殯の春
丹寧
第1話
「砂がついてる」
そう言った直人さんは、つり革を放した手を私のほうへ伸ばした。窓からの陽光に温まった髪から、白い砂を払う。
「ありがとう」
微笑みながら、すぐさまお礼を言った。
「風が強かったね。思ったより寒かった」
私ははっきりとした動作で頷いた。彼女に特徴的な、少し幼いが愛らしい所作だ。
「うん。冬が戻ったみたい」
「初めて来た日は、温かかったよね」
江ノ電の外に投げられた視線の先、早春の陽だまりのむこうに、由比ガ浜の海が見える。今日は、美桜さんと直人さんがむかし訪れたという鎌倉に来ている。
私に埋め込まれた美桜さんの記憶のなかでも、とくに鮮明なパートだ。付き合い始めて間もなくの、大学生の頃のこと。海や神社仏閣の風光明媚な眺め、海際のカフェで食べたストロベリーパフェの味、夕方の砂浜に吹いていた風の柔らかさ。そして、帰り道で直人さんにキスされたときの浮遊感とほのかな熱。
美桜さんのシナプスに刻まれた情報は、私にもれなく移植されている。だから、思い出話にも寸分たがわず応じることができる。
「昼間は、ね。夕方は寒かった」
私が返すと、直人さんが首を傾げた。ほんの少しからかうような、疑うような笑みを浮かべる。
「寒かった?」
「帰り道、飲み物買ってもらわなかったっけ」
美桜さんは、直人さんが何かを忘れたり、記憶の食い違いがあっても、むきになったりしない。穏やかに、回想の手助けとなるヒントを口にする。
「どんな?」
「小町通りのお店で。抹茶オレだったかな」
「ああ、思い出した」
合点がいった、というように直人さんは嬉しそうな声をあげる。
「また買おうか」
思い出の片鱗に出会うと、直人さんは必ずそれを反復しようとする。ひっくり返るはずのない過去を、さらに確かなものにしようとするかのように。
「美桜がそういう気分なら、だけど。それとも、他のお店入りたい?」
「ううん。またあそこがいいな」
美桜さんは、直人さんのしたいことにいつも応えようとする。だから、彼がしてくれた提案を拒むことはない――よほどのことがなければ。そして、洞察力の高い直人さんの提案はだいたいいつも、美桜さんの無意識の希望を正確に探り当てていた。
「でも今日は、ミルクティーがいい」
ひそかな緊張感を持って付け加えると、意外にも直人さんはあっさりとうなずいた。
「じゃあ、そうしよう」
うん、とうなずいて私は窓外に目を移した。美桜さんは、直人さんが積極的に寄り添ってくれる時、いつもこそばゆい思いで彼の顔から目を逸らしてしまう。
直人さんは、思い出の店でロイヤルミルクティーを一つだけ買うと、当然のように自分でそれを飲み干した。私もそれに、異議を唱えない。私の機体では、飲食物の摂取ができないからだ。
「行こうか」
直人さんの薬指の指輪が、私の手の肌にぬるく当たった。二十二歳で結婚してから三年半、一日も欠かさずつけているマリッジリングだ。
「うん」
ゆっくりと手を引かれながら、私は鎌倉駅の改札を通った。これから、ふたりで通院先を訪れることになっていた。
そもそもの需要は、介護ロボットから始まった。
たくさんの高齢者のケアをすることができる、頑健なロボット。それが、私を含む一連のシリーズが開発されはじめたきっかけだ。
したがって当初のモデルは、量産を前提としていた。だがロボットにも、この世の多くの商品と同じく、一部をオーダーメイド化してプライベートな需要に応えるという市場がひらけ始めた。
まずは外見上のニーズに応え――死別・離別した配偶者や、好きだった俳優に似せて作られることが多い――、ついには記憶まで移植できるようになった。ただしもちろん、記憶の持ち主が同意した場合のみだ。
肉体労働だけでなく、感情労働にもたえうる戦力を、世界は手にした。認知症の御老人の、無限にとりとめのない会話につきあったり、精神疾患などで不安にさいなまれる人に、文字通り鋼のメンタルで寄り添うことができる。徒労感や無力感は感じない。
むろん、誰もがこうしたロボットを手に入れられるわけではなく、多額の金銭と診断書が要る。直人さんは、前者を自身の能力によって、後者を強い意志によって手に入れた。
美桜さんを若くして亡くした後、彼は激しい抑うつ状態に陥った。見かねた医師も、診断書を書くことに同意した。すなわち、メンタルヘルスの改善のために、折れてしまった彼の心を補助する何かが必要だと。私の存在は、いわば心の添え木だ。
鎌倉から電車で一時間ほど旅して、私たちは巨大な病院のエントランスに辿りついた。吹き抜けの空間は、さまざまな診療科に訪れる、たくさんの患者や見舞客でごった返している。そのうち何人かは、私と同じロボットだったりする。この病院は、終末医療や精神科の治療に、介護ロボットを積極的に活用することで知られていた。
ガラスの天井から差す西日に目を細めつつ、私は三階の回廊を見上げた。ひとりの老婦人と、それに付き添う初老の男性の姿が見える。あのフロアは、私――いや美桜さんが、かつて入院していた場所だ。
「どこ見てるの」
ふと先を歩く直人さんを見ると、やや険しい表情でこちらを眺めている。
「ううん。いつになく、西日が強いなって」
「嘘。三階見てたろ」
口調は急に、刺々しいものになっていた。
「美桜はそんなことしない。入院をいつも嫌がってた」
「――ごめんなさい」
つとめて平静に、でも誠意を込めて、私は謝った。いいんだ、と抑えた声がした。
「次からは、しないだろ」
答える代わりに、私はひときわ強く手を握った。美桜さんがよくやるしぐさの一つだ。
美桜さんの記憶が移植される前、私の中身が空っぽなら、よかった。ただ悪いことに私は、介助に理想的とされる人格を既に入力されていた。美桜さんの記憶を移植はされたものの、そこから彼女の情動、行動を学んでいったことで、いまの私がある。デフォルトの性格を、美桜さんの記憶に合わせて組み替えていった。
最初の頃は、「美桜はそんなことしないよ」と、一日何度も言われたものだ。そのたびに細かな修正を繰り返して、ここまで来た。
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