第5話

 だが、次の週末になると、母と、母にせっつかれた父の焦りは限界に達していた。母はテレビの前でせかせかとリモコンを操作しては、パラボラアンテナが受ける電波の強さをチェックしている。

 父が真顔で俺を急かした。

「あの木、切ってもらわないと衛星放送の映りが」

 今日が再放送の日なのだろうとは思い当たったが、そういう態度でそう言われると、反抗期の中学生のように、つい食ってかかりたくなる。

「衛星放送なんかどうでもいいだろ!」

 当時はそんな度胸もなかったのだが、この年にもなれば当たり前のことだ。もっとも、重い腰を上げないでもない。紹子の首尾がどうだったか、聞きに行こうと思っていたところだったのだ。

 そこで、インターホンが鳴った。モニターを覗いてみると、眼鏡をかけた若い女性が見つめ返している。その場で思い当たる顔はないので、どちら様ですかと尋ねてみると、聞き覚えのある声が答えた。

「ええと、たとえ話を」

 何だこいつは、と父が言うか言わないかのうちに、紹子だと気付いた。枝切ってくる、と両親に告げながら慌てて外へ出ると、いつものラフなTシャツにジーンズで待っていた。

 いつもの客間に通されると、ガラス張りのテーブルにはノートパソコンが一台、置かれていた。画面を見ると、強い日差しが差し込む、どこかの事務所の一角らしい机が映っていた。それに向かって若い白人の男が座ると、紹子は籐椅子に腰掛けて、いつもとはうって変わった丁寧な言葉遣いで挨拶した。

「お手間を取らせてすみません」

 男は流暢な日本語で答えた。

「お問い合わせの方を呼んであります。業務に一区切りついたところで戻ってきますので、しばらくお待ちください」

 男が席を立ったところで、紹子は後ろから覗き込む俺に、「たとえ話」の続きを語った。


  娘は、人違いだと言う。若者が正体を明かしてくれと迫ると、姿を隠しているからできないと言う。


 そこで事情の察しがついたが、俺は居ても立ってもいられなくなった。

「代われ」

 紹子は、向こうの籐椅子に座れと言わんばかりに顎をしゃくるばかりで、その場から動こうとしない。

「顔見せて、回線切られちゃったらどうするの」

 もとのぞんざいな口調に、俺も同じくらい乱暴な言い返し方をした。

「人違いなんだろ? だったら」

 それを皮肉と取ったのか、紹子は目を怒らせて、金切り声を上げた。

「許してもらうチャンスなのに」

 思わず気圧されて言葉を失ったが、俺は重々しく言い放った。

「それは諦めろ」

 後ろ姿とはいえ、望まない写真についての偽のコメントをSNSで拡散されたのは俺だ。いわれのない誤解を解く権利がある。だが、紹子は妙に抵抗した。

「アンタはいいかもしれないけど」

 それも誤解だった。

「とうに諦めてる」

 誤解が解けるのと、傷つけられた績の気持ちが癒えるかどうかは別問題だ。その点について、俺は全く期待していなかった。

 画面上にさっきの男性の顔が映ると、紹子はムッとしてノートパソコンの向きを変えた。

「知らないからね」

 俺が向かいの籐椅子に座ると、そこには、髪を短く切ってマスクをかけた女性の姿があった。まだ、ウィルスの脅威が去っていないのだろう。そうでなくても、他の感染症を警戒するなら無理もない。顔の下半分は隠されていたが、その眼を見れば、誰かはすぐに分かった。

「生田費人(もちひと)です。……女川績(つむぎ)さんですよね?」

 だが、画面上の女性は、聞き覚えのある声で言い切った。

「いいえ……それに、本名は明かせないんです。周り、味方ばかりじゃないので」

 紛争地とはそういうものなのだろう。だが、それが口実であることなど、すぐに分かった。そこでノートパソコンをひったくった紹子に向かって、俺は小声で告げた

「……分かるよな、これ以上傷つきたくないんだって」

 返事は、たとえ話で返ってきた。


  若者は、これまでの経緯を語るが、応じてもらえない。


 俺のことを言っているのだろうが、先週までは紹子自身を指していたはずだ。すると、これは覚悟のうえでの自白だということだ。

「女川さんと並んで写ってる後ろ姿にコメントつけてSNSで拡散させたの、生田さんじゃありません……ああなったの、全部私のせいだと思ってます……こんなこと、今になって持ち出すの、勝手だって、ひどいことだって分かってます。でも、許してください……全部。そうでないと、私、生きていけません、明日から」

 長くて回りくどくはあったが、それは紹子の渾身の謝罪だった。だが、績は穏やかな声でかわした。

「ありふれた話ですね。できれば、もっと信じがたい話を……あなたしか知らないような」

 紹子は言葉に詰まったが、やがて、パソコンの画面越しに俺の顔を見つめながらつぶやいた。


  若者は、巨大生物を見た話をする。


 そこで向きを変えられたパソコンの画面には、マスクの上の眼をきょとんと見開いた績の顔が大映しになっていた。

 今だ、と思った。「3つの許さぬところ」でいう、「技の尽きたところ」、つまり打つ手のなくなったのが、このときなのだ。昔、聞いてもさっぱり分からなかったことがやっと分かった俺はすかさず、績が求めたとおりのことを尋ねた、

「東日本大震災のときのこと、覚えてますか?」

 はっとした績は、怪訝そうに俺の顔を見つめる。体育館の火災報知器が鳴って、剣道の昇段審査が延期された事件を思い出していたのだと分かったのは、しばらく経って答えが返ってきたときだった。

「……あれが、始まりでした」

 あの日、親の知らないうちに会場を抜け出して、東日本大震災の被災地へ行こうとした績の姿がニュースになったのがきっかけで、街ぐるみの被災地支援運動が巻き起こったのだった。そこで、紹子がすかさず、再びパソコンの向きを変えて語りかけた。

「見てたんです、審査会場を抜け出して、被災地に行こうとした女の子のニュース。素敵でした。アシスタント頼んだのも、それで……ちょっとでも、近づきたくて」

 それは、俺と紹子との意外な接点でもあった。パソコンをひったくって向きを変える。画面の向こうの績は目を回していたことだろうが、そんなことになど思いも寄せず、一方的に告白した。

「火災報知機鳴らしたの、俺です」

 結構、勇気を振り絞ったにもかかわらず、呆然として頷くばかりだった績が、ようやくのことでつぶやいたのは、ああ、そうなんですかという気のない返事だけだった。それでも、俺はたたみかける。

「被災地へ行こうとして、母親に責められて泣いているの、見たんで」

それは、古城のある城のほとりの展望台で、城下町に連なる瓦屋根を見下ろしながら、績に告げたことだった。女の子でしょ! と叱られても毅然として睨み返していた剣道着姿の女の子の姿が、パソコン画面に映るマスク顔の女性と重なる。

その記憶と現実の間にある少女の声で、績はためらいがちに答えた。

「そんな昔のこと……」

 そこで俺は、二十数年前の記憶を手繰りながら思い出し思い出し、たどたどしく唱えた。


  剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である


それは、初段も受けられないのに覚えた、「剣道の理念」だった。さらに俺は、中学生の時に丸暗記した「剣道修錬の心構え」言葉を、あの頃と同じくらい頼りない調子で唱える。


剣道を正しく真剣に学び

心身を錬磨して旺盛なる気力を養い

剣道の特性を通じて礼節をとうとび

信義を重んじ誠を尽して

常に自己の修養に努め

以って国家社会を愛して

広く人類の平和繁栄に

寄与せんとするものである


「昭和50年3月20日制定・全日本剣道連盟」まで暗唱すると、績は目を伏せて押し黙った。それは、正体を明かさない自分に、過ぎ去った青春時代に守ってきた信条をつきつけられた思いだったのだろう。

それが分かったのかのように、紹子もパソコン画面の向こうでそっぽを向いてみせた。

「最低。そんな脅迫」

自分でも分かっている。しかも、こんなつまらないことで、永遠に嫌われても仕方がない。

だが、毒を食らわば皿という諺もある。績を追いかけるために大学入学を蹴って浪人するような思い切ったことは、もうできない。卑怯だとは思うが、これがせいぜいだ。

それを嘲笑うかのように、紹子は「たとえ話」をしてみせる。


娘は正体を明かす。だが、その記憶は失われていた。


 それに後押しされたのか、績はマスクを外して俺をまっすぐに見つめた。

「私は、女川績です。隠していてすみません」

 そう言うなり、再びマスクをかける。だが、俺の眼には美しく成長した績の姿が焼きつけられた。くぐもった声が、姿を消したあとの事情を語る。

 績は大学に進学したが、4年目で休学した。アフリカでの飢餓対策ボランティアに参加するためだった。一年間の予定だったが、その年末から感染が拡大したウィルスのパンデミック(世界的流行)が起こった。帰国しようとすればできないこともなかったが、帰国せずに大学を退学したのだという。渡航規制が緩和された後は、飢餓支援活動の中心メンバーになっていた。

 つまり、績を追って入学した大学のキャンパスを4年間も探し回ったのは、徒労にすぎなかったのだ。それを思うと、浪人した分も含めて十人分のため息がどっと出た。

「見つからなかったわけだ」

 それをどう誤解したのか、そこで初めて績は済まなそうに頭を下げた。

「生田費人さん……ずっと、誤解していました。許してください。でも」

 誤解のおかげで、誤解のわだかまりが解けたことになる。マイナスにマイナスをかけたら、プラスになったわけだ。だが、それは俺にとっての解決でしかない。あのSNSで拡散された画像とコメントは、いわゆるデジタルタトゥーとなって永遠に残る。

 それは紹子も分かっていたのだろう。いつのまにか俺の背後に立っていたかと思うと、パソコン画面の向こうの績の言葉を遮って、深々と頭を下げる。

「分かってます……興村紹子は、許してもらうつもりはありません」

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