第4話

 言葉を失っていた直人さんの目から、雄弁な涙が溢れだした。音もなく、テーブルに滴っていく。


 そこに流れているのは、直人さんと美桜さんの時間だ。私は何も言えなくて、ただ黙ったまま、時間が過ぎるのを待っていた。いつもは美桜さんになりすまして参加していた何かに、今はどうしても足を踏み入れることができない。


 美桜さんでいるあいだ、直人さんは私を見てくれた。私の言動や行動の、ひとつひとつを喜んでくれた。でも、美桜さんらしからぬことをしてしまった時は、別だった。


 だから多分、美桜さんの焼き直しでない私のことは、必要ないはずだ。傾聴介助なんかで心が癒せるなら、直人さんは美桜さんに私を似せようとしたりしなかっただろうから。


「本当は、わかってた」


 ぽつりと呟きが漏れるまでに、ずいぶん長い時が経っていた。


「美桜はきっと困ってるだろうなって」


 私は何も言えずに、何度も目許を拭う直人さんを見つめた。


「でも、あまりに長く続けてきてしまったから、どこでやめたらいいのかもわかんなくて。いつかは離れるんだって思ってても、やめた時に何かが起こりそうで怖かった」


 私はいま、美桜さんの顔をしているだろうか。それとも、私自身の困惑を面に出しているだろうか。


「やめ時なのかも」


 どちらなのか、わからない声が言った。でもほどなくして、私自身の声だと気づいた。私しか知らない、根拠があったからだ。


「美桜さんが好きなものより、直人さんが好きなものを、私に買ってくださるようになりましたね。以前は、絶対になさらなかったことです」


 いつかやめるべきだと思っていて、じっさい当初ほどのこだわりもなくなっていた。彼女はもう、何も飲んだり食べたりできないという現実を、直人さんは知らず知らずのうちに受け入れていたのだ。


「美桜さんはブルーベリーも、ミルクティーも召し上がりませんし」


 紅茶にもコーヒーにも、美桜さんはミルクや砂糖を入れなかった。反対に直人さんは、ミルクを入れて飲むのが好きだ。


「うん」


 私を見ているような、どこも見ていないような目つきで、直人さんが頷く。


「知ってた。今日、ロイヤルミルクティーが良いって言ってくれたのは、僕のためでしょ」


 うなずいた私に、直人さんの寂しそうな笑みが向けられる。


「情けないな。二人のひとに、ずっと心配されてたなんて」


 私はかぶりを振った。


「どんな形であれ、直人さんが前向きになれたら、美桜さんは喜んでくださいます」

「そうだね。そうかもしれない」


 わずかに声を詰まらせながら、直人さんがまた涙を拭った。


「今となっては、何を怖がってたんだろうって感じがするよ」


 必要なのは、ただ最後の――いや最初の一歩を踏み出すことだけだったのかもしれない。

 彼は、口許を引き締めると、神妙な面持ちで私を見つめた。


「すぐに、君のメンテナンスの予約を入れよう。顔をもとに戻せるか訊いてみよう」


 なかば呆気に取られて、私はしばらく言葉がなかった。軽く目を見開いた私に、今度は直人さんが戸惑った顔をする。


「――嫌かな?」

「いいえ。ただ、私ごと放棄なさると思ってたので」


 思わず本音が出てしまうと、直人さんは苦笑いした。


「美桜とじゃなきゃ、一緒にいられない人間と思われてるみたいだね。当然だけど」

「すみません」

「いいんだ。ここまでして、僕を見守ってくれた美桜の気持ちは、絶対に受け止めなきゃね。もう僕には、それしかできないんだから」


 言い切った直人さんの顔には、どこか吹っ切れたような気配がある。


「でもやっぱり、なかったことにしたくはないんだ。生きていたときのことも、思い出と生きたことも。だからもう少し、君にはそばにいてほしい」


 美桜さんを演じる役目が終わるのは、不思議な気分だった。役目なしに――厳密にはあるけれど――、直人さんのそばにいられることに、ほっとする気持ちはある。でも、美桜さんでない私は、これからどうやって暮らせばいいだろう。


 記憶が取り除かれれば、もとの私に戻るだろうか。でも、美桜さんの感情を学んでしまった私は、造られた当初の私ではない。


「最初はぎこちないかもしれないけど、もう少し付き合ってくれたら嬉しい」


 穏やかなため息をつきながら、直人さんはろうそくを挿した。


「もちろん。それが私の役目ですから」

「良かった」


 手際よくマッチを擦って、直人さんがろうそくに火を点す。どうぞ、と促されて、私はふっと火を吹き消した。美桜さんの、最後の誕生日は今日だ。


「君の名前を、決めてなくてごめん。ずっと美桜って呼んでたから」

「いいえ」

「ちょっと考えるよ。自分のセンスが信じられなくて、不安だけど」


 言いながら直人さんは、ケーキからろうそくを抜き、ゆっくりとナイフを入れた。切り出したケーキを、慎重に皿へと移す。


 整然と着陸したケーキの脇には、少し冷めたロイヤルミルクティーが、なめらかな水面を揺らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殯の春 丹寧 @NinaMoue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ