第4話
それから一週間後の日曜日のことである。
爽やかな朝のひとときは、父のひと言で破られた。
「さっさと何とかしてくれ、あの木の枝」
俺が朝寝坊で貪ろうとしていた時間は、これで有効に活用されることとなった。思えば、退屈な単純作業を繰り返して繰り返して、ようやくの思いで再びたどり着いた日曜だった。ムダに費やすことがないよう、惜しんで惜しんで過ごすのが道理なのかもしれない。
そうは思っても、口からは愚痴が出る。
「人気の韓国ドラマが録画できなかったくらいで」
隣家の庭から伸びた木の枝に生い茂る葉が、とうとう衛星放送のパラボラアンテナを遮ってしまったらしい。
仕方なく、俺は朝から隣家に住む、職業不詳というか何をしているのかよく分からない、漫画家崩れの興村紹子を訪ねた。もちろん、まだ寝ていたら引っ込むつもりだったので、インターホンは鳴らさない。いや、世間相場では寝ているのが当然という前提で訪ねるうえは 怠惰とも不誠実とも無精者とも非難されるいわれはない。
玄関の戸を軽く叩いて、もしもしと小声で囁く。返事はないものと思っていたので、俺はそのまま帰ろうとした。だが、そこで俺の背中に声をかけた者がある。
「どうぞ……」
振り向くと、タンクトップにハーフパンツという、緩くて気楽な、見方によれば露出が多くてだらしない格好の紹子が、眠たげな眼をこすっていた。
「いや、またあとで」
そういうのが嬉しい男もいるかもしれないが、俺は違う。それなりの時間にそれなりの格好をしているところで訪ねることにして、俺は帰った。
父には成果を尋ねられたが、まだ寝てるのが普通だろうと言い捨てて、俺も再びふて寝気味に寝てしまった。泥のように眠って再び眼を覚ましてみると、もう昼を過ぎていた。
録り貯めた衛星放送の韓国ドラマを見ながら、母はくどくど説教を垂れてくる。俺は適当な相槌を打ちながら、朝飯だか昼飯だか、早いおやつだかわからない菓子パンもどきをアイスコーヒーで喉に流し込んだ。再び隣家へ向かおうとすると、横になってスマホの画面を眺めている父が言った。
「電話番号聞いてこい」
「そういうつもりで行くんじゃない」
年を考えろ、みっともない、と言おうとしたところで、父は怪訝そうに言った。
「わざわざ出ずとも済むだろ、次から」
どうやら、失敗するのが前提らしい。若い娘でも住んどるのか、という本当に品のない冗談を背中で弾き返して、俺は憤然と外へ出た。
あんな20歳そこそこの小娘にたぶらかされてたまるか、と気負いながら、今度はインターホンのボタンを押す。呼び出しチャイムが高らかに鳴って、聞えてきたのは非難がましい、くぐもった声だった。
「待ってたんですけど、朝から」
再び開いた玄関から出てきた紹子は、先週と同じTシャツとジーンズを着ていた。俺を玄関に招き入れると、どこ見てんのよ、と言いながら客間へ通した。
紹子は冷房を摂氏28度ぎりぎりに設定すると、カーテンを開けた。夏の終わりの昼下がりの、けだるい光が窓から差し込んでくる。それを透過させるガラス張りのテーブルを挟んでおかれた籐椅子の一方を俺に薦めると、紹子は冷やした麦茶と水羊羹を持ってきた。先週の不貞腐れて偉そうな態度とは、えらい違いだった。
自分も籐椅子に腰掛けた紹子は、おもむろに切り出した。
「一週間かかったんですが……」
枝の話かと思ったが、それは「たとえ話」の続きだった。
若者は、いなくなった娘を探し求める。果てしない道をどこまでもどこまでも歩いて、いくつもの町や村を渡り歩いた。
つまり、績について話したいのだろうが、何を言いたいのかは、たぶん、最後まで聞かないと分からないだろう。あまりにも回りくどいやり方に、俺は苛立ちのあまり、黙って聞いていられなくなった。
「つまり、何をやったんだ」
つい声を荒らげたのに、しまったと思った。本来なら、俺がやるべきことなのだ。それを紹子がやったというのなら、結果が出なくても責められることではない。
だが、紹子は先週までとはうってかわって、しおらしくなっていた。
「何も……手がかりがなくって」
まず、インターネットの検索エンジンで「女川績」を検索したのだという。だが、挙がってくる名前は、あのSNSの忌まわしい写真とコメントしかなかった。
その程度かと呆れた俺は、苛立ちをこめて口を挟んだ。
「友達いないのか、お前が績のこと話した……」
いない、と紹子は言い切った。あのSNS画像が拡散されてから、うかつなことを言うのが怖くなって、一切の友達付き合いを断ったのだという。
だが、考えてみれば、ああいうことになった最初の原因は、績のことを紹子が他の人に「ちょっと」話したことが原因なのだ。誰に聞こうと、より詳しいことが分かるわけがない。
紹子は微かにつぶやいた。
「今の私、何にも持ってないし」
それは、漫画家への道を諦めて、その日暮らしをしていることへの自嘲なのだろう。そこには、今の俺よりも深く沈んだ……黄昏というより夜闇に近いものがあった。
そこから抜け出したくて、俺は提案してみた。
「まだ、何か持っていた頃のお前を頼ってみたらどうだ?」
すると、紹子の顔つきがぱっと明るくなった。弾む声で答える。
「やってみる」
それは、単純な子どもが、褒め言葉を聞いて素直に喜ぶのに似ていた。重苦しい空気から解き放たれたのにほっとして、俺は貪り食った水羊羹を麦茶で腹の中に流し込んで、そそくさと暇を告げた。
外に出てみると、もう日が傾いていた。黄金の夏の夕暮れ時に特有の、じんとまばゆい照り返しに目を細、目ながら、俺は玄関の戸を開けた。
奥のほうで、父の声がした。
「どうだった?」
思いのほか、うまくいったと答えそうになる。
そこで、肝心なことは何ひとつ片付いていないことに気付いた。枝を切ってもらうどころか、それができなかったときに頼みの綱となる電話番号さえ聞き出せなかった。
だが、いずれバレることだとしても、今は格好悪くて言い出せない。
「別に何も」
それが、いいことだったのか悪いことだったのか。言いにくいことは口に出さずとも察してもらえたが、語るに落ちた。
自分では腰を上げず、顔も見せない父は、いかにも呆れたように笑った。
「やっぱり口ばっかりだな」
そこで、月末の再放送まで、と期限を切ったのは、母が耳打ちしたからだろう。何だかムカッときて、俺は拗ねた子供のように外へ再び出た。
西に傾いたとはいえ、まだ日差しは暑い。それを避けようと、俺は庭へ回った。垣根を越えてきた木の枝に生い茂った葉が、いい日よけになっている。
思い出せる限りの電話番号を、スマホに打ち込んでみた。日が沈むまでが勝負だった。
次の日、俺は清水の舞台から飛び降りるような気持ちで有給休暇を取った。これでいわゆるサービス残業の日々が続くが、やむを得ない。
俺は俺で、この5、6年は連絡を断っていた知りあいに、片端から電話をかけてはみたのだ。だが、績が卒業後、どこで何をしていたか知る者はなかった。中には、その名前を聞いただけで電話を切ってしまう者や、あのSNSのことを持ち出す者までいた。そこには、写真の俺へのやっかみもあっただろう。
仕方なく有給休暇を取った俺は、母校を訪ねた。だが、事務に尋ねても、高校時代の俺を覚えている教員を仲立ちに、進路関係の部署にも問い合わせても、答えは同じだった。
プライバシーに関わることは教えられない、と突っぱねられたのだ。仕方なく、俺は日曜を待って再び、「敷地内に侵入してきた隣家の木の枝を切ってもらう」交渉の名目で、紹子の成果を確かめることにした。
インターホンのボタンを押すと、どうぞ、としとやかな声が聞こえる。誰かと思って戸口に立つと、すっきりとした白の開襟シャツに浅い青のレギンス姿の紹子が現れた。
顔を見るが早いか、どうだった、と俺は聞いた。紹子は紹子で、そそくさと俺を促して客間へと招くとカーテンを開けた。夏も終わりごろとはいえ、眩しい朝の光の中で、俺たちは再び向き合って座った。
紹子は、にやりと自信たっぷりに笑った。
「伊達にアシスタントやってたわけじゃない」
そこで得々と語りはじめたのは、惨めなものだったはずの、漫画家をあきらめるまでの経緯だった。
「ほら、例の」
まずはウィルスの影響だった。感染拡大を避けるため、講義も実習も行われなかった。あるのは授業料に見合わない、パソコンやタブレット、スマホの画面での動画やリモート授業ばかりだった。手元の勘が勝負の世界で、対面と対話での指導が受けられないのでは、腕が上がるはずもない。卒業後、修行のためにようやく入ったアシスタントの仕事も、プロとして独り立ちするまで続けることはできなかった。
「で?」
全然、自慢げに話すようなことではない。頭の中に疑問符いっぱいで眉をひそめる俺のために、紹子はオチをつける。
「アタシがアシスタントやってた漫画家のセンセイに連絡とって、編集部から出版社、出入りのライターがネタ撮ってるニュースソースたどったんだ。女川績の名前じゃなくて、こんな感じの人知りませんか、って」
俺にとっての、績のイメージはこうだった。
端整な姿と、身のこなしの優雅さ。
毅然たる態度と、信念に満ちた行動。
それは、俺が身に付けられなかった、剣の理法というやつをを体現したものだったともいえるだろう。確かに、績なら何の不思議もない。だが、それだけで、広い世界にたった一人の人物を見つけ出せるものだろうか。
「でも、そんな人、いくらでも……」
口を挟んだ俺を、紹子はまっすぐに見つめ返した。
「いると思うの?」
やられた。「三つの許さぬところ」の「相手の打突を受けたところ」、つまり打ち返せないときだ。
思う、という答えは、績の記憶を汚すものでしかない。俺は黙って引き返した。自宅で、木の枝はどうしたと聞かれても、応じるに足る言葉はなかった。
学校でいえば、そろそろ夏休みが終わるころだったろうか。
績がどこで何をしているのか、確かめる伝手もなければ知る人もなく、俺の苛立ちは頂点に達していた。はた目から見れば、宿題を抱えた生徒と同じくらい、普段とは目つきが違っていたことだろう。そんな様子で隣家を訪ねれば、父にも母にも、俺が木の枝を切らせるべく本気の交渉に臨んだように見えたことだろう。
朝早くから玄関の戸を叩いた俺を前に、客間の籐椅子でふんぞり返った紹子がもたらしたのは、績の行方ではなく、新しいプロットだった。
若者は、旅先で誰もが夜の明るさを不思議がっているのを聞く。
これも、『聊斎志異』で読んだ覚えがある。だが、この「たとえ話」がごまかしでないことは、どうだとばかりの自慢げな顔つきを見れば分かった。
俺もつい、強張らせていた頬を緩めて尋ねた。
「何があった?」
紹子はもったいぶって、囁くような声で答える。
「献身的な日本人ボランティアの女性がいるって」
事細かに、おそらくは聞いた通り、身振り手振りも交えて、ときには客間の中を歩き回ってまで説明してみせる背格好は、績に似ていると思った。しかも、紹子が演じてみせる言葉遣いや立ち居振る舞いは、まるで古武士のようだった。
しかも、この女性は、活動を妨害してくる暴漢を、棒一本つきつけるだけで追い払ったという。そんなことがあって周りから一目置かれるようになっても、それを誇るようなことはなかった。むしろ、下働きの仕事を、これが分相応の仕事だと言って黙々と続けていたという。
そこで、紹子は「たとえ話」の続きを語った。
ようやくのことで探し出したのは、そっくりな娘だった。
そこで、俺を見下したような目つきで付け加える。
「その若者って、アタシだけどね」
確かに、俺は右往左往するだけで、なにもできなかった。挫折の経験を逆手に取って、見事に結果を出した紹子を前に、ぐうの音も出ない。
だから、悔し紛れに開き直った。
「じゃあ連絡取れよ、見つかったんなら」
すると、紹子は大真面目な顔で答えた。
「どこにいるか分からない」
その眼差しの真剣さに不意を突かれて、俺はうろたえた。攻守逆転というのか、どっちかというとこちらがモラハラ気味に責め立てていたのを指摘されて、弁解の言葉もないといったところだった。
だが、紹子は別に、俺を非難しようというのではないようだった。むしろ、申し訳なさそうに語る。
「海外の紛争地でボランティア団体、転々としてるんだって」
そんなに落ち着きのない人ではないはずだ。白い防具に身を固めて片手上段に構える姿からは、考えられない。だから俺は何も言わなかったのだが、紹子は何を誤解したのか、身体の底から振り絞るような声で答えた。
「みんなが困ってるときに現れて、それが片付くと、出ていっちゃうから」
居場所が分かって連絡をとろうとしても、そのときにはもう、そこにいないのだという。績を見つけ出すのに絶望しきって、すっかり意気消沈した紹子に、俺は苛立ち紛れに言った。
「お前なんだろう? 旅に出た若者っていうのは」
責めているわけではなかった。本当は、それが俺でなければならないからだった。績を追い求めるなら、仕事を投げ出して日本から飛び出すくらいの覚悟を決めても当然だろう。
だが、やはり、あんな思い切ったことは、もうできない。あのときの代償は、たかが親のスネかじりの大学受験だった。だが、こう考えるのは卑怯だとは思うが、生活が懸かっている今の俺には、これがせいぜいだ。
そんな不届きな思いを巡らしている俺の様子をどう取ったのか、紹子は頷きながら答えた。
「リモートでやってみる」
今まではメールで回答を受けてから連絡をとっていたが、そのタイムラグを削るために、いちいちビデオチャットで問い合わせてみるのだという。
何もできない俺を責めようともしない態度に気おくれがして、俺は何か言わないではいられなくなった。
「この前は、その」
非難がましく追い詰めたことを詫びようとしたが、しどろもどろになって、余計に慌てる。紹子はというと、きっぱりと言い切った。
「やったことの責任は取る。アンタじゃなくて、績のために」
いたたまれなくなって席を立った俺は、手ぶらで帰ったことを両親になじられることになる。文句があったら自分でやれ、と言いたくなったが、本当に口を挟まれたら困ると思って黙っていた。
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