第3話

 待ちに待ったチャンスの日がやってきたのは夏の初めの頃でした。桜の木に茂る葉が陽光を受けてつやつやと輝く昼下がり。庭のベンチで本を読むエマのそばで、レオは寝そべって彼女の横顔を見つめていました。エマの頬は白く、太陽の光を浴びると余計に透き通って見えるほどでした。

 その日は朝から家の中が慌ただしく、リリーはキッチンにこもってパイやクッキーやケーキなどをもりもり焼いているし、ハンナはいつも以上に張り切って家中の埃を払ったり床を磨いたりしていました。

「パパが来るっていうだけで、あの人たち大騒ぎね」

 とエマは本を閉じてクスクス笑いました。

「今日のお茶の時間はパパも一緒なのよ。楽しみよね。本当は私もリリーのお手伝いをしたいところだけど、お料理は苦手だから」

 エマは残念そうに肩をすくめます。レオにとっては、彼の立ち入りを禁止されているキッチンにエマがこもってしまうよりも、こうして一緒に庭でくつろげる方が嬉しいのでした。

 十五時になると、ハンナが帽子をかぶって馬車に乗り込みました。

「旦那様を駅まで迎えに行って参ります。お嬢様、それからレオ、決してリリーを困らせるいたずらはしないように。旦那様もいらっしゃることですし、今日くらいはいい子にしていてくださいよ」

 ハンナは念を押してから出発して行きました。レオは小さくなっていく馬車を眺めながら、これはチャンスだと思いました。彼にはハンナの言いつけを守る気などさらさらなかったのです。強敵のハンナは出かけていないし、リリーはキッチンで大忙し。監視の目はどこにもありません。ハンナもまさか、旦那様がいらっしゃる日にエマが抜け出そうとするなんて思いもしていないでしょう。こんな絶好の日を逃す訳にはいきません。

 馬車が見えなくなると、レオはエマのワンピースの裾を甘く噛んで引っ張りました。これは外へ行こうといういつもの合図でした。エマは困惑の表情を浮かべます。

「確かに今が絶好の機会に違いないわ。でも、今日はパパが来るのよ……」

 それでもレオは裾を離しません。

「……うーん。パパが来るまでにまだ時間はあるわよね。少しだけなら……そうだわ。少しだけ。えぇ、レオ、行きましょう」

 そうしてエマとレオは木戸へと向かいました。ところが、やはりエマは木戸の前に立つと動きを止めてしまうのでした。レオはエマの隣をそわそわと動き回っていましたが、不意に生垣を飛び越えました。この家にやってきたときと同じように。

「待って、レオ! 嫌よ、一人で行っちゃ嫌!!」

 エマは木戸に縋り付いて叫びます。レオはエマの目を見ながら少しずつ後退していきました。

「わかった。わかったわ。今行くから止まってちょうだい」

 エマは深呼吸をひとつすると、木戸を開けました。そして一歩踏み出し、レオのもとへ走り寄ります。

「やったわ。レオ。やったのよ、わたし!! レオ、あなたのおかげよ。ありがとう。でも聞いて。わたしたった今、大変なこと気づいちゃった。わたしね、丘がどこにあるのか知らないの。ダンの手紙ではここからそう遠くないところにあるって書いてあったのだけど」

 レオは「それなら僕に任せて」とまたエマの裾を引きました。

「レオ……もしかして案内してくれるの?」

 質問に答えるように、レオは「ワン!」と一声鳴きました。


「これが、ルピナスの丘!! なんて素敵なの」

 丘には、一面に咲いた紫のルピナスが柔らかな風に揺られていました。エマはその景色を前に泣き出してしまいました。エマに笑ってほしくて連れてきたのにどうしたことだろう、とレオは彼女の足元に擦り寄ります。

「ごめんなさい、レオ。心配させちゃった? あまりに綺麗だから、涙が出てきちゃったの。想像していたよりもずっと素晴らしいわ。ダンが教えてくれなければ、あなたが連れてきてくれなければ、わたしはこの景色を知らないままだったのかもしれないなんて」

 エマはそう言うと涙を拭いて、丘の上で喜びを表現するようにくるくると踊り始めました。レオもエマの周りを跳ねまわります。レオはこのときのことを一生忘れることはないでしょう。だって、彼女の姿はとても美しく、そのひとときはあまりに幸福だったのですから。

 どれくらい時間が経ったでしょう。エマが突然、声を上げました。

「大変! 夢中になりすぎちゃったわ。早く帰らなくちゃ。パパが到着しているかもしれないわ。あぁ、急がなくちゃ」

 そしてエマは走り出しました。うつらうつらしていたレオも慌ててエマの後を追います。そのときでした。エマが急にその場に崩れ落ちました。丸まったエマの背中は上下し、苦しげな咳も聞こえます。追いついたレオが顔を覗き込もうとした瞬間、エマの体はぐらりと傾き、そのまま地面に倒れ込んでしまいました。レオには何が起きているのかわかりません。エマの口周りや胸は赤く染まっていました。頬を舐めても、何度か吠えてみても、激しい咳を繰り返すばかり。彼女の頬は青白く、レオは死ぬ前のダンのことを思い出しました。大変なことが起きていると気付いたレオは助けを呼ぶため、家に向かって走り出しました。



 *



 僕は一度も考えたことがなかった。なぜハンナが外出を禁じていたのか。なぜ君はいつも木戸の前で立ち止まってしまうのか。

 君は病を抱えていたんだね。この地に来た理由も、空気の綺麗な場所で療養するためだったんだ。

 前に一度、家を抜け出したとき、あのときも倒れたんだろう? 君は再び倒れることを恐れていた。だから、君はあの場所で立ち止まってしまうんだ。僕はそんなことにも気が付かずに、呑気にも君を外へ連れ出して無理をさせてしまった。

 意識をなくした君がベッドに運ばれ、お医者様に診てもらっている間、僕は祈った。どうか、君が目を覚ましてくれるようにと。


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