第3話

 紹子の「たとえ話」は、ここで急展開する。


  やがて、全財産を投げ出しても会いたいという若者が現れた。

 

 思い当たることがあって、聞いてみる。

「俺?」

 ちょっと誇らしい気になったところで、紹子は面白くなさそうな顔をした。

「アンタが推薦蹴って浪人するなんて言うから」

 そこそこ勉強ができて、そこそこ真面目にやっていたおかげで、俺は地元の大学の中堅どころに推薦入試で合格した。これで、あの口うるさい両親もひと安心したわけだが、年が明けてそろそろ卒業というところで、耳に入ったのは、績が県外の難関国立大学に合格したという噂だった。

 俺は迷わず、同じ大学に入るために浪人を決意した。併願で推薦基準も倍率も高い大学に受かっていただけに、当然、両親とは大喧嘩になる。受かれば文句ないだろうと一世一代の啖呵を切って、下宿と予備校通いを納得させた。合格してUターン就職して実家に帰ってきても、どこか肩身が狭いのは、こういう経緯があったからだ。

 そんなわけで、紹子の「たとえ話」はこう展開する。


  承知した女を、娘は責めたが、「それほどまでに真剣なら」と応じた。会いに来た若者の誠意に応えて娘は姿を見せる。


 俺はここぞとばかりに、意地悪く尋ねた。

「怒られたろ?」

 垣根の向こうの紹子は、子どものような膨れっ面をする。績と俺を引き合わせた、中学生の頃と変わらない。あのときも、気まずそうに績の返事を俺に告げたものだ。

 一度だけ会う、と。


 冬から春へと季節が移ろう、卒業式までの長くて短いひとときの間に選ばれたその場所は、いつも高校から見上げる城のほとりにある、山上の展望台だった。麓にある細くて長い石段を登って、紹子から伝えられた時間より前に来た俺は、龍の背中のように連なる城下町の屋根を見下ろしながら績を待っていた。

 その声は、不意に聞こえた。

「どうして、そこまでするの?」

 俺が大学への推薦を蹴ったことを言っているのだ。

 これが恋愛小説なら、こういうべきだったのだろう。

こういう気持ちに、理由なんかいらない、と。

 だが、現実はドラマではない。俺の口から出たのは、極めて冷めたひと言だった。

「気にすることないよ。併願だったし」

 専願だったら学校とも揉めていただろうが、俺はそれでも浪人を選んでいただろう。だが、そんなことにならなくてよかったと、そのときは心底思った。そこまでやっていたら、績に余計な負い目を感じさせることになっただろう。

 績もまた、ただひと言尋ねただけだった。

「いつから? 私のこと」

 俺の答えは、すぐには理解できない、意外なものだったろう。

「中1の終わりの昇級審査」

 しばし、きょとんと目を見開いた後、ようやく剣道の話だと気付いたらしい。

「ああ、あの……」

 そこで黙りこんだ績は恥ずかしそうに、何の脈絡もないことをつぶやいた。

「小さなことでいいから、人の力になりたい。きっと、それが世界とつながっている」

 俺は返事に困った。小さな声でも大きなことを言われてしまったら、それに見合うだけの答えがないと話が続かない。だからといって、績の前で、できもしないことは言えなかった。

「とりあえず……ちょっとでも大きな人間になりたい」

 今考えても情けないが、そのときの俺も、やはりこの程度がせいぜいだった。何のために現役合格を投げ出したのか分からない。


 やがて、紹子はふてくされたようにモゴモゴと口を動かした。

「会えただけでもいいじゃない。そんな男、アンタだけだったんだし」

 その態度を見て、俺は確信した。ようやく、二つの意味を持つこの話の、ただひとつの核心にたどり着いたらしい。

高校を卒業してからずっと心にわだかまっていた気持ちを、俺は紹子の目を見て告げた。

「そう言ったのか? 績が」

 強張っていた紹子の顔から、すっと力が抜ける。諦めに満ちた表情には、もうどうにでもなれとでもいうような自虐の色があった。

 それでも、前置きは変わらない。

「たとえ話だからね」

 だが、その話の続きは、自白とみて間違いなかった。


 娘は、男に卑猥な詩を書かれたのを恥じて姿を消す。


 成績優秀者として卒業生総代に選ばれた績は、登壇して答辞を読むことはなかった。それは当日の朝、担任の机の上にひっそりと置かれていたという。教員たちの密かな大騒ぎの末に、他の優秀な生徒がそれを代読した。

 卒業式の間、俺は周りの奇妙な雰囲気を感じていた。卒業生の視線と在校生の囁き声が、無数の針となって全身に突き刺さってくるような、重苦しくて痛痒い感覚だった。それが何だったのか分かったのは、その帰り道のことだ。

 次の日から再び会うこともない級友が俺を呼び止めた。紹子の知り合いで、績と引き合わせてもらう仲立ちを頼んだ男子生徒だ。

大真面目な顔でつきつけられたのは、スマホの画面だった。

「見ろよ」

 そこに映っていたのは、SNSにアップロードされた写真だった。あの古城の展望台に並んで立つ、俺と績の後ろ姿だけなら人違いだとシラを切ることもできただろうが、そこには、誰の告白も受け付けなかった女川績を落としたと名乗りを上げる、俺の自慢話だった。

驚きと憤りのあまり、こんなことしか言えなかった。

「いや、これ、俺だけど……俺じゃない」

 自分でもどう説明していいのか分からなかったのに、級友は言わんとしたことを察したのか、なすべきことえを道端の立ち話だけで的確に教えてくれた。思えば、彼もまた、績に密かな想いを寄せていた者のひとりだったのだろう。

 俺は教えられるままに、SNSの運営者に写真と削除を依頼した。だが、数日後に返ってきたのは、「本人が特定できないので、規約違反ではない」という、木で鼻を括ったような回答だった。

 紹子は、冷ややかな眼差しを俺に向けて、「たとえ話」を締めくくった。


 娘は女の前から去ったが、ただ、こう言い残した。

 あなたは悪くない。ただ、縁が尽きただけだ。人と想いを交わす楽しさに惑わされて、姿を見せたばかりに心を汚された落度は、今すぐにでも償わなければならない、と。


 確かに、その後、俺が績と会うことはなかった。あの級友も県外に出て戻ってくることはなく、携帯電話の番号も他人のものになってしまったので、紹子との連絡をつけてもらうことはできなかった。

 績の行き先を尋ねるなら今しかなかったが、何も言わないうちに答えが返ってきた。

「アタシも知らない」

「無責任だろ、それは」

 道端で怒鳴り散らすわけにもいかないので、爆発しそうな思いを低い声で抑え込んだ。

 績の進学先は分かっていても、浪人の身では探すこともままならなかった。両親に啖呵を切ったため、模試の成績は落とせない。両親の監視も、下宿の電話に毎日定時連絡をしてくるほどに厳しかった。オープンキャンパスにかこつけて、どうにか敷地内までたどりついても、広い構内と無数にある教室のどこにいるか分からない相手を、一日や二日で見つけられるはずもなかった。

 だが、それはあくまでも俺の都合だ。その辺りは紹子も察しがついているのか、しれっと答える。

「何の責任?」

 入学後も績を見つけられなかったという怒りはどこに持っていくこともできずに腹の底へ収めるしかなかったが、そのおかげで、もっと根本的な問題をぶつける余裕ができた。

「今、何を言ったってどうなるもんでもないけど、ネット上の写真とコメントと、績の心の傷は消えないんだ」

 理屈の上でも道徳的にも筋道を通した分、紹子にはこたえたらしい。うつむいて目をふせたところで、くぐもった声が聞こえた。

「分かってる。どうにもならないから、どうもしないつもりだった」

 耳を澄まさないと、聞き取れなかった。それがすすり泣きのせいだと分かって、胸が痛んだ。

 紹子を責めたところで、この問題はどうなるものでもない。績のことを思うなら、俺が何とかしなければならないのだった。

 それなのに、こんなことしか言えなかった。

「俺は許さない。どうするつもりなんだ、これから」

卑怯だとは思ったが、これがせいぜいだった。績のために進学を蹴った俺だが、あんな思い切ったことは、もうできない。

 そんな俺を責めるように、紹子は捨て台詞を残して、親戚に借りている家に引っ込んでしまった。

「最低。そんな脅迫」

 こうして俺は、績の心の傷を癒すどころか、自宅のパラボラアンテナを遮る枝一本切ることができないまま、刃を折り畳んだノコギリを手に引き下がるしかなかった。

 確か、『影をなくした男』には、世界を7歩で駆ける靴が出てきたと思う。そんなものがあれば俺も績を探しに行けるのだが、現実はおとぎ話ではない。

これが、俺自身への言い訳だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る