2-2
ちくちく、ちくちく。本日は針と糸とお友達になる日。リリアンはひたすらちくちくしている。
が、その
「ふふ、デミオン様は刺繍が本当にお上手なのね」
「カンネール伯爵
今日は刺繍をしましょうとイーディスに強制されたのだ。貴族の女性は刺繍が教養のひとつだから、できないよりもできた方がいい。ただ、人には得手不得手があり、リリアンは後者だった。
「男性なのに、刺繍もこんなにお上手だなんて。デミオン様は本当に何でもできるのね」
「父に、何でもできないと嫡男に
「あら、でも本当に何でもおできになるなんて、やはり素晴らしいわ」
そう、語るまでもないがデミオンは刺繍の
(あの……、それが標準装備の速度なのですか?)
リリアンは初めて目にするデミオンの技術に、目が
イーディスもそれなりの腕前なので、的確に図案通り綺麗な糸で
図案の線をなぞるように刺しているのに、
「俺に何かして欲しいことはありますか?」
「そうね、沢山ありますが……こうして刺繍に時々付き合って貰えるだけで十分なの。ごめんなさいね」
デミオンとイーディスは会話をしながらも、手を休めない。特にデミオンはもう既に二枚完成させているので、三枚目に
「それは残念です。義母は際限なく要求してくる方だったので、世の女性は皆そうだと思っていました」
際限なくという単語が、リリアンをびびらせる。どうも彼の女性観が
(
「王女
手を止め、ふとリリアンは
あの綺麗なお
「あのお方は……」
デミオンが
「そもそも俺をお気に召してはいませんから。ご用意したものは全てお好みに
確かに、贈り物がないと言っていた。しかし本当は、贈ったがデミオンの名では届かなかったということであり、デミオンの名で贈られたものは決して受け取らなかったという意味でもあるのか。とんでもない
(デミオン様じゃ
きっと同じことが何度も、何度もあったのだろう。贈っても、ありがとうを言われない贈り物。別の誰かからだと、すり
(わたしなら嫌になってしまう。
それでいて、
「リリアン嬢も、俺にあまり求めてはくれませんね。何でも叶えてあげますと言ったのに」
「わたしはマカロンタワーを作ってもらいましたし、デミオン様は何かと甘いものを作ってくれるので、それ以上望みません。欲張りは
言ってから、リリアンは少し考える。彼は何を望んでいるのだろう。
リリアンが考えている間、デミオンはまた一枚刺繍を仕上げていた。真っ白なハンカチに刺されたのは、同じ真っ白な刺繍。凄いのは、レース編みのような模様になっているところだ。
編んでもいないのに、レースそのもののような刺繍。リリアンは初めて見た。なんて綺麗なのだろう。
「では、こちらのハンカチはどうでしょうか? 受け取ってもらえますか」
さらに彼が付け加える。
「俺の刺したものと、リリアン嬢の刺しているものを
「え、で、でも……わたし刺繍は苦手で、デミオン様よりも下手ですから……」
「全てを完璧に出来る人間なんていませんよ。俺は誰かに刺してもらったハンカチを貰ったことがないんです。だから俺の初めては、リリアン嬢、貴女に叶えて欲しいです」
差し出されたハンカチは本当に美しい。こんなにも綺麗なのに、彼はありがとうを今までもらえなかった。いいや、それだけじゃない。彼はありがとうを伝える機会もなかったのだ。
(それはとても
だからリリアンは、心のままを言葉にする。
るものかと言葉を
「ありがとうございます! デミオン様、こんなに美しいハンカチ、わたし生まれて初めて拝見しました! 凄いです、この刺繍の技法も初めて目にするものです」
わざとらしいかもしれないが、噓でも
称賛は正当なものだ。そして誰かが刺したハンカチを貰った機会がなかったならば、今から作ればいいだけだ。
「では、デミオン様も……わたしの刺したハンカチを受け取ってくださいね。わたし必ず完成させて、
だからリリアンは、下手くそでもハンカチをデミオンにプレゼントする。望みが叶うことの嬉しさを彼へ贈りたい。誰もが知っている気持ちを、そうして知って欲しい。
リリアンがこの世界で両親に教えて貰ったように、この世の素敵なことを伝えたい。まだまだ知らないことを教えてあげたいと思う。それぐらいリリアンにとって彼が大切な存在だと伝わることを願う。
「ありがとうございます、リリアン嬢。約束を……楽しみにしています」
「あらあら、ふたりはとても仲良しさんね。わたしも嬉しいわ」
イーディスの笑い声でリリアンはハッとする。しまった、ここはふたりきりではない。
イーディスがいた。
「デミオン様は本当に凄いのね。同じ言葉の繰り返しになってしまうのだけど、その刺繍、見事なものね。見覚えがあるわ、とても
「伯爵夫人の
を生み出した方は天才ですね」
最初に刺した刺繍を指でなぞりながら、彼は
「何かを生み出すのは、俺が想像するよりもずっと
「ええ、余人には思いもつかぬ苦労があったはずですわ。今日は素敵な作品の拝見が叶って、嬉しい日ね」
リリアンは渡されたハンカチを改めて見る。このハンカチはリリアンが思っている以上の価値があるのだろう。
リリアンの目に映るのは、とても美しいレースの
(でも、どんなものだろうとデミオン様が贈ってくれたハンカチだからね。これはわたしの宝物!)
そこには市場価値も関係ない。自分を思い相手が贈ってくれた、手作りの品物ということで十分だ。
ほこほこした気持ちでリリアンはハンカチを
そうこうしている間も刺繍の時間は続いた。デミオンは違うタイプの刺繍を開始していた。今度は落ち着いた色使いながらも、絵画のような作品らしい。
サイズは小さいが、
「リリアン。貴女は、秋になれば大聖堂で行われる刺繍展で、ここ数年ずっと
「……お母様。わたし、そちらは存じておりません」
大聖堂とは、
その大聖堂の刺繍展はリリアンも知っていた。毎年行われており、国中の刺繍
方々の素晴らしい作品が
本来は精霊王に捧げるためのもの。けれども、
とにかく、とても
だがリリアンは刺繍展に興味がなく、受賞者のことなど全く覚えていない。イーディスはその様子に、ニコリとした。これは良くない方のニコリだ。
「貴女は
「はい」
「婚姻後の社交で、困ることになるのは貴女自身なの」
そう、貴婦人の教養で名誉であるならば、それは大事な話題。誰もが覚えていて当然のことになる。まして、刺繍は
これは貴族以外でも同じ。身分を問わずして、共有できる話題のひとつだ。
「ここ数年の最優秀賞は、俺の義母であるライニガー
それに、リリアンはきょとんとする。
「そうなのよ。もう六年にもなるかしら、ずっとライニガー侯爵夫人が最優秀賞なの。リリアンもきっと見たことがあるわ。それはもう見事としか言いようがない作品なのよ」
「あの……お母様。それは、その」
「侯爵夫人の作品に関しては、大変心ない噂があるの。誰が言い出したのか分からないわ。でもそれによると、侯爵夫人が別の人に命じて作らせたんじゃないかっていう話よ」
「そうなんですか、伯爵夫人?」
デミオンがごく当たり前のように尋ねている。対してイーディスは
「仕方がないの。ライニガー侯爵夫人は、刺繍に関する話題をふっても答えられないのだとか。刺繍を大変好まれるご婦人方の会があるのだけど、何度侯爵夫人をご招待しても無視されるんですって。先々代の
「お母様、その会では何をするのですか?」
「あら、刺繍愛好家の会よ。決まってるじゃない、皆さんで刺繍を楽しむのよ」
つまり、公開実演する会なのだ。それは出席できないだろう。リリアンの予想通りならば。
「義母がたまに
「まあ……お気の毒」
「もしかしたら、今から頑張るかもしれませんが……」
「あら、夫人はいつも大作を用意されてるから、なかなか厳しいんじゃないかしら」
「刺し手が多ければ、間に合うんじゃないでしょうか」
「ではどんな作品ができあがるのか、楽しみにしているわ」
ホホホとふふふが重なり合う。リリアンはちまちま針を進めながら、今年の刺繍展の波乱を思った。
(いやー、もう、怖いわー)
一部のご婦人方からハブられているのではないだろうか、侯爵夫人。
(わたし、もうちょっと刺繍を
その後さらに一時間ほどしてから、やっと刺繍から解放された。テーブルに広げられていた刺繍道具を片付けて、メイドがお茶の支度をしてくれる。
「リリアン、今からふたつほど真面目な話をするわ」
「はい、お母様」
改まってイーディスが言うので、リリアンも背筋を
「お父様は貴女に伝えないように言っていましたが、わたしは伝えた方が良いと判断しました。落ち着いて聞いてほしいの。実は本日午後より、ホール伯爵家の方が先日の婚約破棄の件で、我が家においでになってます」
では、きっと彼も来ているのだろう。
「我が家はホール伯爵家とは婚約以外に
「ありがとうございます、お母様」
「もう一点は貴女だけではなく、デミオン様、貴方にも関係することです。当家へ、チルコット
「王太子
「ええ、デミオン様。ですが、中には王太子殿下と王太子妃殿下からの
「俺の
「王太子殿下からの手紙はそうかもしれませんね。こちらに手紙が。どうぞご確認ください」
イーディスがデミオンに
「王太子妃殿下からの手紙は、リリアン、貴女への非公式のお誘いよ」
「わ、わたし……ですか?」
「ええ」
「王太子妃殿下は、きっとリリアン嬢へ何かお話があるのでしょうね。多分王女殿下のことだと思われます。俺が覚えている通りでしたら、サスキア王太子妃殿下はアリーシャ王女殿下と仲がよくなかったはずですから」
王太子妃殿下は、正直遠くからしか見たことがないが、王太子殿下と同じような
「そこでね、リリアン」
また良くない笑顔のイーディスにリリアンは
「王太子妃殿下に折角お誘いいただいたのだから、良い機会です。約束まで半月ほどあります。それまでにマナーを総ざらいしましょう。不敬となってはいけませんもの」
「そ、そうでしょうか」
「そうですよ、リリアン。デミオン様もその間、バーク先生に定期的に診察してもらいます」
なんてことだ。断るわけにも、
「分かりました、お母様」
そう答えつつも、リリアンの心は不安一色だ。それしかない。
「リリアン嬢、当日は俺も登城します。
「ありがとうございます、デミオン様」
婿殿の気遣いに言葉を返しつつ、やはり
迎えに来てくれた侍女のジルを連れて、リリアンは先に部屋を後にする。デミオンは刺繍に関してイーディスに相談があるらしい。婿殿と
リリアンは今の家族の素晴らしさを、改めて思う。ホール伯爵やアランと
親に愛されて暮らすということが、どうしてみんなに平等に
「ジル、わたし庭が見たいわ」
「では、
「ありがとう」
「リリアンお嬢様こそ、以前のように勝手に庭へ出られないようお願いします」
「……はい」
ジルに忠告されて、リリアンは
リリアンは庭へと続くテラスで、大人しくジルを待つ。
伯爵家の庭は、青々とした木々と手入れされた花々が季節を
日差しに強いポーチュラカの小さな黄色の花弁の群れに、細長いラッパ型のアガパンサスの青が見事な対比になっていた。
この世界では百合も薔薇も青や緑、黄色が標準だ。
を誰もが不思議に思わないのも、ここが前とは違う世界だと感じるところだ。
例えば純白の百合は、精霊王の
そして伝説上の花でもあり、実物を見ることはまずない。大聖堂の聖域に
「……げっ!」
手すりに手を当て、リリアンは
一瞬迷ってしまったのが悪かったのだ。庭を見回していた相手と、目が合ってしまう。
(うそ!)
ジルは日傘を取りに行ってまだ戻ってきていない。つまり、今ここには自分しかいないのだ。逃げるべきだろう。
けれども、相手の方が
「こんなところにいたんだ。
にやついた顔が、リリアンの
れたくはない。リリアンは小さく呼吸を整え、振り返った。
できるだけ落ち着いた声を出す。
「こんにちは、アラン卿。迷われましたか? お帰りはあちらですので、案内の者を呼びますね」
「君は相変わらず、可愛げが欠けてるね。婚約者にもこの対応だなんて」
「アラン卿、元が抜けておりますよ」
「そういうところだよ。全く、可愛いマリアとは大違いだな」
リリアンは声を
(大丈夫……わたしは泣かないって決めたんだから)
アランの顔が意地悪そうに歪む。可哀想といわんばかりの表情で、けれども湧き上がる喜びを隠そうともしない。
「君、今度は王女殿下に捨てられた相手と婚約するんだって? 婚約
「お祝いの言葉、ありがとうございます」
満面の笑みは社交用の作り物。
こめかみに青すじひとつ立てないのが、
「しかし、本当に残念だ。あんな
「ご心配には
「僕はつい昨日、次期ライニガー侯爵閣下とお近づきになってね、大変有益な話をしたばかりなんだよ」
「はあ……良かったですね」
アランは鼻高々。それはそうだろう。こちらはそこに
マウントをとるならば最高の話題になる。
(……馬鹿みたい)
それは自分と元婚約者、どちらにも言える言葉だった。婚約を破棄された
けれども、今は違う。
痛む箇所はあるが、それでもあの時とは異なる。こんな言動をする人が好きだったのかと、別の意味でショックなのだ。同時に自分がどれほど
(優しい人だなんて、とんだ
寧ろ、恥ずかしくて情けなくて、穴を
「リリアンお嬢様!」
「ジル」
振り返れば、日傘を手にジルが駆けてくる。すぐ
彼女はリリアンより年上で、身長も高い。普通の女性よりも高いので、実はアランよりも僅かに高く、
「ジル、彼はホール伯爵家の方です。当家の庭で迷われたみたいなの」
「……では、ご案内いたします」
「おいおい、僕と
逃げるも何も、そもそもリリアンにはアランと話す理由がない。けれども、彼には理由があるらしい。
「大体、今日だって僕に
それは、リリアンが悪いことなのだろうか。悲しみも引っ込むほどの無理難題に、リリアンは冷静になる。
「わたしには話すことなどありません」
「何だい、その目つきは? 婚約してた
その時だ。
手を
派手な音が二度三度と繰り返された。
「聞くに
品の良い声の持ち主は
(……デミオン様)
リリアンは
誰ひとりとして声を上げぬ中、彼は近づいてくる。ゆるりと歩みを進める様は
その足元は板張りであるはずなのに、
彼は不遇ではあったが、確かに侯爵家嫡男だったのだ。あの大貴族ライニガー侯爵家に似つかわしい品がある。ただ歩くだけの姿でも、ここにいる者たちとは格が違う。今までは王女殿下という輝きに隠されていたのだろう。
「女性を
自然な仕草でジルと入れ替わり、リリアンの
「……そうか、君がライニガー侯爵家の
「お見知りおきを、元婚約者
それから、デミオンがちらりとリリアンに
リリアンは小さく彼に瞬きを送り、頷く代わりとした。
それにしても、デミオンはアランへと向けた軽い
誰が本当の貴族なのかと知らしめているのだ。
「似合わぬ服を着た
アランがありったけの
(明日、明日絶対
そう心に
なにしろデミオンは長身。
だからこその
「ホール伯爵家の方にしては、随分と
「はは……何だいその言い草は?
「さて? こちらはカンネール伯爵家の庭園ですよ。ホール伯爵家
は?」
分かりやすい嫌味にアランの顔が見る間に赤くなり、手がプルプルと
みだりに感情的になっては、物事が見えなくなってしまう。そうなれば
(まあ、貴族に限ったことじゃないけど。この世界にだって
人生の落とし穴なんて、生きる世界が変わっても消えたりしないもの。危機感はどこにいようが最高の自衛手段だ。
「……貴族ではないくせに、その態度が許されると思っているのか! ああ、君は自分の卑しい立場が分からないほど馬鹿なのだろうな。
「卑しさを存じないのは、
「お前!」
「別れた女性に
デミオンが一歩前に出る。
そうすると、余計アランとの身長差がハッキリしてしまう。アランにも分かるのだろう、
デミオンが
「若くて可愛らしい方を選んだというなら、それで卿は
「何の話かな?」
「伯爵家の次男なんて、嫡男の代わりの部品で、末子のように愛でられる人形にもなり得ない。その程度の愛情すらもらえなかった、哀れな方かと思いまして」
「ふざけるなっ!」
「デミオン様!」
アランの拳がデミオンへと向かう。直後、リリアンの叫びが庭に響いた。
目の前でデミオンが倒れた。ドッと床が揺れる。
余程強かったのか、それとも慣れていなかったのか。自らの勢いのまま、アランは足をもつれさせた。デミオンへ馬乗りになるかのように倒れたアランの様子にリリアンは
「これは一体、何事だ!」
計ったかのようなタイミングで駆けつけてくれたのは、使用人を連れてやって来たロナルド、その人だった。
「ちが、違う! 僕は何もしていない!」
「お父様、デミオン様がホール伯爵令息に
「ジル、リリアンに付いていてくれ。他の者はデミオン卿を助けるように。誰か、すぐにバーク先生に
「やめろ!
我が家の使用人たちが、アランの下からデミオンを助けだす。その間、アランは何度も
後ろを振り返り、追いついただろうアランの父親に問う。
「ホール伯爵、御子息にはどのような教育をされています? 他者へ暴力を振るい、しかも随分と我が屋敷内を
「これは、何らかの手違いがあったと……。アラン、お前部屋を出てから何をしていたんだ!」
「父上、これは誤解なんです。そもそも、僕はあの男にハメられたんだ! コイツです! 王女殿下に捨てられ、貴族でもなくなった
おそらく後者だろう。ホール伯爵がまじまじと、デミオンを見る。
爵位もない、実家から捨てられた若造ならば上手いこと
でもそんなわけがない、彼が殴られ損なことをするとは思えない。
デミオンに駆け寄り、リリアンは
「デミオン様、とても大切なお手紙が落ちてますわ。殴られた際に、落としてしまったのね」
途端、ホール伯爵の顔色が変わる。封筒の意味に気がついたらしい。カメレオンよりも素早い変色だ。デミオンがつい最近まで誰と婚約し、
「……こ、この大馬鹿者! ……カンネール伯爵、この
後日、改めて謝罪させてくれ。この
それから、思いついたように付け加えた。
「そうそう、先ほどの話し合いだが、
「……娘への
「
「……そんな」
暴れるのもやめて、
「全く、お前には失望した。顔も見たくない! 我が家に傷をつけおって……この失態どうするつもりだ」
顔を
男性の使用人に
「そこの
殴られたせいで足元がおぼつかないのだろう、ゆっくりと彼は椅子に座る。
「バーク先生がおいでになったら、すぐに案内をお願いね」
立ち去る使用人にそう伝え、リリアンは振り返る。
「リリアン嬢、心配してくれて俺は嬉しいですよ」
「……びっくりしたんですよ? その、
ン様は倒れたのですから」
リリアンも彼と向かい合う形で、間にテーブルを
そう、あれはデミオンの
ジルを使い父を
「俺のことなら大丈夫です。拳がぶつかる前に倒れましたから、アラン卿自身が一番良く分かっていると思いますね。あまりに手応えがないからこそ、自分はやっていないと声高に主張してくれた。彼が正直者で助かりました」
微笑みは上品だが、やることはえげつない。でも、リリアンも
(いや、デミオンを助けることになったのだから、王太子殿下だって、何も言わないはず!)
「ですが、よく彼が手を出すと、分かりましたね」
それがなければ、絶対に成り立たない計画だ。示し合わせてもいないのに、丁度良くできた。これを器用ですませていいのか、たまたま運が良かったのか。さてどちらだろう。
「彼の家族や、貴女との関係はカンネール伯爵に聞いていました。リリアン嬢も、彼との破談は急な話だったのでしょう。ならば、きっとアラン卿は普段からそれほど
確かに、あの
「けれども、彼はリリアン嬢から
「若くてお金持ちだからでしょう。あとわたしはいまいちだったようです」
デミオンが少し悲しげになる。
「俺は、貴女に
「気にしてません。わたしの想像も入ってますが、一部は事実ですし」
実際、そう面と向かって言われたわけではない。容姿についてはほぼ言われたようなものだが、若さとお金に関してはこちらの推測だ。
「より良いものがあればそれが婚約者であっても、いえ……だからこそですね。彼は替えた。つまり手っ取り早い底上げです。アラン卿はそんなことをするような人間というわけだ。彼は自身よりも他者の価値に相乗りするタイプなのでしょう」
つまり、カンネール伯爵家の婿という地位よりも、金持ちのスコット男爵家の方が価値があると判断したのだ。
デミオンが足を組み替え、説明してくれる。
「俺の経験則ですが、
表情はいつも通り穏やかであるのに、その声が随分冷たく思えてリリアンは一瞬耳を疑う。
いいや、彼も貴族なのだからこういう面を持ち合わせていても不思議ではない。特に大貴族の嫡男だったのだ。そう理解しても、やはり常の優しいだけの彼との違いに
「どこでも貴族の次男なんてものは、
ああ、それはリリアンも知っている。
痛いのは嫌だから、
デミオンが
「……俺の性格が思ったよりも悪くて――リリアン嬢は後悔していますか?」
晴天の下の
微かに感じる緊張はリリアン自身のものなのか、彼のものなのか区別が付かない。動けば、空気の壊れる音がしてしまうのではと、
しかしリリアンは
「それはありません。驚きはしましたが……頼もしかったです。婚約者とはっきり言って貰えて、嬉しくも思っています」
「俺とリリアン嬢は、契約結婚する仲ですからね」
「ですが、口にする必要はありませんよ」
リリアンの言葉に、彼は首を振る。
「それは……貴女に対して不誠実だ。伯爵夫妻に守ると俺は言ったのですから」
「では、わたしはデミオン様に感謝しかありません。ありがとうございます、デミオン様!」
「……
「え?」
何かが聞こえた気がしてリリアンは彼を見つめ直すが、今度こそいつもの調子の彼に微笑まれる。聞き間違いだったのだろう。首を傾げつつ、話を続ける。
「……そう、わたし改めて考えたんです。やっぱりお父様の服はないなと。いつ
「難癖をつけられるのが、前提なんですね」
「この世の全ての人間に好かれるなんて、無理ですから」
好きや
面倒な人間と思われれば、危ない人は勝手にこちらを避けてくれる。それも大事なリスク
リリアンへ、デミオンがふわりと笑う。
「……リリアン嬢のそういうところ、俺は安心しますよ」
「デミオン様。分かっていてやっていると理解しましたが、それでもお身体には気をつけてください」
「ご心配ありがとうございます。ですがリリアン嬢こそ、気をつけてください。今回のようなことは通常あり得ませんが、用心するに越したことはありません」
デミオンの言葉に、リリアンも
「……ええ。本当は気がついた瞬間、逃げたら良かったのですが……目が合ってしまって逃げそびれました」
「リリアン嬢、貴女に何かあればカンネール伯爵も夫人も大変悲しむでしょう。それどころか、きっとこの屋敷に勤めている誰もが悲しみますよ。勿論、俺も」
それはリリアンにとっても本意ではない。
「次は、次があったならば、完璧に素早く逃げ出してみせます!」
そのリリアンの意気込みで、何かを悟ったらしいデミオンが少し思案する。それから口を開いた。
「俺の言い方が悪かったようです。……どうか、リリアン嬢。俺が助けるまで無茶をしないでください」
「ええっと……善処します」
とはいえ、どこからどこまでが無茶の
上手く答えられず考え込むリリアンに、やはりデミオンが何かを察したらしい。軽く息を吐く。
「デミオン様?」
「そこが、貴女の良いところでもあるのでしょうね。それに……多分リリアン嬢のそういうところ、嫌いじゃないんです。楽しい……のかな」
「楽しい……ですか?」
「ええ、俺の知る人間にはリリアン嬢のような方がいなかったので。……リリアン嬢、貴女のためなら大概のことは俺がなんとかしますから、ご安心を」
彼は有言実行タイプらしいので、これも彼が出来ることなのだろう。けれどもリリアンは引っかかる。何が気になるのか、考えてしまう。
(アランに言った……あの言葉)
アランを煽るために告げた言葉の、幾つが彼の真実なのだろう。あれはただの煽り文句ではない。次男でなくとも家を回す歯車になれるし、誰もが親に愛でられるとは限らない。
読み聞かせをしてくれる誰かがいるのは、世の当たり前ではない。そこにだって、
あの言葉が有効だと思ったのは、彼だって嫌だからではないのか。あれは彼自身の話でもあるのでは、と考えてしまう。
(全部が彼にも当てはまる。だからわたしは、あんなことを言わせてはいけないんだ)
それだけは二度とするまいと、リリアンはそっと誓いを立てた。
========================
「その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます!
ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました」
≪試し読みはここまで!≫
お読みいただき、誠にありがとうございました♪
\新作/
1月15日発売のビーズログ文庫
「その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます!
ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました」
(氷山三真 イラスト/萩原 凛)
をご覧ください!!
詳しくは、ビーズログ文庫の公式サイトへ♪
(※カクヨムの公式連載ページTOPからもとべます!)
https://bslogbunko.com/product/sonokonyakusha/322309000604.html
その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます! ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりました 氷山 三真/ビーズログ文庫 @bslog
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。その婚約者、いらないのでしたらわたしがもらいます! ずたぼろ令息が天下無双の旦那様になりましたの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます