第6話

 績はマスクを外さないまま回線を切ったが、最後に見えたのは、細められた、曖昧に笑うような目だった。しれはたぶん、許しを意味していたのだろうが、紹子の言葉には胸が痛んだ。

 10年前のこととはいえ、悪意を持って誰かに写真を晒された績の心の傷は消えないだろう。その原因を作ったのは紹子だが、それを言わずに人知れず独りで抱え込むことだってできたはずだ。

 過去の過ちを告白するよう強いたのは、俺ではないかという気がした。結局のところ、傷つける相手を増やしてしまっただけだったのではないかと思うと、いたたまれなくなった。

 俺は早々に席を立ったが、その後も紹子とは顔を合わせづらくなり、外へ出ると思わず知らず、隣家から足が遠のくようになってしまった。

 そんなことがあってからしばらく経った、ある日曜日の朝のことだ。

朝寝坊を決め込もうとした珍しく仕事から帰った俺は、庭から聞こえるけたたましい音で目を覚ました。外へ出てみると、庭から組んだ足場の上で、電動ドリルを使って家の壁に穴を開けている配線業者がいる。

目の前の大きなガラス窓を開けた父が、不機嫌そうに俺を罵った。

「お前が枝切らないから」

 どうやら、隣から伸びている木の枝に衛星放送の電波を遮られるに業を煮やした母が、ケーブルテレビに加入することにしたらしい。だが、文句を言われる筋合いはない。

「最初からそうしろ」

 もともとは、俺が言い出したことだ。だが、父は未だにぶつくさ言っている。

「家に傷つけたくないから」

 その点についてだけは、同意できた。俺もさんざん振り回されたクチだからだ。

「たかが衛星放送に」

 そうつぶやいたとき、やっと映ったらしい韓国ドラマの吹き替え音声が聞こえた。


傷つかないと手に入らないものだってある。


 衛星放送では、延々と同じ内容のニュースが流れ続けるチャンネルがある。ある休日、それを漫然と眺めていた俺は、たまたま見かけたインタビューに目をくぎ付けにされた。

 それは、アフリカのある旱魃の紛争地帯で、飢餓支援活動を率いている男性へのものだった。感染症を避けるためか、マスクで顔を覆ってはいるが、そこからのぞく目元は優しく、涼しい。立ち居振る舞いにも、男性とは思えない、清らかで凛然としたものがある。

 そこで閃いたことがあったが、まさかと思って頭の中で打ち消す。だが、インタビューで、その男性は、はっきりとこう答えた。


  私は、そうするのが当たり前だと思ってるから、そうしているだけです。旱魃と紛争で飢える人たちのために働くのも、男として生きるのも。

 

 そのとき、インターホンが鳴った。覗き込んだ父が、俺に振り返って誰だと尋ねる。玄関に回ってみると、トレーニングシャツにジャージ姿の興村紹子がいた。衛星放送で深夜に流れる通販のCMを見て買ったと思しき、小型のチェーンソーを携えている。

「庭の木の枝、切るんで手伝ってもらえませんか?」

「何を今さら」

悪態をつきながらついていった先は、垣根の向こうの庭だった。太い枝にチェーンソーが当たるときの唸りをかぶせるようにして、紹子はつぶやいた。

「こういうことだったんだ……男になるって、そう簡単なことじゃないって」

 初めて漫画の応募作品に取り組んだとき、アシスタント仕事に真剣な眼差しで向き合う績の姿に、紹子が思わずこぼした初めての愛の告白は、まさにその言葉で斬って捨てられたのだった。

それは、俺も同じことだった。

「最初から、俺なんか眼中になかったんだ……こういう意味でも」

 高校3年生として最も大きな賭けに出たのに、績は最大限の誠意で応じてくれたのだろう。それが、あの山上でのひとときだったのだ。

 俺が何を考えているのか察したのか、紹子はチェーンソーを止めてつぶやいた。

「でも、許されたとは思ってない」

 代わりに、折り畳みのノコギリの刃を立てて、残りの枝を切りにかかることにする。紹子の小柄な身体を押しのけながら、思い切ってつぶやいてみる。

「俺は許す」

 そこでたとえ話の結末を語った紹子は、それをごまかすかのように、再びチェーンソーを唸らせて、他の細い枝を切り落としにかかった。


  日数を数えてみると、噂になっているのは、船中で怪しげなものを見た夜のことだった。


 それからしばらく経った、ある秋の日の日曜日のことだった。

俺は朝早く、自分から紹子の家に押しかけていた。客間のテーブルと椅子は、よく磨かれた木製のものに交換され、俺たちの手には熱いコーヒーのカップがある。

 長袖のトレーナー姿で、紹子は眼鏡の奥の眼を細めて俺を見つめていた。

「もしかして、二日酔い?」

 前の晩、10年ぶりに再会した級友と飲み明かしたのだった。だが、その問いに、俺は問いかけで返す。

「何であんな嘘を」


 俺に会いに来たのは、卒業式の日、SNSで拡散されたあの写真とコメントをスマホで俺に突きつけた、あの級友だった。紹子の知り合いではあっても俺とは特に親しかったわけではない。だから紹子も誘おうと思ったのだが、それは固く拒否された。

 飲み屋の辺りまでタクシーで出て、何軒かハシゴした後で、その理由が分かった。

 すまん、と級友はいきなり頭を下げた。

「あのニュース、見たろ? 女川績の。あれ見て、居ても立ってもいられなくなった」

 酔った勢いでのことだったので、話は行きつ戻りつの支離滅裂なものだったが、早い話が、あれはこいつの自作自演劇だったと言いたかったらしい。

「見えたんだよ、お前らが展望台にいるの。こっちもその六年前から績のこと好きだったのに、お前があんなムチャクチャやったもんだから先越されたと思って、すげえ勢いで石段走って登って、お前らの後ろから写真撮って……それから」

 くどい詫びと弁解はさらに、その六年前までさかのぼったので、甚だ閉口した。

 


 俺にずっと濡れ衣を着せられていた紹子は、大げさに胸を張った。

「ごめんなさいは?」

 立ち上がって深々と頭を下げた俺が伏せた目を上げると、そこには中学生の小娘のように悪戯っぽく笑う顔があった。

「信じてくれた? 違うって言ったら」

 俺は再び椅子に腰を下ろして、まっすぐに背筋を伸ばしながら答える。

「誠意をもって、言葉を尽くせば」

 そこで初めて、責められても仕方がない罪をを自らかぶった理由が語られた。

「無駄なことはしない主義。アタシしか心当たりなかったら、絶対信じてもらえないと思って。変に疑われるくらいだったら、恨まれたほうがマシだし」

 返す言葉もない。しかたなく、俺は秋の冷たい空が広がる窓の外へと、遠い目をして話をそらした。

「見えるんだよ、遠くなっても」

 何のことかは、俺たちの間で説明するまでもない。

「そうね、大きなものは、どこからでも」

だが、紹子は俺の見ているほうを見てはいなかった。そこは、話を合わせてもらいたいところだ。

「……何見てる?」

「アンタ」

 そう答える紹子の眼鏡の奥の眼は、よく見るときれいに澄んでいた。なんだか落ち着かない気持ちになって、さらに話をはぐらかす。

「俺は、大きくない」

 だが、紹子は割と真面目な顔で、身を乗り出してくる。

「績さんのために、あんな無茶を」

 たいしたことじゃない、と鼻先で手を振ってみせたが、俺のほうがのけぞる羽目になった。あまりとぼけたのがよくなかったのか、不満げな声が漏れる。

「火災報知器、鳴らしたって」

「あんな嘘くらい」

 それこそ濡れ衣というものだったが、今では誇らしい気持ちで打ち消すことができた。あの級友の報われぬ恋は、そのときから始まっていたのだった。

 唖然としていた紹子は、立ち上がりそうになってコーヒーをこぼしかかったが、目を白黒させながら飲み干すと、改めて声を荒らげた。

「剣の理念がどうとか言いながら!」

「もう辞めたって言ったろ」

 自分でも卑怯だとは思うが、今ではこれがせいぜいだ。しかし、もう、気にはならない。未だアルバイト生活をしている紹子が俺を見下ろして罵声を浴びせ続けているのを見ていると、やはり遠回りではあっても、マイナスにマイナスを掛けたら、プラスになるのではないかと思われて仕方がなかった。

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境界のレジリエンス 兵藤晴佳 @hyoudo

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