嬢様には伝えてはならないと、お金まで握らせたのです。私は卑劣なことをしました。ある日、ダン様が尋ねて来られました。返事が届かないことを不審に思われたのでしょう。私はお嬢様が倒れたことを知らせました。そして、その原因はダン様にあると、ダン様のお手紙は害となりお嬢様のお命を縮めるのだと、お嬢様のことを想うならあのようなお手紙を書くべきではないと、怒りに任せて言ってしまったのです。去っていく彼の背中を、今でも忘れることができません。彼から手紙が届くことは二度とありませんでした。その出来事から二年後に彼が亡くなったことを牛乳配達の男の子から聞きました。お嬢様にはお伝えしていません」

 一息つくと、ハンナは頭を抱えました。

「ダン様の命を奪ったのは私だったのでしょう。そしてお嬢様を不幸にしたのも、私なのです」

 ハンナがやったことを誰が責めることができるでしょうか。ダンも、ハンナも、彼らの行動の源にはエマへの愛しかありませんでした。


 冬になると、エマはベッドから起き上がることも出来なくなりました。眠っている時間が長く、布団の上に投げ出された手は熱を帯びていました。

 お医者様の話では、冬は越せないということでした。それでもレオはエマがまた元気になってくれると信じていました。

 ある日、エマはふわりと瞼を持ち上げて言いました。

「何だか今日は穏やかな気持ちだわ。ハンナにもリリーにも、そしてレオにも感謝でいっぱいなの。わたし、とっても幸せ者よ。心残りがあるとすれば、もう一度ダンに会いたかったということかしら。春が待ち遠しいわ。わたしね、桜の花も好きなのよ」

 桜が咲く季節はまだ先でしたが、レオはエマに見せたいと思いました。

 その夜、レオは庭に向かいました。雪をかぶった桜の木は寂しい姿をしていました。やはりまだ咲いていないのだ、と踵を返そうとしたそのとき、木の下に人影が揺れるのが見えました。じっと目を凝らし、その正体に気付いたとき、レオは思わず吠えました。

 ──ダン!

 それは紛れもなくダンでした。

「レオ、ありがとう。エマのそばにいてくれて。これからは、ぼくに任せて。ルピナスの丘で会おうとエマに伝えておくれ」

 それだけ言うとダンの姿はすぐに消えてしまいました。ダンが立っていた近くの枝には、桜がひとつ咲いていました。レオは花が散らないように気をつけながら、精一杯、体を伸ばして枝を折ると、エマの部屋へと急ぎました。



 *



 この桜はダンが咲かせてくれたんだよ。ほら、ちゃんと目を開けて見てよ、エマ。

 あぁ、どうしよう。君の手、ずっと冷たいままだ。こんなに冷たくちゃよく眠れないだろう。どうして微笑んでいるの。僕の気も知らないでさ。

 ダンがね「ルピナスの丘で会おう」って言っていたよ。君とダンが会えるのは、僕にとっても嬉しいことさ。でもね、今の季節にルピナスは咲いていないんだよ。ダンに会うならもっと綺麗に咲いてる季節じゃなきゃ。そうでしょ?

 だから、ねぇ、エマ。もう少しだけ僕のそばにいて。






 了

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親愛なるエマ 花望いふ @hanamochi_ifu

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