犯罪と崩壊
木木
第1話 大雨とアルコールと爆弾
僕は、カラスの飛ぶのを見ていた。カラスは冬の低い空の一番寒いところを薄く飛んでいた。正午を知らせるチャイムは僕の耳を冷たく刺し、手に持つカフェオレのカップが小さく揺れた。フライパンの中の昨日のパスタはもう白い油を被って醜くしぼんでいて、それが僕の心を一層沈ませた。
僕の東京の1DKの部屋は沈んでいた。それは単位を落としたからではない。天井にある指がやっと入るくらいの隙間からとめどなく―それはまさに梅雨の悔しさを含んだ雨のように―ウイスキーが降っていたからだ。
それは唐突に始まった。朝食の味噌汁を飲んでいるときに降り出した。以前から天井の隙間は不気味に思っていたが、古いアパートだったから仕方ないと思っていた。そこからウイスキーが降ってきたのだ。
「やれやれ。」
その時僕はまだ19歳だったから酒を飲めなかったし、両親も下戸であったからその時は飲もうなんて微塵も考えなかった。僕の頭の中にあったのは寝床と本の心配だけだった。
ウイスキーの雨は丸2日続いた。僕は外泊するのにお金もなかったからずっとその部屋にいた。ウイスキーのアルコール分とその香りで頭がくらくらした。
「やれやれ。」
僕は部屋を見回していった。そして、合う約束をしていたガールフレンドに電話をした。
「もしもし」
「もしもし」
彼女はいつもの雲が口の中にあるような高い声で言った。
「今日の約束なんだけど、僕の部屋の中にウイスキーの雨が降ったから、なしにしてくれないかな。」
「なによそれ、もっとましな嘘を付きなさいよ。ウイスキーの雨?聞いたこともないわ。」
「君の言うことはもっともだ、僕だってこんなこと信じたくないね。そんなに言うなら来てみるといい。」
「行こうかしら。」
彼女は少し考えて言った。
「汚れてもいい服を着てきたほうがいい。」
「わかった」
そして言い終わるかいなや彼女は電話を切った。やれやれ、どうしたものか。
彼女は11時きっかりにやって来た。緑色のブラウスにほっそりとしたジーンズをはいていた。彼女はひと目見て僕が嘘をついてないと知ったようだ。
「とりあえず外に出ましょうよ、こんなところいたら良くないわ。」
そう言って彼女は僕を強引に連れ出した。
「いったい我々はどこに向かっているんだい?」
「お昼ごはんを食べましょう。」
我々は通りにあるイタリアンに入った。彼女はバジルのスパゲティを注文し、ビールを飲んだ。僕はトマトの入ったオムレツを注文し、ジンジャーエールを飲んだ。
「これからどうするの?まだあそこに住み続けるつもり?」
「そうだけど。」
「だめだわ、あんなところ。さっさと引っ越してしまいなさいよ。」
「そう言われても、僕はそんなにお金があるわけじゃないし、実家も金持ちじゃない。すぐに引っ越しなんてできない話なんだ。」
「じゃあ私の家に来なさい。部屋が1つ余ってるわ。」
「理性を保てる自信がないからやめとく、自分で探すよ。」
僕はため息をつきながら言った。彼女は少々押しが強すぎるのだ。
僕は負けた。部屋のものはほとんどウイスキー漬けになっていたから殆どを捨てた。清掃工場の作業員たちはさぞかし困っているに違いない。結局残ったのはダンボールに2つ分だけだった。アルバイトで貯めた金で買ったドストエフスキー全集も手放さざるをえなかった。高校時代を共に過ごした本もほとんどを捨てた。手元に残ったのは1984年と1Q84であった。
彼女の家は僕の家より広かった。彼女が言ったように部屋が1つ余っていた。彼女の元ルームメイトが住んでいたらしい。6畳ほどの部屋で、中には小さい机と本棚が1つ残っていた。本棚には最近の小説の中にトーマス・マンの「魔の山」があった。僕は本棚に本を並べ、生き残っていたレコードプレイヤーを置いた。それだけで少し自分の空間に近づいた。
「ねえ、犯罪って興味ない?」
彼女がそう言ったのはインスタントの味噌汁を飲んでいるときであった。
「犯罪?」
僕はいささか憮然として言った。彼女はその思考過程を決して話そうとしない。
「そう、犯罪。こう見えて私、犯罪者なの。」
「へえ、どんな?」
「殺人。」
「へえ。」
「興味ないの?」
「もうないかな。」
僕は味噌汁をもう一口飲んでから言った。
「君がその事によって僕と会えなくなるなら気になるけど。」
「それはないわ。」
「なら良かった。」
我々はそれから食事が終わるまで一言も話さなかった。そこには金木犀の香りのようなよそよそしい空気が流れていた。
犯罪と崩壊 木木 @seiji-shikin-problem
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