朔太くんはネコの言いなり(1話読み切りver)

四志・零御・フォーファウンド

1年生 冬


 狗山いぬやま朔太さくたは、昼休み特有の活気あふれる廊下を抜け、屋上までの階段を重い足取りで上がっていく。途中で、購買帰りと思われる男子生徒とすれ違った。


「なぁ、あの東堂とうどうアリサが登校してるらしいけど見た?」


「オレ、同じクラスだから何回も見てるさ」


「うっわマジかよ!? 羨ましいぜ……。画面越しじゃなくて、リアルなこの目で確かめてみてェ……」


「子役時代の東堂アリサも良かったが、女優としての地位を確立した、いまの東堂アリサは一味違えぜ」


「そうか? 俺は断然、子役時代派だけどな。あの幼いながらも大人びた顔立ちでののしられてえ人生だった。特にバナナの惑星無印の……」


「発想キモッ! ロリコン野郎悪霊退散!」


 男子高校生の日常的会話を聞き流し、足を動かしていく。だが、最上階へと続く踊り場で一度足が止まる。


 「生徒の立ち入り禁止」と書かれたA4サイズの紙とビニール紐で道が閉ざされていた。


 朔太は後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、ビニール紐を乗り越えて先に進んだ。


 鍵のかかった扉は、上方向に力を入れながら押すと開いてしまう欠陥仕様。だが、その事実を知る者はほんの一握りだけ。


 ギギィ……、と錆びた音がして扉が開く。冷えた2月の風が流れ込んで来た。身体をブルっと震わせ、白い息を吐きながら曇天の空の下に出る。


 敷地内の外を見渡す様に設置された、古びた木製のベンチ。そこにブラウンのダッフルコートを着込んだ女子生徒が座っていた。


 ピンクのプラスチックケースに入ったスマホを操作している彼女は、朔太の存在に気が付くと、あでやかな長い黒髪を揺らして、握ったスマホを朔太に向けて小さく振った。


 彼女こそ、学園の生徒を男女関係なく魅了する、東堂とうどうアリサ本人だ。


 朔太がアリサの隣に座ると、手に持っていたスマホをコートのポケットにしまった。


「あ~ぁ。すっかり冷えちゃった。早く春になって欲しいものだねえ」


 そう言って遠回しに朔太の遅れを指摘すると、アリサは身体を震わせ着崩れたコートを直した。


 2人がわざわざ真冬の屋上で待ち合わせるのには理由があった。それは彼女の知名度によるもの。


 東堂とうどうアリサは有名人であり芸能人——国民的知名度を誇る大女優だ。気安く話しかけるのも難しい存在。まして、朔太のような年下の男子が話かけようものなら、ファンを名乗る男連中が集団で襲い掛かって来て、ボコボコにされることは間違いない。


 アリサは子役時代、社会現象を巻き起こしたドラマ『風』のヒロインの幼少期役としてブレイク。それ以降、高校生となった現在まで、ドラマだけでなくバラエティなど数多くの番組に出演している。


 最近は大学受験のために仕事をセーブしているとのこと。それでもテレビで見ない日はないぐらい、超売れっ子な芸能人だ。


「いやぁ、遅くなってすみません。廊下でやけに人だかりが出来ていたので、遠回りしてきたんです」


「人だかり……。フフッ、私のせいとでも言いたいの? たしかに、私を見ようと学年男女問わず教室に来ているけどさ」


 てっきり怒られるものだと思ったが、今日は機嫌が良いらしい。朔太はすかさずアリサを調子づかせる。


「憧れの女性芸能人ランキング1位の東堂アリサ様が同じ学校にいたら、僕も拝みに行きたいですよ」


 撮影のためにいたりいなかったり、いたと思ったら早退したり。神出鬼没な彼女。同じ学校に通っている生徒でも同じクラスでなければ、目撃するのは難しいだろう。


「朔太になら何度でも見せてあげてるわよ? 演技パフォーマンスじゃない私の自然体プレーン——いや、ヌードだったかしら?」


 アリサが拳一個分、朔太の側に寄り、いたずらっぽく顔を覗き込んで来た。魅惑的な瞳に見つめられ思わず顔を背ける。


「そ、そんなことより、どうして僕よりも早く屋上に来れているんです? 授業が終わってすぐ、ファンというかクラスの人たちに机を囲まれそうなものですけど」


 恥ずかしさを紛らわすために話題を振った。そんなことアリサには見透かされているだろうが、意外と素直に答えてくれた。


「いつもマスコミに追われている身なのよ? 目にも止まらぬ速さで移動したまで。大天才女優様を舐めるんじゃないわ」


「自分で大天才とか言いますか」


「そりゃあ自信家じゃなきゃ、芸能界なんて生きていけないでしょう?」


「はいはいそうでしたね。そうだ、聞いてくださいよ。アリサが好きそうな話があるんです」


「ふーん。普段から芸能界の魑魅魍魎おしゃべりモンスターたちの話を聞いている私が好きそうな話か。ふーーーん。気になるねぇ」


「……期待しないで聞いてください。今朝のことです。近所の公園を通りがかった時、木に登って降りれなくなっている女子高生がいるって、野良ネコに教えて貰ったんです」


「………………」


「………………」


 長い沈黙の後、アリサは白い息をふぅーっと吐いてようやく口を開いた。


「……私の聞き間違いじゃなきゃ、少女が木から降りれなくなったと聞こえたんですけど?」


「間違いじゃないです」


 きっぱり言い放つと、アリサはふっと笑って鞄を開ける。


「……フフッ、面白そうな話ね。じゃ、私の手作り愛妻弁当でも食べながら話してくれる?」


 そう言って、アリサは2つの弁当箱を取り出した。


「おお、嬉しいです! ではまず、僕が妹のキスで目覚めるところから話しますね?」


「………………は?」


 アリサは鬼の形相で朔太を睨むと、弁当箱を引っ込めた。




     *




「おりゃ!」


「ッぐ!」


 その日、朔太は熱烈な妹のキス……なんてものではなく、強烈なデコピンで起床した。


「起きて!」


 重い瞼を開ける。ベッドで仰向けになる朔太の隣では、妹の咲綾さあやがムスっとした表情で朔太を見下ろしていた。青いスカーフが特徴的な中学校のセーラー服を着ている。


「咲綾のその制服も、そろそろ見納めかぁ」


「じろじろ見ないでよ気色悪い」


 朔太を罵倒すると、咲綾は部屋を出て行った。


「……また咲綾をいじめてるわけ?」


 そう言って欠伸をしたのは、朔太の枕元で丸くなっている白い毛並みのネコだ。


「おはようパトラ。いじめてないよ愛でているだけ。可愛い妹だからな」


 パトラはエメラルド色の美しい瞳で朔太を一瞥すると、目を閉じた。このまましばらく丸くなるつもりらしい。


「……さてと」


 ベッドから這い出して制服に着替える。


 自室の2階から1階に下りると、朝食の匂いが鼻腔を擽った。同時にお腹がぐぅと鳴る。


 リビングに入って奥のキッチンを覗くと、咲綾が制服の上からエプロンを身に着けていた。上機嫌に鼻歌をしながらフライパンの上のウインナーを転がしている。


「ご機嫌な朝飯づくりだな」


 声を掛けるが「気が散る。黙ってて」という冷めた言葉と鋭い視線が飛んで来たので、そそくさとリビングに退避する。


 ソファに座ってテレビでも見ようとしたが、庭からネコの鳴き声がしたので窓を開けた。


 パトラではない、別のネコがいた。


「やあ朔太。今日はいつもより遅かったじゃないか」


「キミが早いんだよシュレディンガー」


 シュレディンガーは近所の老人宅に住むネコだ。彼は他のネコと比べて賢いネコで、時折朔太の家に来ては雑談かじゃれて遊んでいる。


「いやいや、そんなことはない。いつもならパトラが窓際で陽を浴びている頃合いだ。今日は彼女をまだ見ていない」


「そうですか」


 そんなことを言っているとパトラがリビングに現れ、しゃがんでいる朔太の肩に飛び乗った。パトラは庭にいるシュレディンガーを女王のように見下ろす。


「また来たのねシュレディンガー」


「ごきげんよう。今日も美しい毛並みだことで」


「私のことを褒める前に自分の毛並みでも整えたら?」


「ほどほどで十分さ」


「そんなんだから雌ネコに嫌われてるのよ」


「安心したまえ。雌雄関係なく、近所のネコたちには嫌われているさ」


「あんたねぇ……」


 パトラが呆れた声で鳴いた。


「お兄ぃ、ネコと遊んでないでご飯あげといて」


 ネコたちと戯れていたら、咲綾が朝食をテーブルに運んでいた。咲綾にはネコたちの声は聞こえないし会話も出来ない。


 不思議なことに、朔太だけがネコとコミュニケーションをとれるのだ。


 この超能力と思しき力に気付いたのは小学生の頃。会話が出来るのはネコだけで、他の動物との会話は不能だった。


 それから数年の日が経ち高校生となった朔太だったが、ネコと会話が出来るからといって大した日常の変化は起きなかった。強いて言えばネコと触れ合う機会が増えたぐらいか。


「……了解」


 朔太はテレビ台の横にある棚からキャットフードと皿を取り出し、パトラに差出した。 


「どうぞ朝食でございます」


「もっと高級なものが食べたいわ」


「我儘なお嬢さんが1人と1匹か。お兄さんは心苦しいです。ついでに懐も苦しい状況なので勘弁してください」


「なんだよ、食べないならオレが貰うぞ」


「シュレディンガー! アンタにはあげないよ」


 窓からひょこっと顔を出したシュレディンガーに対し、パトラはシャ! と小さく威嚇した。


「なんだシュレディンガー、お腹空いているのか?」


「飯が食えるなら頂く。それが道理ってもんだろ」


「シュレディンガー、僕の友達はキミだけだ」


 朔太はシュレディンガーを抱き抱えると背中を撫でてやった。


「お兄ぃ、さっさと朝食食べて! 食べ終わったお皿洗っておきたいんだから!」

 

「はいはい、いまいきますよー」


 キャットフードを袋から片手に乗る程度出してシュレディンガーに与え、朔太も朝食をとる。


 朝食を終えると、朔太はネコじゃらしを使ってシュレディンガーと戯れた。このおもちゃをパトラに使っても全く興味なしだが、シュレディンガーはちゃんと遊んでくれる。


「咲綾、僕も食器洗うの手伝おうか?」


「今までお皿を割った回数を覚えていて、それでもって言うならいいけど?」


 一度手を止め、首を捻る。


「覚えている限りは7枚だな」


 冷たい視線が飛んで来たので、朔太は食後の運動とばかりにシュレディンガーとの戯れを再開する。


「私、先に出るから。お兄ぃはちゃんと鍵を閉めて家を出てよね」


 時刻は8時過ぎ。学校指定の鞄を持った咲綾は一足先に学校へ向かった。


「はいはい。いってらっしゃい」


「……行ってきます」


 朔太はパトラとシュレディンガーと共に咲綾を見送り、リビングに戻った。


「さーて僕も出ようかな」


「気になっていたんだが、どうして2人は一緒に出掛けないんだ? 学校までの距離はそんなに変わらないんだろう?」


 シュレディンガーが不思議そうに朔太に尋ねた。


「僕の妹は反抗期だからな。一緒に行きたくないらしい」


「妹というのは良くわからんな」


「同感」


 通学鞄を手に取り玄関へ向かう。


「ちょっと朔太、汚い野良ネコ追い出してよ」


「忘れてた。シュレディンガー行くぞ」


「汚いとは失礼な」


「家ネコならもっと身なりを整えなさい」


 シュレディンガーは返す言葉が無くナァと鳴くしかなかった。


「シュレディンガー、ドンマイ」


「朔太もだからね。そんなボサボサ頭じゃ人間のメスに嫌われるわよ」


「……はい」


 まさかネコに小言を言われる日が来るとは驚きだ。飼い主に似ると言うが、どちらかと言えば咲綾に似てきた気がする。


 朔太はシュレディンガーを抱えると、咲綾の言いつけ通り鍵を閉めて家を出た。


 冷たい風に思わず身体を震わせる。季節はすっかり冬だ。


 家を出て数分。手が氷のように冷えてしまったので、肩に乗るシュレディンガーのふかふかの毛に手を突っ込んでホッカイロ代わりにする。


「シュレディンガー、どこまで行くんだ?」


「公園にでも連れて行ってくれ。あそこには色んな野良ネコが集まる。面白い話を沢山聞けるぞ」


「そいつはいいな。どんな話だ?」


「縄張りの話、飼い主の話、エサの話——なんでもござれだ」


「人間が入りずらい話ばかりだな。やっぱり僕は遠慮しておこう」


 マダムたちの井戸端会議に参加するようなものだ。ネコたちに悪い。


 そもそも、今日は平日だ。ネコと違って人間の子どもは学校へ行き授業を受ける。さらに言えば、朔太は国民的知名度を誇る芸能人の先輩と会う約束があるのだ。学校をサボるわけにはいかない。


「わかった。また今度誘う」


「はいはい、また今度な」


 そんな会話をしていると、シュレディンガーではない、別のネコの鳴き声が聞こえた。

 

 辺りを見渡すと、曲がり角から1匹のネコが顔を出したところだった。


「シュレディンガー」


 見知らぬネコは朔太の前に座り込み、肩に乗るシュレディンガーに声をかけた。


「なんだオレに言ってるのか?」


「そんなヘンテコな名前、君しかいないでしょ」


「……キミは誰だったかな。新顔か?」


「ボクはナベだよ。最近、ネコの楽園からこの辺りにやって来た」


「ネコの楽園って?」


 聞いたことの無い単語だ。シュレディンガーに説明を求める。


「詳しくは知らないが、ネコたちが安らかに暮らす島ってことは聞いたことがある。それでナベ、オレにどういう要件だ?」


「ネコの話が分かる人間というのは、そいつか?」


 ナベの問いには朔太が答えた。


「その通り。僕の名前は朔太。よろしく」


「こりゃ驚いた。本当にネコの言っていることが分かるんだね。ネコの楽園にもこんな人間はいなかったよ。よろしく朔太。さて、さっそくだが頼み事を聞いてくれ」


 ナベは朔太の右肩に飛び乗った。これで両肩にネコ。2匹共なかなかの重量で肩が疲れるのだが、バランスは良くなった。


「実は公園の木に登った人間が木から降りれなくなったんだ。助けてやってくれないか」


「……えーっと、聞き間違いをしたような気がするな。もう一度言ってくれないか?」


「公園の木に登った人間が木から降りれなくなったんだ」


「木に登ったのはネコじゃなくて人間で間違いないんだな?」


「ああ」


 朔太は半信半疑ながらもナベに連れられ、公園の中心にある大きな木に向かった。


「朝から木登りする女の子がいるとは信じがたいけどね」


「ボクにとって、ネコと会話できる人間がいることの方が信じがたいけど?」


「はっはー、同意見だよ。————って、マジ?」


 疑いはすぐに晴れた。ナベの言っていた女の子は確かにいた。


 女の子が、木の幹に蝉のようにしがみ付いている。


 さらに朔太を困惑させたのは、その子が朔太と同じ学校の制服を着ていたからだ。少なくとも、朔太は彼女を見かけたことはない。だからと言って助けないのも道理に反する。


「どうにか助けてやれないか?」


「高いところが好きなのかもしれないな」


「ネコじゃあるまいし」


 朔太は木に近づき、幹に抱き着く女子に声をかけてみた。


「どうも、僕の名前は徳川家康といいます。あなたは?」


「……私?」


 辺りを見渡すが、朔太とネコ以外誰もいない。朔太は頷いておいた。


「私の名前は寧々。松田寧々って言います」


「よろしく松田さん」


「寧々って呼んでよ。私も家康って呼ぶから」


「あー、えっと、そうか。じゃあ僕も寧々って呼ばせてもらうよ」


 どうやら寧々は、徳川家康という名前について疑問はないようだ。それとも初対面の人に対してノリが良いだけなのか。寧々の表情から真意を読み解くことは出来なかった。


「それで、寧々はそんなところで何をしているんだい?」


「えーっと、高いところにいたネコちゃんのことが気になって木に登ったんだ。だけど近づいたらネコちゃんが飛び降りちゃって、なんで逃げるのー! って追いかけようとしたら——あ、私、降りれなくなっちゃったんだ……」


「……状況は理解したよ」


 この人は、言葉よりも身体が先に動くタイプの人だ。


「おい朔太、この人間はマヌケなのか?」


「いいかシュレディンガー、そういうことはオブラートに包むのが人間の作法だ」


「そうなのか、覚えておこう。それはそれとして、あの人間をどうやって下に降ろすんだ? 朔太の腕があそこまで届くとは思えないぞ」


「腕が伸びるかもしれないぞ」


「あっ、漫画とやらで見た事があるぞ! 帽子をかぶった人間が、腕を伸ばしてゴムg——」


「なんだい漫画って?」


「なんだナベ! ネコの楽園とやらに漫画は無いのか?」


「そんなものはないな。なあ朔太。あとでボクに漫画とやらをみせてくれ」


「…………どーすっかなー」


 その場にしゃがんでシュレディンガーを撫でながら、大きな枝に座る寧々を見上げる。漫画をみせるのはどうってことない。あとでいくらでも見せられる。いまの発言は寧々に対して、どうやって地上に降ろせばいいか考えて出たものだ。


 寧々を視界にいれつつ思考を巡らせていると、彼女のスカートが風に揺れて白い太腿が見え隠れした。もちろん、その奥にある飾り付きの派手な布も。


「きゃー、えっちー」


 寧々はわざとらしく声をあげた。周りに人がいないのが幸いだ。このご時世、朔太が悪者にされてしまう。


 そんなことを思いつつも、反応に困った朔太は、視界に捉えたものについて感想を素直に伝えた。


「随分と派手なの着てるな」


「デリカシー無いってよく言われない?」


「ご明察、よく言われるよ。そんなこと分かるなんて寧々さん天才か?」


「うん、天才ってよく言われる」


「僕もデリカシー無しの天才だし、天才同士が出会っちまったわけだ。漫画だったら物語の始まり、運命の出会いってとこかな」


「なにそれ。どういうこと?」


「拗らせた男子高校生のただの妄想さ。そんなことよりも、どうやって降りるか考えてくれ」


「あー、それなんだけど思いついたんだった。どこかの誰かさんが私の下着を盗み見て欲情するから言い忘れてたよ」


「悪かったって」


 悪気はなかったので平謝りしておく。勿論、欲情などしていない。そんなものはアリサで間に合っている。——なんてことをアリサ本人の前で言ったら大喜びするのでいう訳ないが。


「不可抗力だし別にいいよ。私が上にいるのが悪いんだもん。ってことで、私が飛び降りるから受け止めてね」

 

 寧々は脚を曲げて飛び降りる態勢に入った。その様子に朔太は目を丸くして慌てて立ち上がる。


「ちょっとストップ! 提案と実行を同時にするな!」


「ダメ? 家康は細身だけど鍛えてる感じするし、大丈夫っしょ」


「いやいやだいじょばないっしょ。意外と高さあるよ?」


 寧々のいる位置は、目測で朔太の身長の3倍はある。そんなところから降りるのは、飛ぶ側と受け止める側、両者それなりの危険はある。


「だいじょーぶだって。ほら、私軽いし」


 そう言って寧々は自分の胸を叩く。思わず「そうですね」と言いかけたが、それに関しては何も言わずが吉だ。言葉を堪えた朔太は、心の内で自身へ称賛の拍手を送った。


「……分かった。受け止める——って、ジャンプはしないでくれ」


 再び寧々が脚を曲げ、勢い付けようとしたので慌てて制止する。


「その場に座って、滑り落ちるようにして降りてくれ。そうしたら、僕も受け止め易いし、お互い怪我のリスクは最小限だろ」


「んー、たしかにそだね」


 寧々は座りこみ、脚をぷらぷらとさせた。そのせいで、これまた視界に派手なもの見えた気がしたが、あえて指摘しなかった。本人も気づいていないようだ。


「ほら、これで降りればいいのかね」


「いいぞ」


 朔太は寧々を受け止めようと両腕を広げる。


「―—よいしょ!」


 寧々の身体が宙を浮く。


 朔太はタイミングを見計らって上半身を抱き抱えて受け止める。まるでマグロを抱えた漁師のようだ。


「っし、うおっ、おもっ!」


 マグロのように暴れはしなかったが、想像以上の重量にバランスを崩す。軽いという言葉は一体何だったのか。朔太の顔にはご褒美が——否、しっかりとした重みと柔らかな感触が布越しに伝わってくる。


 能ある鷹は爪を隠す。——いや、能ある女は乳を隠すと言ったところか。


 朔太は何を考えているのか、本当に良く分からなくなった。姿勢を保つことに精一杯で、思考が滅茶苦茶になっていたのだ。


 踏ん張ってみるが、一度バランスが崩れたせいで、元の姿勢になかなか戻れない。


(——駄目だ、倒れるっ!)


 せめて寧々に怪我がないよう、重心を後ろにして背中から倒れることにした。


「ぅお……とっとっ、とっ……ぐひゃ!」


「うわあっ!」


「ニャ!」


 朔太の後ろにいたネコたちが慌てて避難する。それと同時にドスンと砂埃を撒き散らし、朔太は寧々を抱えたまま背中から倒れた。


「いててて……」


「あた~」


 砂埃が晴れて目を開ける。こういう時のお決まりというか、必然というか……。物理法則を無視しているのかと疑ってしまう光景が、目の前に広がっていた。


 朔太の右手には柔らかでいて程よい弾力を持つ、男ならば誰もが憧れを持つ双丘そうきゅう。つまり——胸。


 一方の左手は、寧々のスカートを捲るように引っ掛かっていた。彼女の派手な下着が露わになり、もはや派手どころではない。


 過激えっちだ。


「……ちょっとお嬢さん、僕から降りて貰えないかな」


「ごめん、ごめん」


 寧々はさっと朔太の身体から離れた。 


「と、ともかくありがと。やっぱり地上が一番ね」


 直前の光景にあえて追及することなく、寧々は頬を赤く染めただけだった。何も言うなと言わんばかりに朔太へ笑顔を向ける。


「……どういたしまして」


「御礼とか出来たらいいんだけど持ち合わせが無いからコレで許してね」


「コレ? さっきのでお釣りが来そうだけど?」


「どッ、どうしてソコに触れるの! まあいいわ。へ、減るもんじゃないし……とにかく、それはそれ。これはこれ。御礼はさせて貰うわね」


 寧々はそう言って、朔太の頬を両手ガシっと掴んだ。まるで猛禽類に捕獲されたみたいだ。


「ちょ、ちょっと!?」


 寧々は困惑する朔太をよそに、額に唇を近づけてキスをした。


「じゃ!」


 寧々は手を振って、逃げるように駆け足で去って行った。


(御礼の仕方が随分と情熱的じゃないか。学校で再会したとき気まずいだろうなぁ……)


「なあ朔太、何か忘れてないか?」


 朔太が眉をハの字にしていると、シュレディンガーが大きな欠伸をして近くのベンチに飛び乗った。


「あっ」


 公園に設置された時計に視線を送ると、時刻は8時20分。ホームルームまで残り10分と迫っていた。そりゃあ寧々が駆け足で行ったわけだ。遅刻する、と朔太に言わないのは最後に意地悪されたのか。


「じゃあなシュレディンガー、ナベ。僕は今から本気を出さなきゃいけないようだ」


「ああ、気をつけてな」


 シュレディンガーとナベに見送られ、朔太は体力測定以来の全力ダッシュで学校に向かった。



 

     *




「―—ってことがありました」


「うっわ、ベタ過ぎなボーイミーツガール。全っ然、面白くなかった。脚本やり直して」


「さすがは数多の脚本を見て来たアリサ様。すみませんでした。どこを直せばいいですか?」


「全部。特にキス。なにアレ。頬にキスなんてベロチューと一緒でしょ」


「そ、そうですか。でもホントの話ノンフィクションなんです」


 アリサは「私との出会いの方がもっと運命的だった」と呟いたが、朔太は聞かなかったことにした。


「嘘言ってないのは分かるけど、それでどうして私は、朔太が年下の女とよろしくしている話を聞かされたの?」


「……そこですか。話を聞く前は面白そうだって言ってたのに」


 アリサは、食べ終えた弁当箱を包んで鞄にしまう。


「それはそれ。これはこれ。私が朔太以外の男の話をしたら面白い? しかもキスなんてしたらどう思う?」


「実は僕、ねと——なんでもないです。とっても悲しい気分になります」


「恋人っていうのは、お互いの嫌なところをみせないようにするものだよ」


「へー。世間の恋人たちは大変そうですね」 


「…………」


「…………」


 もの凄く怖い視線を朔太は感じたので、顔を正面に向けたまま口を開いた。


「あの、つい否定しませんでしたけど、僕たち、恋人として付き合っていないですよね?」


「そうだったかな? だったら、付き合っていることにしましょう。そうしましょう」


「随分強引ですね。ま、その話は別の機会にしましょう」


「…………」


 アリサは頬をリスのようにぷくっと膨らませてから、ムスっと空を見上げた。


「じゃあ別の話をすることにしましょうか。マネージャーが朔太を——」


「戻りません」


 最後まで言わなくても、何の話をされるのか朔太は分かっていた。


「何度誘われても答えは同じですから」


 何十回も同じことを言われた。それでも答えは変わらない。——いまはまだ、変えられない。


「……そう。でも、天下の大女優様から逃げきれるわけないのは分かっているでしょ?」


「かけっこは得意なんで、地獄の果てでも逃げてみせますよ」


「つまんない解答」


 朔太の言葉にアリサはため息を吐くと、おもむろに立ち上がった。


「あ、ちょっと、どこに行くんです?」


「このあと撮影なの」


 振り返らずにそれだけ言うと、アリサは屋上の扉が開けた。一瞬だけ朔太のことを見て何かを言った気がしたのだが、確かめる術もなく扉は無慈悲にも閉じた。


「……あーぁ、怒らせちゃったか。どうやってご機嫌とろうかなぁ~」



 朔太は、どんよりした灰色の空に愚痴を溢した。







————それから何度も太陽が顔を出しては隠れを繰り返し、朔太とアリサは仲睦まじく、時には喧嘩をしつつも逢瀬を繰り返す。


 だがその間、この学校にいるはずの松田寧々という少女に再び出会うことは無く、季節は春を迎えた。





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