第2話

 レオは彼女たちと共に暮らすことになりました。その家にはハンナの他に、リリーという通いの使用人がいました。幸い、リリーはレオを見た途端に激しく撫でまわすほどの犬好きだったので、歓迎を受けました。

 レオは一日の大半をエマと過ごします。エマの部屋には大量の本がありました。ほとんどの時間を家の中で読書して過ごすからです。散歩に出かけるときも庭の中だけで、決して生垣の外には出ようとはしません。レオは最初、退屈しないのだろうかと思いました。しかし、暮らし始めて一週間も過ぎれば理由が見えてきました。どうやらエマは外出を禁じられているらしいのです。エマのそばではハンナがいつも監視の目を光らせていました。

「窮屈だわ」

 ある夜、エマはレオに冒険の物語を話し終えたあと、そっと心のうちをもらしました。

「あなたが来てくれたおかげで毎日は随分楽しいものになったわ。でも、やっぱり窮屈よ。たまにはハンナの目から逃れて外を思いっきり駆け回りたいわ。この町にはね、ルピナスが咲く美しい丘があるそうよ。この目で見てみたいわ。想像で補うには限界があるもの」

 レオはどうにかしてエマの願いを叶えたいと思いました。エマを外に出すためには監視の目を緩める必要があります。そのためには何をするべきか。ハンナの気を引けばいいわけです。彼にとっては簡単なことでした。

 レオはそれから何かとハンナの手を煩わせるいたずらをしました。ミルクのお皿をひっくり返したり、リビングルームをめちゃくちゃに散らかしたり、ハンナの編みかけのショールを解いたり。家中に響き渡るハンナの怒声を聞きながら、レオはエマを連れて庭へと駆け出すのです。しかし、うまくはいきませんでした。木戸を開けようとするタイミングでエマが立ち止まってしまうからです。そうしている間にハンナに追いつかれてしまい、連れ戻されてしまうのでした。

 一度も外に出たことがないエマにとってその一歩はとても恐ろしいものなのかもしれないとレオは思いました。だからといって諦めるつもりはありません。

 レオはルピナスの丘を知っていました。あの丘にはダンと過ごした思い出があるのです。あの美しい景色を見ることができたら、エマはどんなに喜ぶだろう。そう考えるとやはり、エマを外へ連れ出したいという気持ちが変わることはありませんでした。


 春がきました。窓からは白い花を美しく咲かせた桜の木が見えます。小鳥の愛らしい歌声を聞きながら、エマはこの日、食欲がないからと朝食を抜いたせいか、少しだるそうに自室のベッドで横になっていました。エマの手には手紙が握られており、飽きもせずにそれを繰り返し読んでいる様子でした。レオがベッドのそばに腰を下ろすと、エマはパッと顔を上げました。

「これが気になる?」

 エマは手紙をひらひらさせてレオに笑いかけます。体を起こし、咳をふたつしたあと、ベッドから乗り出すようにしてレオの頭を優しく撫でました。エマのふわふわの巻毛が鼻に触れてくすぐったく、しかし幸福そうに、レオは身を捩らせました。

「これはね、ラブレターなのよ。彼とは一年くらい文通をしていたかしら。ルピナスの丘のことを教えてくれたのも彼なの。彼と初めて会ったのは私がここへ来たばかりの頃だったわ。庭を散歩をしているとね、生垣の向こうからこちらを覗き込んでいる怪しい青年がいたの。『誰なの。そこで何しているの』って声をかけたら彼、なんて言ったと思う? 『あなたがあんまりに綺麗だから見惚れてしまった』ですって。笑っちゃうわよね。でも私も彼のことがすぐに気に入ったわ。……ダン。それが彼の名前よ。絵描きだと言っていたわ」

 レオは思わず飛び上がりました。まさかエマの口からダンの名前が出てくるなんて、思ってもいなかったからです。

「あら、そんなにせわしなく尻尾なんか振っちゃって。お話を聞いただけでダンのことが好きになっちゃった? そう。ダンはいい人よ。外出が許可されていないのだと話すと彼は、『では代わりにこの町で見たこと聞いたこと感じたことを全て君に教えてあげよう』って言ってくれたの。それで手紙のやり取りをすることになったのよ。手紙は牛乳配達の男の子にお願いして届けてもらってたわ。彼からの手紙は、退屈な毎日に彩りを与えてくれたの。部屋の中にいてもダンの手紙を読めば町を散策しているような気分になれたわ」

 レオは、ダンとエマに交流があったことを初めて知りました。彼が亡くなった後、エマのもとへ辿り着いたことに、運命的なものを感じずにはいられませんでした。

「でもね、手紙を読んでいるうちにどうしてもルピナスの丘を見てみたくなったの。それでわたし、ハンナにお願いしたのよ。一度だけでいいからルピナスの丘に連れて行ってほしいって。でも何度お願いしてもハンナは『いけません!』の一点張り」

 ハンナは意地悪だ、とレオは思いました。好奇心旺盛で、まだまだ十八歳と若い少女を閉じ込めておくなんて、なんて酷いことをするのだろうと怒りすら覚えました。

「だからわたし、こっそりお家を抜け出してやったわ。実はわたし、あの木戸から外に出たことがあるのよ。あのときの一回きりだけどね。わたしは丘を目指して走ったわ。でも……辿り着けはしなかった」

 エマは遠くを見つめる目をしました。きっとそのときもハンナに捕まってしまったのだろう、とレオは思いました。

「そうそう。彼の手紙にはレオという名前の赤毛の犬が出てくるのよ。ちょうどあなたのような。だから木の下にいるあなたを見つけたときはびっくりしたし、嬉しかったわ。もし犬を飼うことがあったら、彼の真似をしてレオって名付けようって決めてたんだもの。……ダンからの手紙は、この手紙を最後にしばらく届いていないの。わたしも愛しているとお返事したのに」



 *



 君の手、ちっともあったかくならないね。僕のお腹の下に入れておくのはどう? 少しはマシになるかもしれないよ。

 驚いただろう? ダンが亡くなったこと、君は知らなかったみたいだから。

 僕はね、君の悲しい顔よりも笑ってる顔が好き。

 君が「愛している」と言ったダンはもうこの世にはいない。だから、君に会わせてあげることもできない。ならばせめて君にルピナスの丘を見せてあげたいと強く思った。僕の気持ちが君に伝わったのだろう。だから君もあの日、木戸を開けて飛び出したんだ。

 君は、後悔していないと話していたね。幸せだ、とも。

 でも僕はね、後悔しているんだ。とても。



 *

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