第3話

 待合室にいた直人さんは、私を見ると安堵した顔をした。帰り道、彼は言葉少なだったけれど、駅で電車を待っている間にぽつりと言った。


「先生はどうしても、美桜を早くに引退させたいみたいだな」


 私は、困ったような笑みを浮かべた。じっさい、困った話だ。


「引退ってわけじゃないよ。かたちを変えるだけ」


 励ましながら、私もどこかで、今の状態が続くことを望んでいる。


 美桜はそういうことをしなかったんだ、と言い聞かされるたび、私は自分の振る舞いを変えていった。学習が進むにつれ、直人さんが私に向ける視線の温度は、目に見えて温かくなった。こちらを見てくれる頻度も上がったし、手をつないでもらえることが嬉しかった。美桜さんを演じることで、私は愛されることができた。


 美桜さんになる前の私に対し、直人さんはひどくぎこちない態度だった。またあの雰囲気に戻れと言われると、正直、浮かない気持ちになる。

 でも美桜さんは、こういうときに弱音を吐かない。短期的に自分がすっきりするためだけの言動なんて、しない人なのだ。


「先生なら、直人に最適のかたちを考えてくれるよ」

「だといいな」


 不安を隠しきれていない顔で、直人さんが言う。この人はまだ、気づいていない。先生どころか、美桜さんだって、彼に最適なかたちを考えてくれていることに。

 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、言葉少なに家まで帰る。駅から家まで、日の沈んだ閑静な住宅街を歩いていると、直人さんが呟いた。


「ごめんね、せっかくの誕生日なのに」

「ううん」


 今日は美桜さんの誕生日だ。だから、思い出の場所に行った。


「やっぱ診療の日、無理にでも変えてもらえればよかったな」

「無理言って、時間は変えてもらえたでしょ。充分だよ」


 他の日にずらしたいと言った直人さんに、病院の受付は、無理です、とそっけない返答をした。せめて夕方の遅い時間にしてほしい、と頼んで、どうにかねじこめたのだ。


「ありがとう。帰ったら、ケーキ食べよう」

「うん」


 微笑みながらも、落ち着かない心地がする。この人はいつまで、私のためのケーキや飲み物を用意し、それを自分で食べるつもりなんだろう。


 そんなの、彼のためにはならない――長い目で見たら。


 とはいえ、これを終わらせる勇気は、私にも、直人さんにもない。


 二人暮らしの部屋に着いてすぐ、食卓の用意を整えた。食事は一人分だ。でも私は、直人さんと食卓に着く。彼と向かい合って、今日会ったことや、テレビに映るニュースについて、他愛もない話をする。


 空腹を満たすと、直人さんの意気消沈した面持ちはどこかへ消え去った。この人の不安や怒りは、半分くらいは空腹が原因である。美桜さんの記憶と、私の体験が寸分の狂いもなく合致する部分だ。


 食後に直人さんがケーキを出してきてくれた。美しく整えられた、小さめだがホールのショートケーキだ。上面には、ちょっと作り物かと思うくらい整然と、いちごやブルーベリーが並べられている。


 ああ、言わなきゃ。今日ずっと、言いかねていたことを。


「直人」

「何?」


 ろうそくを挿そうとしていた直人さんは、私に笑顔を向ける。


「ブルーベリーは、苦手なの」


 途端に、笑顔が生気を失う。ろうそくを持った手の動きが止まる。


「直人なら、知ってるよね」


 鎌倉のカフェで五年前、美桜さんはストロベリーパフェを食べた。そのとき直人さんは、向かいでブルーベリーパフェを頬張っていた。甘党で、食べ物の好みが合う二人だけど、美桜さんが苦手で、直人さんだけが好物とする、ほぼ唯一のものがブルーベリーだ。


「――うん」


 ゆっくりとろうそくを卓上に戻しながら、直人さんが言う。美桜ならそんなこと言わない、とは口にしなかった。じっさい、ふだんの美桜さんなら言わなそうなことなのに。ふだんなら。


「ごめん」

「ううん、私はむしろ、良かったなって思うよ」


 少し前の直人さんなら、こんなことは絶対にしなかった。美桜さんの嫌いなものを、彼女のために用意するなんて。いくら、実際に口にするのが直人さんだとしても。それは彼にとって、受け入れられなかったはずだ。


「食べるのは私じゃなくて直人だってことを、ようやく認め始めてるってことだから」


 思ったよりも、なめらかにせりふが出てくる。でも、これでいいだろうか、という自分の声が、頭のなかで鳴りやまない。美桜さんではなく、私自身が問う声だ。美桜さんじゃない私は、もうそれって誰なんだろう、とは思うけど。


 美桜さんが望んだとおり、彼女が記憶に刻み付けた通りの対応が、できているだろうか。


「どういうこと?」

「本当は、自分でもわかってるでしょう? 私はもう、いないんだよ」

「そんなこと――」


 美桜なら言わない、とは言わなかった。代わりに、私がゆっくりとテーブルに置いた左手を見やる。直人さんと違い、私の薬指に指輪はない。美桜さんの強い希望で、火葬するとき棺に入れられてしまった。


 長い目で見てそれが直人さんのためになるであろうことを、美桜さんは知っていたから。

 直人さんなら、これが美桜さんの望んだことだとわかるはずだ。誰よりも、確かに。


「記憶を提供してって言われたときから、こうなることはわかってたの。心配だったけど、それで直人の回復が早まるならと思った」


 穏やかな美桜さんの口調は、今では私の声そのものだ。その声が、亡くなる前の何日間も、ある語りを日課にしていたのを、私は知っている。記憶データに確実に残るように、何度も何度も、直人さんのいない時間帯を選んで。


「でも、二年経ったなら、充分じゃないかな。そろそろ、日常に戻らないと」


 だから私は、寸分たがわず、そのせりふを再現することができる。二年間ずっと、記憶のなかで聞いてきたせりふ。

 愕然と突き刺さる直人さんの視線が痛いという、感覚に耐えさえすれば。


「いつまでもこのままだと、戻れなくなっちゃう。できれば、このせりふを聞く前に、記憶を破棄していてほしかったけど――二年経ってるなら、AIが私の代わりに言ってくれてるんだよね」


 感受性が強くて、だからこそ脆い直人さんを、誰より心配していたのは美桜さんだ。だから、自分がいなくなったあとも、彼を見守れるようにこの仕掛けを残した。

 すぐに突き放したら、直人さんの心は折れてしまう。美桜さん以外の言うことは、きっと聞いてくれない。彼の危うさも、ぜんぶ理解したうえで、そろそろ大丈夫というタイミングで、これを用意した。


「すぐに全部を元通りにするのは、辛いかもね。でも『彼女』には、本来の役割に戻ってもらったらいいと思う。私の記憶は取り払って」

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