その10 北斎の隣人
江戸の本所界隈で裏長屋に住んでいる大工の富次郎の隣に越してきた爺さんは、朝から晩まで畳にへばりつきながら絵を描いている。
今は夏だから玄関の戸も開きっ放しであれば、この狭い長屋なんだから部屋の中なんて前を通れば全部見えてしまう。部屋の中はゴミとか画材とか散らかっていて、何処を見れば良いのか判らなくて目が回るくらいだ。何なら少し臭って来る程だった。爺さんは汗まみれの褌一丁で、さっきも畳にへばりついて、鼠に憑りつかれた猫の様に絵を描いている。
床屋の亭主が剃刀を研ぎながら「あの人は葛飾北斎といって江戸では人気の高い絵師ですよ。最近じゃ知らない人の方が珍しいですがね。」と言っていたが、元々富次郎は絵なんかに興味がない。富次郎が興味があるとすれば爺さんの娘の方だった。年増は年増だろうが、歳年齢までは判らない。しゃくれなすびみたいな顔の女で、髪も梳かしてもいない乱れた頭をして、爺さんと同様に愛想も素っ気も無かった。
どうして富次郎が娘に興味を抱いたかと言うと、先日の夕暮れ時、富次郎が厠へ用足しに向かうと、井戸端でその娘が着物をはだいた上半身裸な姿で、シラミにたかられたであろう斑点だらけの身体を、水を絞った手拭いでゴシゴシと擦っていた。女は富次郎が目の前に居るにも関わらず、何の構いもせず、少し垂れ気味の左側の乳房を持ち上げ、表情ひとつ変えず黙々と手拭いで擦っていた。その乳房の裏にあった数個の赤い斑点に、富次郎は言い表せない程の、シラミに対しての嫉妬心が沸き起こってしまった。
ある日、富次郎は仕事終わりに現場近くだった魚河岸で買った魚を土産に、隣の爺さん宅へ寄った。
まだ越して来てから三月も経っていないのに、もう爺さんとその娘は何処かへ越して行ってしまったようで、ゴミが散乱しているだけの薄暗い部屋の中はしんとしていたが、遠くで寺の鐘がコーンと鳴っていた。
断片集 紀 聡似 @soui-kino
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