2-2




 ちくちく、ちくちく。本日は針と糸とお友達になる日。リリアンはひたすらちくちくしている。

 が、そのとなりでは芸術が完成しつつあった。


「ふふ、デミオン様は刺繍が本当にお上手なのね」

「カンネール伯爵じんも、素晴らしい腕をお持ちだと思います」


 今日は刺繍をしましょうとイーディスに強制されたのだ。貴族の女性は刺繍が教養のひとつだから、できないよりもできた方がいい。ただ、人には得手不得手があり、リリアンは後者だった。


「男性なのに、刺繍もこんなにお上手だなんて。デミオン様は本当に何でもできるのね」

「父に、何でもできないと嫡男に相応ふさわしくない、と言われていたからですね」

「あら、でも本当に何でもおできになるなんて、やはり素晴らしいわ」


 そう、語るまでもないがデミオンは刺繍のうでまえかんぺき。何よりも手が早い。のんびりすのも楽しいですね、と言っていたのだが、リリアンからすると高速刺繍マシンのようだ。


(あの……、それが標準装備の速度なのですか?)


 リリアンは初めて目にするデミオンの技術に、目がくぎけだ。

 イーディスもそれなりの腕前なので、的確に図案通り綺麗な糸でいろどっていく。白い布の中にカラフルな花束が生まれていくのがうらやましい。リリアンだけが不慣れな手つきであっちに行ったりこっちに戻ったりで、運針が迷子になってしまう。きっと裏側はごちゃごちゃになっているだろう。

 図案の線をなぞるように刺しているのに、いびつで、でこぼこで、悲しいじょうきょうだ。


「俺に何かして欲しいことはありますか?」

「そうね、沢山ありますが……こうして刺繍に時々付き合って貰えるだけで十分なの。ごめんなさいね」


 デミオンとイーディスは会話をしながらも、手を休めない。特にデミオンはもう既に二枚完成させているので、三枚目にとつにゅうしている。うそのような現実だ。


「それは残念です。義母は際限なく要求してくる方だったので、世の女性は皆そうだと思っていました」


 際限なくという単語が、リリアンをびびらせる。どうも彼の女性観がゆがんでいそうでおそろしい。


ままとはいえ、嫡男をオールワークスメイド代わりにしてる人の価値観は、つうじゃないんだけど。でも、彼にはそれが当たり前だったのかな)

「王女殿でんは求めてこなかったのですか?」


 手を止め、ふとリリアンはたずねていた。

 あの綺麗なおひめ様はどうだったのだろう。ふわふわの可愛いと綺麗ばかりを集めたような王女様。彼女はこんなに何もかもできる人が婚約者ならば、たっぷりとお願いしたのだろうか。


「あのお方は……」


 デミオンがしょうする。


「そもそも俺をお気に召してはいませんから。ご用意したものは全てお好みにかなったようでしたが、王女殿下にとっては誰が贈ったかが、とても気になったのでしょう。つまらぬ男の贈り物が、気にいる品ではいけないんですよ。だから、別の誰かである必要があったのでしょう」


 確かに、贈り物がないと言っていた。しかし本当は、贈ったがデミオンの名では届かなかったということであり、デミオンの名で贈られたものは決して受け取らなかったという意味でもあるのか。とんでもないこうだ。


(デミオン様じゃいやだなんて、酷い)


 きっと同じことが何度も、何度もあったのだろう。贈っても、ありがとうを言われない贈り物。別の誰かからだと、すりえられてしまう贈り物。感謝が絶対欲しいとは言わないが、お礼の言葉を願うのは浅ましいだろうか。たった一言、ありがとうを望むのはぎょうが悪いことだろうか。


(わたしなら嫌になってしまう。かえされるのなら、それはもう嫌がらせだよ。きらいなら受け取らなければいいのに、もらうだけもらって、そんな風にするなんてあり得ない!)


 それでいて、可哀かわいそうな自分と思える神経がもっとあり得ない。


「リリアン嬢も、俺にあまり求めてはくれませんね。何でも叶えてあげますと言ったのに」

「わたしはマカロンタワーを作ってもらいましたし、デミオン様は何かと甘いものを作ってくれるので、それ以上望みません。欲張りはおごりの元なのです」


 言ってから、リリアンは少し考える。彼は何を望んでいるのだろう。

 リリアンが考えている間、デミオンはまた一枚刺繍を仕上げていた。真っ白なハンカチに刺されたのは、同じ真っ白な刺繍。凄いのは、レース編みのような模様になっているところだ。

 編んでもいないのに、レースそのもののような刺繍。リリアンは初めて見た。なんて綺麗なのだろう。


「では、こちらのハンカチはどうでしょうか? 受け取ってもらえますか」


 さらに彼が付け加える。


「俺の刺したものと、リリアン嬢の刺しているものをこうかんしませんか?」

「え、で、でも……わたし刺繍は苦手で、デミオン様よりも下手ですから……」

「全てを完璧に出来る人間なんていませんよ。俺は誰かに刺してもらったハンカチを貰ったことがないんです。だから俺の初めては、リリアン嬢、貴女に叶えて欲しいです」


 差し出されたハンカチは本当に美しい。こんなにも綺麗なのに、彼はありがとうを今までもらえなかった。いいや、それだけじゃない。彼はありがとうを伝える機会もなかったのだ。


(それはとてもさびしいことだよ)


 だからリリアンは、心のままを言葉にする。しみなんて、もったいないことをす

るものかと言葉をつむぐ。


「ありがとうございます! デミオン様、こんなに美しいハンカチ、わたし生まれて初めて拝見しました! 凄いです、この刺繍の技法も初めて目にするものです」


 わざとらしいかもしれないが、噓でもちょうでもない。彼の刺繍は美しく、素晴らしい。

 称賛は正当なものだ。そして誰かが刺したハンカチを貰った機会がなかったならば、今から作ればいいだけだ。


「では、デミオン様も……わたしの刺したハンカチを受け取ってくださいね。わたし必ず完成させて、貴方あなたにお渡しします! 約束ですから。絶対のお約束です!」


 だからリリアンは、下手くそでもハンカチをデミオンにプレゼントする。望みが叶うことの嬉しさを彼へ贈りたい。誰もが知っている気持ちを、そうして知って欲しい。

 リリアンがこの世界で両親に教えて貰ったように、この世の素敵なことを伝えたい。まだまだ知らないことを教えてあげたいと思う。それぐらいリリアンにとって彼が大切な存在だと伝わることを願う。


「ありがとうございます、リリアン嬢。約束を……楽しみにしています」

「あらあら、ふたりはとても仲良しさんね。わたしも嬉しいわ」


 イーディスの笑い声でリリアンはハッとする。しまった、ここはふたりきりではない。

 イーディスがいた。ずかしくてたまらないとしゅうほおが染まるむすめを見ながら、母が助け船を出す。デミオンへ新たな話題を振ってくれる。


「デミオン様は本当に凄いのね。同じ言葉の繰り返しになってしまうのだけど、その刺繍、見事なものね。見覚えがあるわ、とてもめずらしい刺繍でしたので。確か北西部にあるという、とある地方の伝統的なものではなくて?」

「伯爵夫人のおっしゃる通りです。北西部の一部の方が今でも続けられている、伝統的な刺繍です。カットワークが非常にせんさいで、本物のレースと変わらないんです。最初にこの技法

を生み出した方は天才ですね」


 最初に刺した刺繍を指でなぞりながら、彼はつぶやく。その眼差しは少しだけ眩しいものを見つめているようだ。


「何かを生み出すのは、俺が想像するよりもずっとほうもないことなんでしょうね」

「ええ、余人には思いもつかぬ苦労があったはずですわ。今日は素敵な作品の拝見が叶って、嬉しい日ね」


 リリアンは渡されたハンカチを改めて見る。このハンカチはリリアンが思っている以上の価値があるのだろう。

 リリアンの目に映るのは、とても美しいレースのごとき刺繍だ。リリアンのへっぽこな刺繍とは似ても似つかない、本職レベルのもの。さらに貴重な伝統技法で刺されているらしい。


(でも、どんなものだろうとデミオン様が贈ってくれたハンカチだからね。これはわたしの宝物!)


 そこには市場価値も関係ない。自分を思い相手が贈ってくれた、手作りの品物ということで十分だ。

 ほこほこした気持ちでリリアンはハンカチをたたむ。これに見合うものにはならないが、自分の気持ちをめたしゅうを刺さなくてはと、頑張りたくなってしまうのだ。

 そうこうしている間も刺繍の時間は続いた。デミオンは違うタイプの刺繍を開始していた。今度は落ち着いた色使いながらも、絵画のような作品らしい。

 サイズは小さいが、かざっておきたいほどがらが素晴らしい。デミオンは絵をえがいても一角の才能がありそうだ。ばんのうかもしれないとリリアンがほこらしげに思っていると、イーディスがゆっくりと口を開いた。


「リリアン。貴女は、秋になれば大聖堂で行われる刺繍展で、ここ数年ずっとさいゆうしゅうしょうに選ばれている方を覚えているかしら?」

「……お母様。わたし、そちらは存じておりません」


 大聖堂とは、せいれい王の聖域を守る場所。もしくはしんこうのための建物だ。精霊は人の前に姿をはっきり現さない。人が見ることを許されているのは、その身かられ出る光のみ。

 あわい光のかたまりだとされている。そのため、大聖堂にはきょだいな美しいサンキャッチャーが飾られている。そして、大貴族や王族のかんこんそうさいに使われる場所でもある。

 その大聖堂の刺繍展はリリアンも知っていた。毎年行われており、国中の刺繍まん

方々の素晴らしい作品がせいぞろいするもよおしだ。見応えがあり、入賞作品は圧巻である。

 本来は精霊王に捧げるためのもの。けれども、いっぱん公開されるようになり、人々の投票が行われるようになったと聞く。最優秀賞に選ばれた作品は大聖堂で公開された後、一年間大聖堂の特別な場所に飾られるらしい。

 とにかく、とてもめいなこと。

 だがリリアンは刺繍展に興味がなく、受賞者のことなど全く覚えていない。イーディスはその様子に、ニコリとした。これは良くない方のニコリだ。


「貴女はこんだからと、少し甘やかしてしまったわね。たとえ刺繍が苦手でも、こういうことは覚えておくものです。いえ、むしろ苦手だからこそ覚えておくのですよ。大聖堂の刺繍展は大変名誉なこともあって、貴族のご婦人方も沢山参加されています。どれがどなたの作品なのか、どのような作品なのか、それだけでも頭に入れておきなさい」

「はい」

「婚姻後の社交で、困ることになるのは貴女自身なの」


 そう、貴婦人の教養で名誉であるならば、それは大事な話題。誰もが覚えていて当然のことになる。まして、刺繍はこいびと、婚約者、家族といった近しい相手に贈ったりもする。

これは貴族以外でも同じ。身分を問わずして、共有できる話題のひとつだ。


「ここ数年の最優秀賞は、俺の義母であるライニガーこうしゃくじんの作品ですよ、リリアン嬢」


 それに、リリアンはきょとんとする。


「そうなのよ。もう六年にもなるかしら、ずっとライニガー侯爵夫人が最優秀賞なの。リリアンもきっと見たことがあるわ。それはもう見事としか言いようがない作品なのよ」

「あの……お母様。それは、その」

「侯爵夫人の作品に関しては、大変心ない噂があるの。誰が言い出したのか分からないわ。でもそれによると、侯爵夫人が別の人に命じて作らせたんじゃないかっていう話よ」

「そうなんですか、伯爵夫人?」


 デミオンがごく当たり前のように尋ねている。対してイーディスはおもしろそうだ。


「仕方がないの。ライニガー侯爵夫人は、刺繍に関する話題をふっても答えられないのだとか。刺繍を大変好まれるご婦人方の会があるのだけど、何度侯爵夫人をご招待しても無視されるんですって。先々代のおう陛下のお声がかりでできた伝統ある会ですのに、残念なことよ」

「お母様、その会では何をするのですか?」

「あら、刺繍愛好家の会よ。決まってるじゃない、皆さんで刺繍を楽しむのよ」


 つまり、公開実演する会なのだ。それは出席できないだろう。リリアンの予想通りならば。


「義母がたまにめんどうなことになる理由が分かりました。お礼の代わりにひとつお伝えします。今回、侯爵夫人は出展できないかもしれませんね」


「まあ……お気の毒」

「もしかしたら、今から頑張るかもしれませんが……」

「あら、夫人はいつも大作を用意されてるから、なかなか厳しいんじゃないかしら」

「刺し手が多ければ、間に合うんじゃないでしょうか」

「ではどんな作品ができあがるのか、楽しみにしているわ」


 ホホホとふふふが重なり合う。リリアンはちまちま針を進めながら、今年の刺繍展の波乱を思った。


(いやー、もう、怖いわー)


 一部のご婦人方からハブられているのではないだろうか、侯爵夫人。


(わたし、もうちょっと刺繍をていねいにしよう。下手だけど将来のわたしのためにも、これは絶対必要な技術だ)


 その後さらに一時間ほどしてから、やっと刺繍から解放された。テーブルに広げられていた刺繍道具を片付けて、メイドがお茶の支度をしてくれる。


「リリアン、今からふたつほど真面目な話をするわ」

「はい、お母様」


 改まってイーディスが言うので、リリアンも背筋をばす。


「お父様は貴女に伝えないように言っていましたが、わたしは伝えた方が良いと判断しました。落ち着いて聞いてほしいの。実は本日午後より、ホール伯爵家の方が先日の婚約破棄の件で、我が家においでになってます」


 では、きっと彼も来ているのだろう。


「我が家はホール伯爵家とは婚約以外につながりがありません。特に今回の場合は話し合いに当事者同士、顔を合わせる必要もありません。とはいえ、屋敷内ではち合わせるのも好ましくありません。ですから、貴女を刺繍にさそいました」


「ありがとうございます、お母様」

「もう一点は貴女だけではなく、デミオン様、貴方にも関係することです。当家へ、チルコットこうしゃく家から手紙が届きました」

「王太子殿でんのご実家ですね」

「ええ、デミオン様。ですが、中には王太子殿下と王太子妃殿下からのふうしょが二通ありました。多分、デミオン様の現状を考え公爵家の名を使ったのでしょう」

「俺のしゅうしゃくに関する話でしょうか?」

「王太子殿下からの手紙はそうかもしれませんね。こちらに手紙が。どうぞご確認ください」


 イーディスがデミオンにきんぶちのあるふうとうを渡す。くっきりと型押しされているのは王家のエムブレムだ。


「王太子妃殿下からの手紙は、リリアン、貴女への非公式のお誘いよ」

「わ、わたし……ですか?」

「ええ」

「王太子妃殿下は、きっとリリアン嬢へ何かお話があるのでしょうね。多分王女殿下のことだと思われます。俺が覚えている通りでしたら、サスキア王太子妃殿下はアリーシャ王女殿下と仲がよくなかったはずですから」


 王太子妃殿下は、正直遠くからしか見たことがないが、王太子殿下と同じようなきんぱつに、古き良き美人といった顔立ちをした方だ。王女殿下のようなふわふわさはない。


「そこでね、リリアン」


 また良くない笑顔のイーディスにリリアンはきんちょうする。


「王太子妃殿下に折角お誘いいただいたのだから、良い機会です。約束まで半月ほどあります。それまでにマナーを総ざらいしましょう。不敬となってはいけませんもの」

「そ、そうでしょうか」

「そうですよ、リリアン。デミオン様もその間、バーク先生に定期的に診察してもらいます」


 なんてことだ。断るわけにも、とうぼうするわけにもいかない。


「分かりました、お母様」


 そう答えつつも、リリアンの心は不安一色だ。それしかない。


「リリアン嬢、当日は俺も登城します。ちゅうまではエスコートできますから、大丈夫です。サスキア王太子妃殿下はほがらかな方です、ご安心ください」

「ありがとうございます、デミオン様」


 婿殿の気遣いに言葉を返しつつ、やはりゆううつさはぬぐえないリリアンだった。

 迎えに来てくれた侍女のジルを連れて、リリアンは先に部屋を後にする。デミオンは刺繍に関してイーディスに相談があるらしい。婿殿としゅうとめの関係が良好でリリアンはほっとする。

 リリアンは今の家族の素晴らしさを、改めて思う。ホール伯爵やアランとはちわせするのをイーディスは心配してくれたし、ロナルドはそもそも訪問を秘密にしてくれた。娘として、自分はとても愛されている。

 親に愛されて暮らすということが、どうしてみんなに平等におとずれないのだろう。前世の記憶も、もっと普通の親のところが良かったと思えるものばかりだ。親は子どもを選べず、子は親を選べない。子どもを欲しくないという親がいれば、どれだけ努力してもめぐまれない親もいる。デミオンもそのひとり……。

 ろうを歩きながら、リリアンは窓を見る。ささくれだった心には自然の緑がいやしになるかもしれない。


「ジル、わたし庭が見たいわ」

「では、がさをご用意しませんと。今すぐにお持ちいたします。少々お待ちください」

「ありがとう」

「リリアンお嬢様こそ、以前のように勝手に庭へ出られないようお願いします」

「……はい」


 ジルに忠告されて、リリアンはうなずく。日傘をさしてしずしず歩くのはとてもれいじょうらしいのだけど、リリアンは苦手だ。あちこちけて行ってしまいたくなる。多分、前世の感覚が残っているからだ。

 リリアンは庭へと続くテラスで、大人しくジルを待つ。

 伯爵家の庭は、青々とした木々と手入れされた花々が季節をおうしていた。夏から秋まで、我が家の庭は一番美しい時を迎える。

 日差しに強いポーチュラカの小さな黄色の花弁の群れに、細長いラッパ型のアガパンサスの青が見事な対比になっていた。かげとなる場所では百合ゆりき、アーチ型に整えられたつるも満開だ。特に貴族の庭では百合を植えるのが定番である。

 この世界では百合も薔薇も青や緑、黄色が標準だ。まれに赤っぽい薔薇もある。ただ真っ赤な百合だけは見たことがない。品種として存在しないのか、聞いたことがない。天候や季節、じょうの違いではないのだ。一部の花木は信仰する存在にえいきょうされるらしい。そ

を誰もが不思議に思わないのも、ここが前とは違う世界だと感じるところだ。

 例えば純白の百合は、精霊王のでる花であるという言い伝えがある。そのいつにちなんで、婚約者やふうで贈り合う精石のそうしょく品のモチーフとしても白百合は好まれる。

 そして伝説上の花でもあり、実物を見ることはまずない。大聖堂の聖域にゆいいつ現存し、真っ白な花を咲かせているのだと秘めやかに語られるのみだ。


「……げっ!」


 手すりに手を当て、リリアンはしゅくじょらしからぬ声を出してしまった。何度も目をしばたたき、ちがいではないかと確かめる。しかしそうではない。まぼろしでもない。

 一瞬迷ってしまったのが悪かったのだ。庭を見回していた相手と、目が合ってしまう。


(うそ!)


 ジルは日傘を取りに行ってまだ戻ってきていない。つまり、今ここには自分しかいないのだ。逃げるべきだろう。

 けれども、相手の方がばやい。おおまたでこちらへたどり着いたアランに声をけられる。


「こんなところにいたんだ。何処どこにいるのかとさがしたんだよ」


 にやついた顔が、リリアンのどうようかしているようだった。けれどもそうだとさと

れたくはない。リリアンは小さく呼吸を整え、振り返った。

 できるだけ落ち着いた声を出す。しんしゃあつかいしたい気持ちをおさえ込んだ。


「こんにちは、アラン卿。迷われましたか? お帰りはあちらですので、案内の者を呼びますね」

「君は相変わらず、可愛げが欠けてるね。婚約者にもこの対応だなんて」

「アラン卿、元が抜けておりますよ」

「そういうところだよ。全く、可愛いマリアとは大違いだな」


 リリアンは声をあららげない分別がある自分に感謝した。それからゆっくりと息を吸い、そっとく。


(大丈夫……わたしは泣かないって決めたんだから)


 アランの顔が意地悪そうに歪む。可哀想といわんばかりの表情で、けれども湧き上がる喜びを隠そうともしない。いやしい口元が、ゆうえつ感をよだれのようにたっぷりと垂らしていた。


「君、今度は王女殿下に捨てられた相手と婚約するんだって? 婚約された者同士で、さぞ気が合うんだろうね。僕が破棄してしまったから、可哀想な身の上を心配してたんだ。おめでとう!」

「お祝いの言葉、ありがとうございます」


 満面の笑みは社交用の作り物。

 こめかみに青すじひとつ立てないのが、れんな淑女のマナー。涙なんて、彼にはもったいない。もし泣いたとしても良いことなどまるでないのだとリリアンにも分かる。それでも胸が痛い。まだ心がズキズキするのは、初めての恋だったからだろうか。


「しかし、本当に残念だ。あんなすぼらしい男を婿むこにしたら、この家はぼつらくするんじゃないかい」

「ご心配にはおよびません」

「僕はつい昨日、次期ライニガー侯爵閣下とお近づきになってね、大変有益な話をしたばかりなんだよ」

「はあ……良かったですね」


 アランは鼻高々。それはそうだろう。こちらはそこにじょせきされた嫡男を婿に貰うのだ。

 マウントをとるならば最高の話題になる。


(……馬鹿みたい)


 それは自分と元婚約者、どちらにも言える言葉だった。婚約を破棄されたしゅんかん、リリアンはどうしようもないほど悲しかった。いわれた内容がショックだった。自分という人間が、アランに愛されないことで全否定された気持ちでいたのだ。

 けれども、今は違う。

 痛む箇所はあるが、それでもあの時とは異なる。こんな言動をする人が好きだったのかと、別の意味でショックなのだ。同時に自分がどれほどおろかだったかが見えてくる。


(優しい人だなんて、とんだかんちがいだったよ)


 寧ろ、恥ずかしくて情けなくて、穴をって隠れてしまいたい気分だ。好きになるにしては、しょうもない相手すぎる。


「リリアンお嬢様!」

「ジル」


 振り返れば、日傘を手にジルが駆けてくる。すぐかばえるように彼女はさっとリリアンのわきに立つ。緊張したおもちだ。

 彼女はリリアンより年上で、身長も高い。普通の女性よりも高いので、実はアランよりも僅かに高く、たのもしい。


「ジル、彼はホール伯爵家の方です。当家の庭で迷われたみたいなの」

「……では、ご案内いたします」

「おいおい、僕とかんだん中だろ? 侍女を使って逃げるつもりか!」


 逃げるも何も、そもそもリリアンにはアランと話す理由がない。けれども、彼には理由があるらしい。


「大体、今日だって僕にあいさつがないのはおかしいだろ? あの日だって、勝手にいなくなるなど失礼じゃないかな。マリアが話を聞いて貰えなかったって、悲しんでたんだよ。僕のマリアを泣かすのはやめてくれないか」


 それは、リリアンが悪いことなのだろうか。悲しみも引っ込むほどの無理難題に、リリアンは冷静になる。

「わたしには話すことなどありません」

「何だい、その目つきは? 婚約してたころは、もっと可愛かったのに……君のそういうところがなってないって、今僕は言ってるんだ!」


 その時だ。

 手をたたく音が、リリアンとジルの後ろからひびく。テラスへの入り口からだ。

 派手な音が二度三度と繰り返された。


「聞くにえない発言なので、思わずさえぎってしまいました。婚約を破棄したと聞いていますが、そういう姿は見苦しいのではありませんか?」


 品の良い声の持ち主はおだやかに語りながらも、その唇はうっすらとちょうしょうを描いていた。


(……デミオン様)


 リリアンはぜんとしたが、アランも同時に驚いている。思ってもみなかったのだろう。

 誰ひとりとして声を上げぬ中、彼は近づいてくる。ゆるりと歩みを進める様はゆうの一言にきる。どこかの大広間の夜会で、輝くシャンデリアの下につどう高貴な存在に相応しい。

 その足元は板張りであるはずなのに、いろしきものげんしてしまう。

 彼は不遇ではあったが、確かに侯爵家嫡男だったのだ。あの大貴族ライニガー侯爵家に似つかわしい品がある。ただ歩くだけの姿でも、ここにいる者たちとは格が違う。今までは王女殿下という輝きに隠されていたのだろう。


「女性をこわだかに責め立てるのは、感心しませんね。必要以上に相手をおびえさせるつもりですか?」

 自然な仕草でジルと入れ替わり、リリアンのそばにデミオンが立つ。何かを言付けたのか、侍女が屋敷へと走っていく。


「……そうか、君がライニガー侯爵家のはじさらしで有名な男だね」

「お見知りおきを、元婚約者殿どの。ですが、彼女は俺の婚約者なので、過ぎた言動は品性に欠けると思った方がいい」


 それから、デミオンがちらりとリリアンにみを向ける。絵に描いたように優しいそれは、誰もが思い浮かべる婚約者の理想の姿、そのものだ。

 リリアンは小さく彼に瞬きを送り、頷く代わりとした。

 それにしても、デミオンはアランへと向けた軽いしゃくですら美しい。深海の色の瞳を細め、彼はてんな笑みをなす。彼の所作は完璧で、かみ一本からつま先まで全てを完全に己の支配下にしているよう。そうして、寸分のくるいもない動きを見せつける。

 誰が本当の貴族なのかと知らしめているのだ。


「似合わぬ服を着たどうのくせに、僕に対してずいぶんな態度だな」


 アランがありったけのまんを込めて、相手を見る。正直、てきが悔しい。そうなのだ、デミオンの服はまだロナルドのもの。


(明日、明日絶対てる!)

 

 そう心にちかうリリアンだ。

 なにしろデミオンは長身。あしばつぐんに長い。本当に長い。普通に立っただけで、アランより視線が高くなってしまう。

 だからこそのけんせいなのだろう。しかしデミオンも負けるつもりはないらしい。


「ホール伯爵家の方にしては、随分とあらあらしい物言いですね。それでは爵位が泣きましょう。もう少し、身分に相応しい言葉を選んではどうですか? 時と場所をわきまえよとは、俺のマナーの教師がよく言っていた言葉なんです」

「はは……何だいその言い草は? はいちゃくどころか除籍された身で、僕にそんな態度が許されると思っているのか」

「さて? こちらはカンネール伯爵家の庭園ですよ。ホール伯爵家そく様は、どうやら自分の屋敷だと勘違いされているようですね。一度、てもらったほうがよろしいので

は?」


 分かりやすい嫌味にアランの顔が見る間に赤くなり、手がプルプルとふるえ出す。彼でも暴力が良くないことくらいは分かっているのだろう。基本貴族はえる生き物である。

 みだりに感情的になっては、物事が見えなくなってしまう。そうなればたやす易く足をすくわれる。それが社交界でもある。


(まあ、貴族に限ったことじゃないけど。この世界にだって師はいるし、用心するに

したことはないしね)


 人生の落とし穴なんて、生きる世界が変わっても消えたりしないもの。危機感はどこにいようが最高の自衛手段だ。


「……貴族ではないくせに、その態度が許されると思っているのか! ああ、君は自分の卑しい立場が分からないほど馬鹿なのだろうな。あわれなものだね」

「卑しさを存じないのは、きょうではありませんか? 俺はあいにくと今は鏡を持っていません。申し訳ありませんね、卿へ正しいにんしきをお伝えしたくとも、そのお姿を映してあげられないようだ」

「お前!」

「別れた女性にすがろうなど、みっともないことこの上ありませんよ。それとも不貞を働いたご身分でリリアン嬢のことを見下しても良いとお思いではありませんよね?」


 デミオンが一歩前に出る。

 そうすると、余計アランとの身長差がハッキリしてしまう。アランにも分かるのだろう、めたおくきしみが、こちらにも聞こえてきそうだ。

 デミオンがのぞき込むようにして、彼にささやく。いいや、覚えの悪い生徒へ優しくさとす家庭教師のよう。


「若くて可愛らしい方を選んだというなら、それで卿はまんすべきだ。欲張った犬が川に肉を落とすようなものです。えるべき場所を間違えれば、くわえたご馳走すら失いますよ。子ども向けのぐうの定番でしょう。それとも、卿はものがたりに聞かせてもらえませんでしたか?」

「何の話かな?」

「伯爵家の次男なんて、嫡男の代わりの部品で、末子のように愛でられる人形にもなり得ない。その程度の愛情すらもらえなかった、哀れな方かと思いまして」

「ふざけるなっ!」

「デミオン様!」


 アランの拳がデミオンへと向かう。直後、リリアンの叫びが庭に響いた。

 目の前でデミオンが倒れた。ドッと床が揺れる。

 余程強かったのか、それとも慣れていなかったのか。自らの勢いのまま、アランは足をもつれさせた。デミオンへ馬乗りになるかのように倒れたアランの様子にリリアンはあと退ずさりした。


「これは一体、何事だ!」


 計ったかのようなタイミングで駆けつけてくれたのは、使用人を連れてやって来たロナルド、その人だった。


「ちが、違う! 僕は何もしていない!」

「お父様、デミオン様がホール伯爵令息になぐられたのです。暴力を振るうなんて信じられない。酷いわ……」


 なみだごえで、リリアンはふらつきながらロナルドに報告する。一目見てじょうきょうを理解したロナルドの顔は、いつになく険しい。


「ジル、リリアンに付いていてくれ。他の者はデミオン卿を助けるように。誰か、すぐにバーク先生にれんらくをしなさい」

「やめろ! さわるな! 僕は何もしてないんだ!」


 我が家の使用人たちが、アランの下からデミオンを助けだす。その間、アランは何度もちがうと叫ぶばかり。けれども、ロナルドの彼を見る目は冷たい。表情にも、いつもの柔らかさが全くなかった。

 後ろを振り返り、追いついただろうアランの父親に問う。


「ホール伯爵、御子息にはどのような教育をされています? 他者へ暴力を振るい、しかも随分と我が屋敷内をさまよ徨ったようだ。常識では考えられませんよ」

「これは、何らかの手違いがあったと……。アラン、お前部屋を出てから何をしていたんだ!」

「父上、これは誤解なんです。そもそも、僕はあの男にハメられたんだ! コイツです! 王女殿下に捨てられ、貴族でもなくなったやつが僕に生意気なことを言い、えらそうな態度をとるから悪いんだ!」


 むすの言い分にも一理あると思ったのか。それとも、夏の宴のさわぎを覚えているのか。

 おそらく後者だろう。ホール伯爵がまじまじと、デミオンを見る。

 爵位もない、実家から捨てられた若造ならば上手いことせると思っているのだ。

 でもそんなわけがない、彼が殴られ損なことをするとは思えない。

 デミオンに駆け寄り、リリアンはかいほうをする。そうして、ふと気がついたように金縁の封筒をわざとらしくかかげてみせた。


「デミオン様、とても大切なお手紙が落ちてますわ。殴られた際に、落としてしまったのね」


 途端、ホール伯爵の顔色が変わる。封筒の意味に気がついたらしい。カメレオンよりも素早い変色だ。デミオンがつい最近まで誰と婚約し、ゆえにどういった方の覚えがあるのかしっかり思い出してくれた。


「……こ、この大馬鹿者! ……カンネール伯爵、このたびの件、内密のものとして欲しい。

後日、改めて謝罪させてくれ。このそくは我が家できちんとばつあたえる。約束しよう!」


 それから、思いついたように付け加えた。


「そうそう、先ほどの話し合いだが、金額を上乗せさせて欲しい。御息女には、愚息が大変な失礼を働いた。その気持ちを受け取って欲しいのだ」

「……娘へのじょくに金額など付けられるものではないが、感情的になってしまってはどこかの暴力者と変わらない。日を改めてまた話し合いましょうか、ホール伯爵。ただし、御子息は抜きにしてくれ。娘にも、二度と近づいてもらいたくはないね」

もちろん、大切な御息女に愚息を近づけさせません。しばらくは外に出さないようにします。アラン、分かったな。お前はきんしんだ。そのどうしようもないしょうを反省しろ!」

「……そんな」


 暴れるのもやめて、ぼうぜんとするアラン。へたりと座り込む。足の力も抜けてしまったのか。


「全く、お前には失望した。顔も見たくない! 我が家に傷をつけおって……この失態どうするつもりだ」


 顔をせたまま、元婚約者殿は言い訳すら失っていた。

 男性の使用人にかたを貸してもらい、デミオンは彼自身の部屋として使っている客室に行く。


「そこので構わない。ありがとう」


 殴られたせいで足元がおぼつかないのだろう、ゆっくりと彼は椅子に座る。


「バーク先生がおいでになったら、すぐに案内をお願いね」


 立ち去る使用人にそう伝え、リリアンは振り返る。ひかえているジルは信用できる侍女なので、これから何を話そうとも他言しないだろう。椅子にもたれ、ぐったりとしていた当人はもういつもの状態だ。ケロッとし、のんにその長い足を組んでいる。


「リリアン嬢、心配してくれて俺は嬉しいですよ」

「……びっくりしたんですよ? その、はないのですか? 演技だとしても、デミオ

ン様は倒れたのですから」


 リリアンも彼と向かい合う形で、間にテーブルをはさみ椅子に座った。

 そう、あれはデミオンのこんしんの演技だ。殴られる瞬間に合わせて、転んでみせたのだ。

 ジルを使い父をしょうかんしたのも彼だ。娘の危機を伝えられ、ロナルドはきっとすぐ動いたはず。体格のいい男性の使用人を引き連れて、テラスへ向かったに違いない。タイミングはぴったりで、最高の瞬間を見せられた。


「俺のことなら大丈夫です。拳がぶつかる前に倒れましたから、アラン卿自身が一番良く分かっていると思いますね。あまりに手応えがないからこそ、自分はやっていないと声高に主張してくれた。彼が正直者で助かりました」


 微笑みは上品だが、やることはえげつない。でも、リリアンもこうかいはしていない。途中でデミオンの芝居がかった様子に気がつき話を合わせにいったのだ。デミオンがわざと落とした手紙もきちんと見つけ、求められた役を演じた。ただあの使い方、不敬にならないか心配だ。


(いや、デミオンを助けることになったのだから、王太子殿下だって、何も言わないはず!)

「ですが、よく彼が手を出すと、分かりましたね」


 それがなければ、絶対に成り立たない計画だ。示し合わせてもいないのに、丁度良くできた。これを器用ですませていいのか、たまたま運が良かったのか。さてどちらだろう。


「彼の家族や、貴女との関係はカンネール伯爵に聞いていました。リリアン嬢も、彼との破談は急な話だったのでしょう。ならば、きっとアラン卿は普段からそれほどではないし、外面も良い方だ」


 確かに、あのこんやくがなければ我が家の婿になっていただろう。ロナルドもイーディスも彼に対して特に何か言っていたように見えない。


「けれども、彼はリリアン嬢からりの良いだんしゃくれいじょうえたと聞きました。……どうしてだと思います?」

「若くてお金持ちだからでしょう。あとわたしはいまいちだったようです」


 デミオンが少し悲しげになる。


「俺は、貴女につらいことを言わせてしまいましたね」

「気にしてません。わたしの想像も入ってますが、一部は事実ですし」


 実際、そう面と向かって言われたわけではない。容姿についてはほぼ言われたようなものだが、若さとお金に関してはこちらの推測だ。


「より良いものがあればそれが婚約者であっても、いえ……だからこそですね。彼は替えた。つまり手っ取り早い底上げです。アラン卿はそんなことをするような人間というわけだ。彼は自身よりも他者の価値に相乗りするタイプなのでしょう」


 つまり、カンネール伯爵家の婿という地位よりも、金持ちのスコット男爵家の方が価値があると判断したのだ。

 デミオンが足を組み替え、説明してくれる。


「俺の経験則ですが、おこりやすい人には幾つか種類があります。婚約をえんかつに続けられたのですから、そう短気でもない。では、どうやったら怒るのか。底上げするような人は、自分に自信がない場合があります。だから言葉で誤魔化そうとする、他で補おうとする……婚約者なんてぴったりでしょう」


 表情はいつも通り穏やかであるのに、その声が随分冷たく思えてリリアンは一瞬耳を疑う。ごろのデミオンとは違うふんだ。

 いいや、彼も貴族なのだからこういう面を持ち合わせていても不思議ではない。特に大貴族の嫡男だったのだ。そう理解しても、やはり常の優しいだけの彼との違いにまどう。


「どこでも貴族の次男なんてものは、たいがいあとぎの控えであるところが大きい。そして、上に問題がなければ家を出なければならない。アラン卿もそうだ。誤魔化し続けた痛い箇所を突かれれば、彼は怒る。己を守るために怒る人は珍しくない。そんなところです」


 ああ、それはリリアンも知っている。

 こうげきこそ最大のぼうぎょだと。リリアンが知るこのフレーズは、前世のゲームで出てきたが、現実の人間にも当てはまるのだろう。

 痛いのは嫌だから、じょうに反応してしまう。その一瞬の間、理性ではなく本能がきっと体を動かしているのだろう。叩かれると思って目をつぶる子どもと同じで、アランは身構えてしまったのだ。

 デミオンがひざの上で手を組む。


「……俺の性格が思ったよりも悪くて――リリアン嬢は後悔していますか?」


 晴天の下のいだ海のごとき静かな声だった。同時に、これからあらしが来るまえれを感じてしまう。

 微かに感じる緊張はリリアン自身のものなのか、彼のものなのか区別が付かない。動けば、空気の壊れる音がしてしまうのではと、さっかくする。

 しかしリリアンは躊躇ためらいをはらうかのごとく、はっきりと告げた。


「それはありません。驚きはしましたが……頼もしかったです。婚約者とはっきり言って貰えて、嬉しくも思っています」

「俺とリリアン嬢は、契約結婚する仲ですからね」

「ですが、口にする必要はありませんよ」


 リリアンの言葉に、彼は首を振る。


「それは……貴女に対して不誠実だ。伯爵夫妻に守ると俺は言ったのですから」

「では、わたしはデミオン様に感謝しかありません。ありがとうございます、デミオン様!」

「……かなわないな」

「え?」


 何かが聞こえた気がしてリリアンは彼を見つめ直すが、今度こそいつもの調子の彼に微笑まれる。聞き間違いだったのだろう。首を傾げつつ、話を続ける。


「……そう、わたし改めて考えたんです。やっぱりお父様の服はないなと。いつなんくせをつけられてもいいよう、デミオン様にはもっと似合う服が必要ですね」

「難癖をつけられるのが、前提なんですね」

「この世の全ての人間に好かれるなんて、無理ですから」


 好きやきらいは、どうしたって起きること。雨のようにぱらぱら降ってくることだ。ならばれるかくかさの準備をすればいい。だからこれぐらいの性格の悪さなんて、ただの生きる力だ。そう思うのは非情なのだろうか。

 面倒な人間と思われれば、危ない人は勝手にこちらを避けてくれる。それも大事なリスクかいの方法。酷いなんて言えるのは、その手の苦労をしたことがないか、知らないだけだ。

 リリアンへ、デミオンがふわりと笑う。


「……リリアン嬢のそういうところ、俺は安心しますよ」

「デミオン様。分かっていてやっていると理解しましたが、それでもお身体には気をつけてください」

「ご心配ありがとうございます。ですがリリアン嬢こそ、気をつけてください。今回のようなことは通常あり得ませんが、用心するに越したことはありません」


 デミオンの言葉に、リリアンもしんみょうに頷く。

「……ええ。本当は気がついた瞬間、逃げたら良かったのですが……目が合ってしまって逃げそびれました」

「リリアン嬢、貴女に何かあればカンネール伯爵も夫人も大変悲しむでしょう。それどころか、きっとこの屋敷に勤めている誰もが悲しみますよ。勿論、俺も」


 それはリリアンにとっても本意ではない。


「次は、次があったならば、完璧に素早く逃げ出してみせます!」


 そのリリアンの意気込みで、何かを悟ったらしいデミオンが少し思案する。それから口を開いた。


「俺の言い方が悪かったようです。……どうか、リリアン嬢。俺が助けるまで無茶をしないでください」

「ええっと……善処します」


 とはいえ、どこからどこまでが無茶のはんに入るのか、リリアンにもさっぱり分からない。じょうきょうだいなので、果たして何がセーフになるのか。

 上手く答えられず考え込むリリアンに、やはりデミオンが何かを察したらしい。軽く息を吐く。


「デミオン様?」

「そこが、貴女の良いところでもあるのでしょうね。それに……多分リリアン嬢のそういうところ、嫌いじゃないんです。楽しい……のかな」

「楽しい……ですか?」

「ええ、俺の知る人間にはリリアン嬢のような方がいなかったので。……リリアン嬢、貴女のためなら大概のことは俺がなんとかしますから、ご安心を」


 彼は有言実行タイプらしいので、これも彼が出来ることなのだろう。けれどもリリアンは引っかかる。何が気になるのか、考えてしまう。


(アランに言った……あの言葉)


 アランを煽るために告げた言葉の、幾つが彼の真実なのだろう。あれはただの煽り文句ではない。次男でなくとも家を回す歯車になれるし、誰もが親に愛でられるとは限らない。

 読み聞かせをしてくれる誰かがいるのは、世の当たり前ではない。そこにだって、ようしゃない選別がある。

 あの言葉が有効だと思ったのは、彼だって嫌だからではないのか。あれは彼自身の話でもあるのでは、と考えてしまう。


(全部が彼にも当てはまる。だからわたしは、あんなことを言わせてはいけないんだ)


 それだけは二度とするまいと、リリアンはそっと誓いを立てた。




========================



「その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます!

 ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました」 

 ≪試し読みはここまで!≫



お読みいただき、誠にありがとうございました♪


\新作/

1月15日発売のビーズログ文庫

「その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます!

 ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました」

(氷山三真 イラスト/萩原 凛)


をご覧ください!!


詳しくは、ビーズログ文庫の公式サイトへ♪

(※カクヨムの公式連載ページTOPからもとべます!)


https://bslogbunko.com/product/sonokonyakusha/322309000604.html

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます! ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました 氷山 三真/ビーズログ文庫 @bslog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る