親愛なるエマ

楠 悠未

第1話

 お待たせ。ほらごらん、桜だよ。庭からもらってきたんだ。勝手に、だけどね。枝を折ったことがハンナに知られたら叱られちゃうだろうな。でも平気。この家に来てから僕はもう数えきれないくらいハンナに叱られてきたからね。慣れっこさ。

 あっ、そうだ。ねぇ、今夜は僕がお話ししてもいいかい? 君はよく、僕に物語を聞かせてくれるだろう? 今夜は僕がお話をしたい気分なんだ。ね、いいだろう?



 *



 ある朝のことです。重く垂れ込める空の下、赤毛の犬が一匹、歩いていました。この犬は二週間前に主人を亡くしたばかりでした。

 主人の名はダン。野良だった彼を家族として迎え入れてくれた心優しい青年でした。ダンは小さな家で絵を描いて暮らしていました。生活は穏やかなもので、犬は絵を描くダンの隣に寝そべって、絵の具で顔を汚す主人を眺めている時間が大好きでした。

 しかし、ダンは二年前から精神を病んでいました。今年になるとそれはますます悪化したようで不眠と頭痛が続き、絵も思うように書けなくなっていきました。出会った頃の溌剌としていたダンの頬は次第に痩けて青白くなり、目元も落ち窪み、まるで亡霊を見ているようでした。犬は変わり果てていく主人のことが心配でたまりませんでした。

 暗く寂しい冬が終わりに近付く頃、ダンはまた前のように明るい笑顔を見せてくれるようになりました。徐々に回復へと向かうのかもしれない、彼がそう思っていた矢先のことです。ダンが死んだのは。愛犬を残してダンは、自ら命を絶ってしまったのでした。

 ダン亡き後、引き取ってくれる者は誰もいなかったために犬は再びひとりぼっちとなりました。

 最愛の主人を亡くしたその犬に行くあてなどありません。深い悲しみの中にいても空腹を訴える自分の肉体を恨めしく思いながら彼はただ、田舎町を彷徨い歩いていました。

そのうち、重い雲からポツリポツリと雨粒が落ちてきました。冷たい雨が彼の体を濡らします。

 ずぶ濡れになった体を引きずりながらそれでも歩き続けていると、一軒の家が目に入りました。背の低い生垣と白い木戸の先の前庭には裸の桜の木が力強く立ち、更にその奥にはレンガ造りの家が佇んでいます。彼はその景色に見覚えがありました。そばで見ていたので忘れるわけがありません。それは、ダンが描いていた絵の中の家と同じだったのです。

 犬は誘われるように生垣を飛び越え、敷地に入り込みました。ダンはこの家をモデルに描いたのだろうと嬉しい気持ちになりながら、彼は木の下に寝そべりました。葉がないために雨を凌ぐことはできませんが、不思議と心が安らぎ、久しぶりに寂しさを忘れることができました。絵の具の匂いが鼻を掠め、一心不乱に絵を描くダンが隣にいるような気がしたのです。

 歩き続けた疲労もあったせいか、彼はいつのまにか眠ってしまいました。

 目を覚ましたとき、彼の周りでは何やら騒がしい声がしていました。

「お嬢様、お部屋にお戻りください。お身体に障ります」

「こんな雨の中、寒そうに震えている犬を放っておけと言うの? ハンナは薄情なのね」

「……っ。では、お嬢様。私にお任せして、お嬢様はお戻りください」

「そんなこと言って追い出すつもりね。そうはさせないわよ」

 彼が薄らと目を開けると、栗色の巻毛が愛らしい少女が、美しいワンピースが汚れるのも厭わずにしゃがみ込み、彼の顔を心配そうに見つめていました。少女の後ろでは傘を差した婦人が不満げな表情をしています。

「あ、良かった。目を開けたわ。こんにちは。わたしはエマよ。ねえ、ハンナ。この子を家の中へ連れて行きましょう」

「家の中に!? まさか、飼うおつもりで?」

「いいでしょう?」

「お嬢様……私、犬はどうも苦手で……」

「決まりよ。さぁ、早く中へ連れて行くわよ。そうだ。あなたに名前をあげるわ。レオ。レオなんてどうかしら」

 エマはそう言って、犬を抱きしめ頬にキスをしました。服が汚れるだのなんだのとブツブツ言っている婦人の小言なんて気にもとめずに。彼は、少女の柔らかな温もりを感じながら驚きの中にいました。

 ──レオ。

 奇しくもそれは、ダンが彼にくれた名前と一緒だったのです。



 *



 夜はとても冷えるね。君の手、随分と冷たいよ。僕もお布団に入ってあっためてあげるね。あぁ、ごめん。お話を中断しちゃったね。

 懐かしいだろう、エマ。君と僕が出会った頃のことだ。随分と昔のことのように感じるよ。君は知らなかっただろう? 君が名前をつけてくれるより前から僕がレオと呼ばれていたってことをさ。

 あのあと、犬が嫌いだと言っていたハンナはなんだかんだ言いながら僕を暖炉の前に連れていってくれたし、身体を綺麗に拭いてくれた。それにミルクとビスケットまで与えてくれた。まぁ、エマお嬢様にグタグタと文句を言われるのが嫌だっただけかもしれないけれどね。

 ダンのことを忘れることはないけれど、新たな主人がまた素敵な人で本当に良かったと思ったよ。



 *

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