小指の従者
かんな
1
犬が吠え、ウルファドは重い瞼を押し開けた。
間もなく焼きたてのパンを食べようというところだった。傍らには弟がいて、目の前にはエールの入ったジョッキを手にした父、母は湯気のたつスープを皿によそって食卓に並べている──失われた故郷の夢は尚も暖かい。
目覚めて感じるのは秋の風だった。格子のはめられた小窓から寄せるささやかな風には雪の気配が滲む。頑丈な板で固めた馬車の荷台に季節の便りは遠く、けたたましい犬の鳴き声が小さな秋を乱していく。
ウルファドの他に男が四人、誰もが息を潜めていると馬車が止まった。犬を宥める声と共に、重い鍵が外される。隣に座る男が肩をびくつかせた。
扉が開き、久方ぶりの陽射しに目を細めていると、光の中に立つ兵士が「五番、出ろ」と硬い声で告げた。途端に、近くにいた男が「いやだ」と叫んで飛び退るも、手足の枷が邪魔をする。起き上がろうにも手は潰され、光に晒された枷は否が応でも重みを思い出させた。ウルファドの手も赤黒く腫れて感覚はなく、匙はおろか彫刻刀を握ることなど夢のように思えた。
兵士は五番と呼んだ男の腕を掴んで引きずり下ろすと、扉を閉めて鍵をかけた。犬はますます激しく吠え、五番の哀願する声は遠くなっていく。そのうちに走って戻って来る足音が聞こえると神官が祈りを唱え始め、犬は静かになった。
やがて、甘く爛れた花の匂いが訪れる。五番の声は遠く、しかし短く「いやだ」という声だけはよく通った。声が裏返るほどに叫んだそれは数秒の後に苦悶の声と変わり、後味の悪い音を残して消えた。
「──…罪人を連れていくだけで楽な仕事だが、〈妖精の庭〉になんて近寄りたくもねえ」
板一枚を隔てて向こうで、兵士らしき男たちの話が聞こえる。
「〈血の器〉になることで呪われた土地が浄化されるんだ。こいつらだって最後ぐらい人の役に立てて満足だろうさ」
「……どうだか」
やがて花の匂いは薄れ、馬車が動き始めた。
ウルファドは潰れた指を見つめて数える。あと四回、もしくはそれより早くに自分の番が来ると考えて目を閉じた。夢の中ではまだ人形を彫っていた頃の自分でいられる。裁きを待つ罪人ではなかった、あの頃の。
おい、という声と共に体を引き倒された。その衝撃でウルファドは目を覚ましたものの、体が覚醒するには至らない。不自由な体でもたついていると舌打ちと共に太い腕が伸びて襟を掴み、咳き込むウルファドを引きずり落とす。痛みに体を強張らせながら起き上がろうとして、大きく吸い込んだ空気には土の匂いが含まれていた。微睡みが一掃される。一瞬大きく開いた目を、薄く閉じた。
立ち上がりかけたウルファドは、残りの全員も外に出されていることに驚く。そういえばあのうるさい犬の声も聞こえない。首を巡らせると、馬車の影で体も耳も伏せてしまっていた。
「早くしろ!」
業を煮やした兵士が手枷を掴んで持ち上げると、腫れた手に食い込んだ。思わず膝から崩れ落ちそうになるが、兵士は更に苛立ちを募らせ、手枷を引っ張って歩き始めた。
足枷の鎖が耳障りな音を立てている。罪人たちが「やめてくれ」と叫んでいるのが聞こえた。とうとう自分の番が来たのだ、と改めて実感すると血の気が引いた。乾ききった喉に唾を飲み下す。
馬車から充分に離れた所で兵士は足を止め、ウルファドらをその場に置き去りにして馬車の元へ走っていく。まるで逃げるような背中に、彼らが苛立つ理由を見た気がした。
緊張と恐怖が膨れ上がっていく。罪人の一人が震えてその場に蹲り、ぶつぶつと呟きながら爪を齧り始めた。それまでにも齧っていたらしく、何もない指からは血が滲んでいる。
横目に辺りを見れば、元は人の営みがあったのだろう、あちこちに瓦礫が見えた。彼方に見えるのは森か、それでも駆け込める距離ではない。監視の目が消えた今が好機だが、荒漠とした風景に希望はなかった。
──どうでもいい。もう、何もないのだから。
花の匂いが風に舞い始めた。軽やかなそれはやがて群れを成し、爛れた匂いが喉を焼く。故郷を襲った〈妖精の庭〉はこれよりも重く、まとわりついてきた。
伝説の中のものとされていた妖精の証明がなされたのは十数年前、人の血によってだった。あらゆる生物が異常な死に方をする、と、風に聞くそれがウルファドの故郷を襲ったのは二年前。誰もが死に絶える中、唯一生き残った為に異端審問にかけられたが、わからないものはわからないとしか答えられない。わかっていれば、皆をみすみす死なせるようなことはしなかった。だが、それは出来なかった──故に、真実を語らぬ罪人となり、故郷を滅した災禍に裁かれようとしている。
恐怖が頂点を超え、一人が叫びながら走り出した。だが、数秒もせずその体は破裂し、辺りに漂う鉄の匂いが現実へと焦点を結ばせる。
あとはただ、狂騒が支配した。どこへ逃げれば良いのかわからないまま走り出し、助けてと声を残して息絶える。それも尋常ではない死に方を目前にすれば、心は簡単に壊れた。足を止めた瞬間に、自らも異常な死体に連なる。
その光景に故郷が重なり、ウルファドの足は震えた。枯れた喉から悲鳴が上がろうとしている。ここで声を上げたら、自分を保っていられない。だが、そこまでして守りたい自分とは何か。
眼前に何かが迫る。かわそうとして転び、体を横たえたまま後ずさった。何かは空を旋回した後、再び向かってくる。滲んだ視界から胸元に飛び込んだそれが、心臓を貫いた気がした。
──なぜ、我々は妖精に殺されなければならないのか。
薪の爆ぜる音がする。母親が朝食の支度を始めたのだろう。早く起きなければ、とウルファドは瞼に力を込めた。穏やかな夢は消え、暗闇に沈む木々が鬱蒼とした顔を向ける。
「……」
優しすぎる夢だった。それこそ目覚めたばかりで胸が痛むほどに──そう思った途端、急速に記憶が蘇り、ウルファドは胸を探りかけて言葉を失った。
手枷の外された両手が、指先から肘まで薄緑色に輝いている。手は元の形に、折れた指は正しい方向に曲がり、襟をつまむことも造作もなく行え、貫かれたと思った胸は綺麗なものだった。驚くウルファドへ「緑の手だ」と少女の声が告げる。
再び薪が爆ぜ、ウルファドは自身が焚火の近くで横になっていたことに気付いた。焚火には鍋が据えられ、中を匙でかき回す小さな手が見える。その近くには外された枷が転がっており、よく見れば足も自由に動かせた。あの手が外す様子は想像がつかない。
恐る恐る緑色の手で体を支えながら身を起こした。両手はウルファドの意志の元にあり、感覚もある。
「体の具合はどうだ」
焚火の向こうから尋ねたのは十歳ほどの少女だった。銀髪を肩で切り揃え、火に彩られた瞳は緑色をしている。
「悪くはないか。……良くもなさそうだが」
言いながら鍋の中身をコップへ注ぎ、一口含んで頷く。不思議な匂いのするそれをウルファドへ差し出したが、受け取ることは出来なかった。少女は「名乗っていなかったな」とコップを脇に置く。
「私はリル。妖精女王の騎士の一人で小指の騎士だったが、今は追放された身だ。小指は一番弱く、己を留める力を失い、さ迷う中でお前を見つけた」
リルは胸元を示した。
「お前の胸にあった人形のお陰で、私は私を思い出すことができた。人形に入れたのは幸運だった。でなければ、お前を壊してしまうところだった」
ウルファドは胸元を探る。首にかけた皮紐の先がない。そんなものを持っていたことを、今になって思い出した。
途端に、吐き気が喉を駆け上った。妖精という言葉は生臭い。喉の奥まで来たものを飲み下し、ウルファドは声を絞り出した。
「壊せばいい。お前たちの呪いだ。それが俺たちへの罰だった」
リルは「あんなものを、罰にさせてしまったのか」と、言葉を落とす。
「〈妖精の庭〉とは醜悪な名前をつけたものだ。あれは狂った妖精が流した血で生まれる。あらゆるものが熟れて腐り、死に絶える。呪いとは少し趣が違う」
「……講釈はいらん」
「だが、知りたいだろう」と返されて言葉に詰まる。
「妖精が狂ったのは、女王の願いが歪んで叶えられるようになったからだ。女王は我らの全て。女王が壊れればそれに抗うことは出来ない。正気であるほど体を引き裂かれる苦しみに苛まれ、まずは体を、次いで心を失う」
リルの声は心地よく、しかし、ウルファドは言葉の合間に憎悪を噛ませることを止められない。苦しめばいい、と願ってしまう。
「故に、癒しを求める。まずは我が身の在り方を確かにするために体を」
「……」
「それが〈血の器〉という物だ。血が通っていれば何でもいいが、皆、癒してほしいだけだ。そして生き物の中でその術に長けているのは人だ。だが、大方は我らを受け止めきれずに死ぬ。治癒とは呼べないが、結果的には苦しみからの解放だ。……畢竟、人に殺到する」
寒風が焚火の合間を滑り、火の粉を散らした。
ウルファドは首にかけたままの先の切れた皮紐を見つめた。リルの視線も同じ所へ注がれる。
「私がなぜその人形に入り、助かったのかはわからない。が、あの人形には血が通っていた。覚えはないか?」
血、と口の中で呟いて思い出す。人形は幼い弟が彫ったものだった。やりたいと言うので教えたが、その最中に指を傷つけていた。
リルは焚火へと視線を転じる。緑色の瞳に炎が躍っていた。
「その理由がわかれば人を壊さずに済む。仲間も助けられる。ひいては、陛下も」
「捨てられたのに?」
薄暗い気持ちを込めて尋ねると、リルは初めて表情を和らげた。
「……約束をしたのだ」
焚火に縁取られた横顔を見つめるウルファドに、リルは薬湯の入ったコップを差し出す。
「交渉しよう」
小指の従者 かんな @langsame
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