第2話

 精神科の主治医である佐々木先生のもとへは、すぐに通された。二年を経て順調に回復している直人さんは、通院の感覚も間遠だし、先生の態度にも構えたところはない。


「おお、元気そうだね」


 初老の先生は鷹揚に言って、直人さんに椅子をすすめた。隣には、もう一つ椅子がある。私はふと、美桜さんのではない微笑を浮かべて、一緒に腰かけた。先生が、私の分まで場所を用意してくれて嬉しい。まるで、本物のパートナーのようだ。


「おかげさまで」


 直人さんの返事は短い。これが他の人なら、今日は鎌倉に行ってきたとか、より相手を安心させるエピソードを披露するのに、彼はそれしか言わなかった。何の意図で行ったのか、訊かれたくないからだろう。


「投薬をやめて随分経つけど。カウンセリングと『介助』だけの生活でも問題ないようだね」


 はい、と直人さんの声が少し小さくなる。浮かない表情だ。左手の指輪を、右手が落ち着かなさげに撫でる。


「でも、まだ当分はこのまま様子を見たいです。少し前に復職したばかりですから。会社から、聞いてると思いますけど」


 佐々木先生は、直人さんの勤務先の産業医でもある。


「うん。勤務状況は問題ないと聞いてるよ」


 だから治療を先に進めたい、と先生が言う前に、直人さんがふたたび口を開く。


「いま順調に行ってるので、ペースを崩したくないんですよね」


 治療をより前に進めたい先生と、現状を維持したい直人さんの、微妙な綱引きが行われているようだった。二人とも穏やかな表情を保っているのに、空気はかすかな緊張を漂わせている。

 先生が私を一瞥した。


「ふむ。復職からまだ三か月だから、確かにしばらくは様子を見ても良いね。この様子なら、遠からずもっとよくなると思う」


 ひとまず先生が矛を収めたことで、直人さんはいくらかほっとした様子だ。完全に警戒を解いてはいなかったけれど。


「そうですね。ありがとうございます」

「君にとっては、思い切りのいる話かもしれないけど――」


 先生が切り出したせりふに、解けかけた直人さんの警戒が、ふたたび高まった。


「折を見て、本来の『介助』方針に戻しても良いと思う。もともと彼女は、ちがう方法で『介助』に役立てられるはずだったからね」


 私のほうを見ずに、先生は言った。


 そうだ。私はもともと、単なる傾聴のために調整されたロボットだった。グリーフケアの一環として、美桜さんとの記憶に寄り添う。直人さんが懇願して、美桜さんに遺してもらった記憶の情報をもとに。


 たぶん直人さんは、もともと私を美桜さんに近づけるつもりで、頼んだのだと思う。根拠は、私のなかにある美桜さんの記憶だ。彼女はうっすら気づいていながら、止めようとしなかった。あまりに彼が、寂しそうだったから。

 もちろん美桜さんは、直人さんが記憶に閉じ込められるようなことはしない。そうならないよう手を打ったうえで、提供に合意した。


「まあ、そうなんですが」


 歯切れ悪く答えた直人さんに、先生はゆっくりと諭すように告げた。


「君と彼女の関係は、用途外の応用と言える」


 そうだ。だから、本来直人さんが撤去したいはずの、私のベースの人格はそのままになっている。美桜さんを忠実に再現するのじゃなく、私が美桜さんの情動、行動を学ぶというまどろっこしい方法をとっているのは、それしかできないからだ。死者を再現することだけを目的とした『介助』は、認められていない。


「治療に役立っているようだから、止めはしなかったけどね。でも、いつかどこかで先へ進まないといけないからさ」




 その後、直人さんを待合室へ見送って、私はメンテナンス室へ向かった。


 とは言っても、定例の動作確認をするだけなので、十五分程度で終わる。顔なじみのスキンヘッドの男性エンジニアに、どこにも異常がないことを確かめてもらい、すぐに解放された。


「何か困ったことはない?」


 定例の質問を、きわめて事務的に差し向けられる。


「特にないのですが――私には、喜怒哀楽は備わっていないんですよね」


 いつも「特になし」で終わる工程で、私が問い返したので、エンジニアさんは虚を突かれた顔をした。


「ないけど、どうして?」


 当然の答えだった。感情がないからこそ、介助ロボットは延々と繰り返される同じ話や、とりとめのない会話に、いつでも際限なく付き合うことができる。

 慎重に言葉を選びながら、私は補足した。


「移植された記憶の言動や情動をなぞることで、それらを学習する可能性があるのかと思って」


 エンジニアさんは、私の耳の手前にある薄い線を一瞥した。顔を美桜さんそっくりに作り替えたときにできた線だ。一度も顔を変えていないロボットには、この線はない。


「ああ、なるほどねえ。君も、目的外使用に転用されてるもんな」


 私は答えなかった。理解のある佐々木先生はともかく、他の人にはなるべくこのことを言わないほうが良い。本来、傾聴用介助ロボットは傾聴のために使用されなければならない。直人さんはたとえるなら、処方薬を自分の依存症のために使っているような状態にあるわけなので。


「同じ質問を、これまで何度か受けたよ。ってことは、みんな多かれ少なかれ、自分がそう変化してることを感じ取ってるんだと思う。君らに備わってるマルチモーダル学習機能なら、それも可能なんだろうね」

「そうですか」


「あくまで経験から感じるだけで、エビデンスがあるわけじゃないけど。こんな説明でよかったかな? 他のロボットから得た情報は、患者さんのプライバシーにも関わるから、あんまり話せなくてさ」

「いえ、ありがとうございます。ちょっと気になっただけなので」


「そう。――じゃあまた、三か月後に」

「はい」

「しかし、AIの人格を記憶に寄せていくなんて、途方もない労力がかかることだよ。そのエナジーが外向きなら、もっと早くに回復できるんじゃないかなって、俺なんかは思っちゃうけど」


 体格のいいエンジニアさんが、逞しい腕を組んで首を傾げた。外見といい、発言といい、心身ともに健康な人の代表格のようだ。直人さんの気持ちに共感するなんて、彼にとっては無理な話だろう。


「そうですか。――それじゃ、また」

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