電話はつながる

真花

電話はつながる

 水道公園に足を踏み入れたのはいつぶりだろう。私は泣いていなかったし、泣く予定もない。握り締めたピンク色の携帯電話、冬だからか園内に人は少ない。たくさん植えられているバラは株ごとに枯れていて、いつか満開だったときよりも空が寒く広い。

 ベンチにきっと朝からずっとそこに座っている汚い男性がいて、対角線上にはカップルが身を寄せ合っている。その両方から一番離れたベンチに狙いを澄ませて、ほんの少し身を屈めて一気に進んだ。まるで、男性とカップルの間に膜が張られているのを突き破るように。

 息が白い。

 ベンチに座ると、そこからの景色は、そこを見る景色と違って、汚い男性も接着するカップルも枯れたバラも全部含めて一つの塊のように見えた。バラ園の真ん中に立つ女性の銅像がその塊を程よい力で押さえ付けている。それには私も含まれる。だが、その力は私の行動を阻害しない。

 携帯電話を鳴らす。すぐにパパが出た。

千花ちか、どうした?』

 パパはいつでもすぐに電話に出る。私がかけるのを最初から察知しているみたいに。

「クラスで、斎藤さいとうさんとかに仲間外れにされた」

『そっか。あの斎藤さんだね。斎藤さんはすぐに仲間外れにする子なの?』

「うん、だいたい順番に誰かが仲間外れにされる」

『じゃあ、しばらくしたら大丈夫になるかも知れない。もしそうじゃなかったとしても、そんな人と仲良くしなきゃいけないなんてことはないと思うよ』

「でも、やなんだよ」

 パパは黙って、考えているのだろう、私はその沈黙に意識を集中する。

『千花は五年生だよね?』

「うん」

『もうちょっとしたら、中学校だ。そこで人間関係はある程度変わるからさ』

「待つの?」

『一番大事なのは千花だよ。トラブルには関わらないようにした方がいい』

「それは、そうだけど」

『納得がいかないんだよね?』

「うん」

『そうやって人を支配するような人は、いる。大丈夫、そう言う人との関係は必ず終わるから。そして、そう言う人は必ず不幸になるから』

 斎藤が白黒になってボロボロに崩れるイメージが湧いた。残酷さに快さがあって、正しいのは自分だから斎藤を灰にしてもいいような気がした。私じゃない、パパが斎藤を殺した。だから、私はその結果だけを喜べばいい。現実には斎藤は今も息をしているだろうし、月曜日には教室にいるだろう。だが、私の中の斎藤は、もう終わった。

「なんか、楽になった」

『うん。よかった』

「ねえ、パパ、会いたいよ。もう三年も会ってない」

 何度もこれまで、会いたいと伝えて来た。パパはやんわりと強硬に会ってくれなかった。今日もそうだと思っていた。

『千花も大きくなったから、会おうか』

「本当に?」

『電車には乗れるね?』

「もちろん」

『ママはどうする?』

「一人がいい」

『分かった。じゃあ、明日、中央線で立川まで行って、そこから青梅線で福生ふっさと言う駅に来て。着いたら電話を頂戴』

「立川から福生。着いたら電話。出来るよ」

『じゃあ、また明日』

 電話を切ると寒空の公園が戻って来る。まるで薄い氷の膜を張ったみたいに全てがひんやりと白い。汚い男性もカップルもそのままの場所にいて、私は立ち上がり二組の間を通過する。今度は粘りはなかった。

 パパは三年前にいなくなった。その前後の記憶が曖昧で、パパがいなくなった代わりにピンク色の携帯電話が私の手元に見付かった。一度も充電していないのにずっとパパと繋がった。私は、困ったときや悲しいとき、嬉しいときにパパに電話をかけた。パパはいつでもすぐに電話に出る。催眠療法師と言う仕事はそんなに自由が効くものなのだろうか。だが、他の仕事のこともよく分からないから、そう言うものだと思う他なかった。

 ママは明日も仕事だと苦笑いをした。日曜日って何のためにあるんだろうね、と肩を竦めた。私は明日のことを言わなくてもいい、チャンスだ、そう思ったことを顔に出さないようにお腹に力を込めた。


 御茶ノ水駅から中央線に乗る。貯めていたお年玉を財布に入れたから、途中でお金がなくて困ると言うことはないはずだ。まばらな人。私はシートの真ん中に座る。景色が流れ始める。立川で間違いなく降りなくてはならない。

 最初にパパに電話をかけたとき、私は泣いていた――

「パパ、どこに行っちゃったの?」

『ごめんな。遠いところだよ』

「もう会えないの?」

『きっといつか会えるよ』

「今、会いたい」

『それは、ごめん、出来ないんだ』

「パパのいじわる」

『意地悪じゃないよ。でも、出来ないことは出来ない』

「もういい!」

 私は一方的に電話を切った。三年生の春だった。

 どうしてか、ママにパパの話をしてはいけない気がして、電話で話していると言うことを三年間秘密にし続けている。私と話すくらいだからママとも話すだろうけど、大人だから何か違うのかも知れない。その証拠にママはパパの話を一切しない。

 新宿を通過した。

 窓の外の感じが、少し下がる。そして青味を帯びる。今日の私は泣くのだろうか。泣くべきなのだろうか。それとも泣かない姿を見せる方がいいのだろうか。

 四年生の学習発表会のときは、もうパパが来ないことを理解していたから、電話で伝えようと思った――

「劇をやったんだよ」

『何の劇?』

「『老人と海』って知ってる?」

『知っているけど、ずいぶん渋いセレクトだね。登場人物少ないでしょ?』

「そうでもないよ。私、サメの役やったんだよ」

『おお。準主役だ』

「カジキの肉をガブっとやるの。パパにも見せたかったなぁ」

『ごめんな』

「会えないの?」

『今はまだ、会えない』

 そこからは会う会わないの押し問答で、結局押し負けて電話を切った。だが、その頃にはいつでもパパが電話に出てくれることが当たり前になっていた。ピンクの携帯電話さえあれば私は大丈夫だった。

 吉祥寺。どの駅にもそれぞれの賑わいがあって、どこか似ている。だが多分別のもの。ドアが閉まる空気の鋭い音。車内は最初よりは混んでいるが、窓の外が見えない程じゃない。

 五年生になったら少し電話をかける頻度が落ちた。ある程度までの感情は自分で抱えて、それを越えたら鳴らす――

「ママが最近怖い」

『どうしたんだ?』

「なんか、イライラしてるんだ。前からそう言うママのときもあったけど、ここのところ酷い。殴られたりとかは無いけど、嫌味を散々言われる」

『そう言うところ、元々あったからなぁ。パパは、嵐はやり過ごすことにしていたよ。真っ向からぶつかっても無意味だから。でも、だからと言って理不尽な要求は絶対に呑まないこと』

「そっか。二つに分ければいいんだね。防御と、……防御かな。二種類の防御に」

『その通り。賢いな』

「まあね。それでやってみる。理不尽を呑んだら終わりそうだし」

『絶対に呑んじゃだめだよ』

 その後、ママと何度もぶつかった。私はパパから授かった方針を貫いた。徐々に、ママのイライラは治って、多分それは時間のせいで、平穏な日々が戻って来た。

 ため息を小さくつく。もうすぐ立川だ。

 ピンクの携帯電話を見る。ボロボロで、古めかしくて、パカッと開く奴。今の私にはこれがパパだ。


 立川から乗り換えて、福生に到着する。改札を潜りながら、街の香りを吸う。私はこの香りを知っている。電話を鳴らす。

「パパ、福生に着いたよ」

『じゃあ、ナビをするからその通りに歩いて』

 おおらかそうな商店街の道を抜けて、目的地まで十五分程歩いた。

「パパ。ここって」

『俺の実家だよ』

 祖母の家には何度か来たことがあった。まだ小さかったから細かいことは覚えていないが、駅の雰囲気と家の構えは記憶に残っていた。祖母に会うのは四年ぶりだ。パパがいなくなってから、一度も会っていない。

「間違いないの?」

『他にはあり得ない』

 表札を確認する、祖母の家だ。

「ここで、何をするの?」

『呼び鈴を鳴らそうか』

 電話を切って、呼び鈴を鳴らす。鳴った余韻が凍てつく風にいつまでもまとわり付いている。

『はい』

 インターホンからの声は間違いなく祖母だった。

「こんにちは、孫の千花です。パパに会いに来ました」

 祖母はしばらく黙る。黙った末に、玄関から出て来た。警戒している様子はないが、何か覚悟が決まっているような表情をしている。

「千花ちゃん。大きくなったね。勇太ゆうたに会いに来たんだって? まあ、お上りよ」

「ありがとうございます」

 玄関。

 廊下。

 居間のちゃぶ台の前に座る。

「勇太から、もし千花ちゃんが来たら、渡して欲しいと言われているものがあるの。来るってことは、準備が整っていると言うことだから」

 祖母は奥の部屋から、眼鏡を取って来た。

「これを」

 私は両手でその眼鏡を持った。持つ前からもう分かっていた。これはパパの眼鏡だ。

 眼鏡を持った途端に、頭の中にあったモヤのかかった場所が晴れる。風を通したみたいに。

 あの日、パパと最後の日、いっぱい話した後に、パパは私のおでこを右手で圧迫した――

「千花。君は、このピンクの携帯電話で、いつでも俺と電話が出来る。俺が存在しなくても、出来る。この言葉を俺から言われたことを忘れる。そして、次に俺の眼鏡を見たときに、このことを思い出す」

「パパ、何?」

「はい、ここまで」

 その後、虚になった私は帰りの車の中で正気に戻った。今も、記憶をひとなぞりしたところで我に返った。祖母がこっちへ、と先導する。その先には仏壇があった。

 パパが遺影になっていた。

「パパは死んだの?」

「そうよ。三年前に」

「じゃあ、電話の声は……」

 祖母は何も言わずに部屋を出て行く。

 私は仏前に座り、おりんを鳴らす。澄んだ音がパパと私を繋げた気がした。

「パパ」

 死んでもなお、守ってくれた。

 でも、今日からは多分電話は使えない。

 これからは自分だけでやってみるよ。パパの考えが心が私の中にもいっぱいあることは、もう分かったし。

 私は立ち上がり、祖母にもう帰る旨を伝えた。

「またいらっしゃい」

「はい。必ず来ます」

 私は駅までの道を歩く。ピンクの携帯電話はカバンの中で眠っている。本当に二度と使えないのか、それともパパは電話に出るのか、分からない。

 きっとずっと、分からないままにする。


(了)

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