第二章 社畜系婚約者の導き方

2-1


(ごめんなさい、謝ります。わたし、ドアマット系ヒロイン属性、正直めてました。本当にごめんなさい!)


 まだぼけていた頭が、一気にシャキンとする。ジルに起こされたリリアンは、実はいつもの朝よりも早い目覚めだ。その自分よりも早いだろう彼は、いつから起きていたのだろう。聞くのがこわい。


「デミオン様は……その、いつお目覚めになりましたか?」

「俺ですか? 俺はずかしながら、本日は日がのぼってからのしょうです。だんは日が昇る前に起きるのですが、今朝はゆっくりできました」

「ひ、日が昇る前……」


 ヒュンと息をむ。


(それ、早くないですか? 明らかに早いですよね?)


 リリアンは思わず背後のジルを見る。彼女は主の気持ちをんだのか、頭を縦にるば

かり。


(ほら、やっぱり早すぎる!)

「デミオン様! わたしは昨夜、ゆっくりたっぷりお休みくださいと伝えたと思うのですが……おぼうしても良かったんですよ」

「ええ、ですから俺は寝坊させてもらいました。でもカンネールはくしゃく家の建物は、普段かられいにされているんですね。そうするのに、それほど時間がかからなかったです」


 さらに微笑ほほえんで彼は教えてくれる。このいっしゅん、少し可愛かわいいかも、と思ったリリアンの油断を彼がく。


「カンネール伯爵家は掃除用具もらしいですね。このほうきも、モップも、チリ取りも、新品のようです! 節約のためこうしゃく家の道具は少々使い勝手が悪く、ぞうきんは穴があったりはねぼうきも羽根がしんが目立つようになったりしていたので、使いやすさに感激しました」

「我が家の掃除用具をめていただき、まことにありがとうございます」

「備品の保管をしっかりされていて、伯爵家にお勤めのみなさまは素晴らしいです。俺も見習いたいです」


 きらきらお目々がなおな子どものよう。本当に感心しているようだ。


(いや、そうじゃない! 突っ込むべきはどこだ? 全てだよ!)


 ライニガー侯爵家の掃除用具の状態も気になるが、問題はそこではない。


「この掃除用具、手入れを終えましたら俺がきちんと元の場所に返しておきます」


 そんなデミオンの背後も右も左も、てんじょうからゆかまでぺかぺかにみがかれている。日々、掃除をしてくれるハウスメイドの仕事もきっちりしているが、本日はそれ以上。まるで新築のおしきのようだ。

 なんということでしょう! 朝日がやたらとまぶしいのは、気のせいではなかったらしい。

しかし、ぼくな疑問がさっきからて止まらない。


「ちょっと、待ってください! あ、あの、デミオン様、普段はどれだけ寝ていますか? わたし八時間すいみんをお約束しましたよね、ちがえて、五時間ですよ! なんて、伝えてませんよね!!」


「ええ、リリアンじょうは八時間と言ってくれましたが、俺は身体がとてもじょうなんです。三時間の睡眠で十分ですよ」

(いや、ダメでしょう!) 


 その短時間で何とかなったのは、若さという時限ほうの仕業だ。しかも後でツケが来るタイプか。リリアンは前世のネットで知っている。そういう人こそ、早死にしてしまうのだ。かつて、好きなまん家さんが早世したのでこれはイケナイ状態だと分かる。大好きな大好きなきゅうけつ漫画が未完で終わった時の絶望を思うと、リリアンは今でもなみだで視界がにじみそうだ。転生しても、そのショックだけはおくに残っている。


 じとりと、リリアンはデミオンを見た。


「……リリアン嬢?」

「デミオン様は、わたしをにするおつもりですか? まだこんいんどころか婚約手続きも終えてませんのに、わたしをのこしてアルカジアの門をくぐり、いと高きてんきゅうゆりかごかえるだなんて許しません!」


 アルカジアは理想郷を指す。

 たましいあんねいが約束された場所。この国では、くなった者はそこへ還るという。前世の天国やごくらくみたいな所か。だから遺族はみな、失われた家族が無事還れることを願っている。

 そんな天国へ早々にお送りするなんて、絶対にしたくはない。彼は自分といっしょに大往生してもらう予定なのだ。子どもと孫に囲まれて、良き人生でしたと思い返しながらきたい。


「決して、そんなことを俺は望んでいません。俺は本当に丈夫なんです。何でもできなければ、侯爵家の長子として恥ずかしいと言われてきましたから」

「掃除ができない貴族の長子は、世にたくさんいますよ」


 リリアンもそのひとりである。しかしだれからも非難された覚えはない。それどころか、この国の貴族のちゃくなんは皆同じ状態だろう。


「その……リリアン嬢を悲しませたいわけではないんです。俺は喜んでしくて、俺のできることをしたまでです」

「分かりました。わたしもデミオン様と同じ時間にきするようにします! こんやく者ですもの、お手伝いしましょう」

「だ、です! そんなこと、リリアン嬢がする必要はありません」

「あら、どうしてですか?」

「リリアン嬢がたおれてしまいます。病気になってしまうのでは?」


 それはそうである。だが、誰もが同じだということを知らないのだろうか。リリアンが病気になるならば、当然デミオンにもその可能性がある。


「デミオン様、わたしも同じ気持ちなのです。デミオン様自身がいくら身体が丈夫と言っていても、倒れてしまうのではないかと心配します。不安になります。それに、人は休むべき時は休むべきなのです」

「……分かりました、リリアン嬢。では思い切って、五時間寝るようにします」


 そのしんけんな顔にほだされそうになるが、リリアンは無言で頭を振る。ここで甘やかしては、いつまでも不健康なままだ。


「八時間ですよ、デミオン様! ぼっち夫人、ダメ、絶対です!」

「はい、俺は貴女あなたを寡婦にいたしません!」

「とにかくデミオン様。二度寝しましょう!!」

「……もうひと働きしなくて良いんですか? せんたく、俺は得意ですよ! シーツもドレスも、何でも、俺は綺麗にできます!」


 リリアンは無言でデミオンの手をにぎり――たん恥じらわれたが――彼用の客室へ一直線。

 掃除用具のへんきゃくしぶった彼をなだめ、ジルが呼んだハウスメイドたちに後を任せる。

 その時、屋敷のへんぼうぶりと掃除のぼんなテクニックに、ハウスメイドたちのすうはいまなしがデミオンへと注がれたことも付け加えておく。


(……確かに、吃驚びっくりするよね。ここは先祖代々の屋敷なのに、いきなり新築同然にピカピカよ)


 知らぬ間に、調度品からつぼや絵画までこうにゅう時のかがやきをもどしている。おそるべし、ドアマット属性。


「お洗濯も、うちのランドリーメイドが行いますから、デミオン様の出番はありません!」

「……ですが、俺は得意なんですよ? み抜きは一番得意なので、侯爵家でもよくしていました。自分の服は自分で手入れするよう、言われてましたし」


 何てことだ。あの日、あの夜、あの部屋で見たふるくさいペラペラしょうすら、デミオン本人が綺麗に洗濯していたなんて。誰が思うだろう、誰が想像できるか。ちょっとリリアンは気が遠くなる。それに気がつかないまま、デミオンは自己アピールに熱心だ。


「俺が洗濯をすると、綺麗によごれが落ちるだけではなくかわきも早いんです! いい具合に風がいてくれて、天気も洗濯日和びよりになりやすいんです!」

「それは、つまり……晴れ男ということですか?」

「ハレ男? 不勉強で意味が分かりませんが、リネン類の大物も俺にお任せください!」

「いいえ、お任せしません!!」

「……リリアン嬢」


 少しリリアンも慣れてきた。しょぼくれた顔をしているが、彼を甘やかすと自然にぐうルートへまっしぐら。健全な生活から逆走してしまう。そのため、絶対に話に乗ってはいけない。

「さあ、お部屋に着きました。すぐに二度寝といきたいですが、まずはお食事が先です。なので、その前にえてください。わたしが後からおむかえに来ますから、げてもダメです!」

「……そうですか」


 デミオンの普段の服として、ロナルドのものをわたしているので、それに着替えてもらう。

 ただロナルドより彼の方が足が長く、寸足らずなのがごめんなさいだ。くやしがっているロナルドには悪いが、まだ見ぬ孫の足長確定を喜んで欲しい。


「お父様の服をお貸ししたのに、昨夜の服のままなのですね」

「伯爵のおもので、掃除するわけにはいきません。俺の服ならまた洗えばいいですし」

「いいえ、またこのようなことをするのでしたら、そちらはぼっしゅうします」

「そうですか」


 しかし、ここでめげないのがいところ。いや、ダメなところか。デミオンはおきあがりこぼしのように、七回転んでも八回起き上がれる男なので、リリアンを見つめ無言でうったえる。

 彼のひとみは何度も何度も染めたような、光も届かない深海のような色だ。もしくは、やみの海の色だろうか。じゅうけつの方はおさまり、リリアンは少し安心する。でもまだクマは消えてくれない。早くそれもなくしてしまいたい。


「俺は料理も得意なんですよ」

「料理はうちの料理長のトニーが、美味おいしいものを作ってくれます。だいじょうですよ」

「では、昼を俺がお作りしましょう。焼きやケーキも得意です。甘いもの、リリアン嬢もお好きでしょう?」


 少し首をかしげてかすかに微笑むのを、今すぐやめて欲しい。デミオンはご自分の顔面を知っているのか。やつれてクマもあるが、元来顔は整っているのだ。自分よりもまつげが長いの

ではと、気がつかなくて良いことに気がついたリリアンは、わずかにダメージを受けてしまう。


「侯爵家ではディナーのメインディッシュも作っていました。義母は食に気まぐれで、急に食べたいメニューを言い出すんです」


 それはなんともはためいわくな話。


「だから、俺が代わりに作っていました。料理人にめられると困りますし。ただ、俺はひとりしかいませんから……複数人いたなら、良かったのですがね」


 いや、全然良くない。発想がおかしなことになっている。


「これでも俺、きゅうてい料理並みのものも作れますし、昨夜のうたげのメニューもいくつか再現できるんです。俺は食べたら味も見た目も再現できますから。リリアン嬢も、食べられなかったものがあるのではありませんか?」


 そこで、つい想像してしまったリリアンの敗北なのだろう。何しろ仕方がない。デザートはこうりょく。ケーキは別腹が標準装備なのだから、許して欲しい。

 王家しゅさいの宴は流石さすが王家様ばんばんざい! と言わしめる、すごく美味しいデザートがそろっていることでも有名だ。しかも女の子は砂糖でできていると、前世の少女漫画でも言っていた。つまり、けられない定めなのだ。


「ねえ、リリアン嬢。俺だけには教えてくれませんか? 凄く欲しいもの……あるでしょう」


 気がついた時には、デミオンが顔を近づけていた。せっぷんをするほど近くはないが、若い男女では危ないきょだ。

 どうしようと思うリリアンに、彼が首を傾げる。


「俺が何でもかなえてあげますよ」


 昨夜も感じたような、やわらかい声がリリアンを包んだ。

 甘い甘いゆうわくは、おとの好物をほう彿ふつとさせる。リリアンの理性をゆうかいさせ、底にかくされた欲望にさぶりをかける。まるで魔性の声だ。


(ダメなんじゃなかろうか? 否、もうダメだ。ダメに決まっている!)

「……わたし、マカロンタワーが」


 そこで、実は背後にそっと控えていたじょジルの咳払いが発動。リリアンは気がついた。正気に返ったのだ。

 けれども――時すでおそし。

 朝食後、デミオンはリリアンのお願いを大義名分の看板にし、それこそ時代劇のあおいもんのように振りかざしちゅうぼう入りをはたした。としてランチとデザート作りにいそしんだのだ。

 結果、本日のカンネール伯爵家の昼食は、あの王家主催の宴でしか味わえない舌をうならせる宮廷料理と、カラフルで心おどるキュートさばくはつのマカロンタワーと相成った。


「これ、凄いよ。僕はこんなに美味しい料理は初めてだよ。デミオン君、君は大天才なんだね!」

「まあ……これは、あの有名な美食家のフィッツロイ伯爵も大絶賛した料理ではなくて?」


 ロナルドもイーディスもおどろきを隠せない。いえ、我が家の料理長トニーもお見それ致しましたとコックぼういだくらいだ。それはもう、とんでもなく凄いのだろう。


「リリアン嬢、どうです? 俺の料理とデザート、ご満足いただけましたか?」

「……はい、とてもとても美味しいです」


 デミオンはニッコニコだ。


(だけど、そうじゃない。ちがう! そうじゃないのおおおお! あ、明日こそ、……明日こそデミオン様を確実に健康にしてみせる!)


 心の中で、リリアンは完敗にむせびきつつ、美味しすぎる料理とマカロンを味わうのだった。

 かくして欲望に敗北したリリアンだが、二度目はないとおのれに誓う。かたまったデミオンのしゃちく精神を解きほぐそうと、リリアンのめいそう、もとい努力が始まったのだ。

 朝目覚めると、真っ先にかくにんするのがデミオンの居場所。この間は厨房にまぎれ込んでいたし、他の日はアイロン室にいたり、うまやにいたり、しつと一緒に銀食器を磨いたりしていたのだ。

 リリアンは侍女のジルと一緒に、日々デミオンさがしが仕事になりつつある。洗濯をしながらさわやかなあせを流す午前があれば、書庫の本の整理せいとんどころかしゅうぜんまで行っている午後もある。「デミオン様――!」とさけべば窓の外、庭木の上から返事が降ってくる時もあるのだった。

 昨日は、イーディスと仲良くしゅう談義をしながらチクチクしていたし、一昨日はロナルドと古語の現代語訳をやっていた。本日もロナルドのしょさいで、税金関係の書類とにらめっこしていた。「彼凄いよ、一目で計算間違いを見つけたんだよ!」と、ロナルドが手放しでデミオンを褒めていた。イーディスもリリアンよりずっと刺繍が上手うまく、手芸にくわしい彼との会話をとても楽しんでいる。

 両親だけではない。カンネール家の屋敷の者は、大なり小なりデミオンに手伝ってもらい感謝感激している。おじょうさまは素晴らしい婿むこ殿どのを迎えるのだと、うわさするほど。皆に受け入れられて凄く良いことなのだが、おかしい。

 リリアンはデミオンに休息をおくりたかったのに、どこからどう見ても我が家の雑用係になってしまっている。


「お父様もお母様も、デミオン様を使いすぎです! 良いですか、デミオン様はご実家で大変苦労してきたのです、我が家でゆっくりとぬくぬくお休みしてもらう計画だったのに、これでは全然休めてません!!」


 リリアンはついに、食後のお茶の席でぶちまけた。なお、デミオンは手作りのパイを取りに行っている。熱々をごそうしたいとのことで、今は厨房である。


(こ、これでは……けいやくこうでデミオン様に見限られてしまう)


 そう、ふたりは契約けっこんなのだ。契約内容は特に言ってないが、リリアンはデミオンにゆっくり出来る生活と居場所を約束したつもり。契約はたがいに利があるからこそ、意味がある。そうでなければ、ただのさくしゅになってしまう。そして、今がまさにそうではないかと不安になる。己のふがいなさに、こぶしを握ってしまうリリアンだ。


「……まあまあ、リリアン。そういきなり休めと言われても、彼だって困ってしまうよ」

「そうよ。デミオン様を、部屋に閉じ込めるつもりではないのでしょう? 適度に身体を動かすことは悪いことではないと、バーク先生もおっしゃっていたわ」


 先日、ほそったデミオンを心配して、カンネール家おかかえ医のバーク先生にしんさつしてもらったのだ。その結果、本人が言っていた通りとても身体が丈夫らしい。一刻を争うような病も見当たらないと聞いている。


(栄養が足りないのと、まんせい的なろう……それだけだったけど)

「……貴女が心配する気持ちも分かるわ、リリアン。でも彼も、自分の立場を考えているのでしょう」

「デミオン様は……無理しているのですか?」

「そうじゃないと思うよ。だけどほら、リリアンは契約結婚と言って彼を口説いたから、気にしてるんじゃないかな」


 何をと思いかけて、それこそ自分と同じなのだとリリアンは気がつく。契約結婚と言ったのは自分で、彼はそれをりょうしょうした。ならば、彼がこちらに利を差し出すのは当たり前なのだ。


「わたし……そんなつもりで言ったわけではありません」


 リリアンは、しょぼんとしてしまう。

 初めてのこいは、無残にこわれてしまった。ささげた愛はいらないものになった。だから、今度は恋も愛も必要ない関係を選んだのだ。この世にいっぱいある好きの中でも、特別ではない好きで関係を築こうと決めたのだ。


(……それに、デミオン様は苦労してそうだったから、少しでも楽になれば良いと思って)


 灰かぶりみたいだったから、我が家でくつろいで欲しかったのだ。ひどいことを言う相手がいない場所で、ゆっくりして欲しかった。そこには、下心などない。


(でも、デミオン様にはそうじゃなかったんだ……)


 この屋敷でも沢山がんらないといけないと、彼は思い込んでいるのだろうか。そういう風に、自分が仕向けてしまったのだろうか。

 今でこそ、人並みの睡眠時間をとってくれているが、約束したようなおひる日向ひなたぼっこも実現していない。彼はとても働き者で、すき時間があると何かしてしまう質でいつも動き回っている。

 それもこれも、リリアンが契約結婚と言ったからか。

 丁度その時、厨房からデミオンがデザートの焼きたてのパイを持ってきた。ワゴンに載せられた容器から、とても美味しそうな香りがただよってくる。今夜は今がしゅんのベリーたっぷりのパイだ。カップケーキサイズで、リリアンの前世の記憶にあるものとは違うタイプ。

 サクサクの折り込みパイではなく、タルトのような練り込みパイだ。


「どうぞ、皆様。焼き立てで熱いので、お気をつけください。お味は人気店のものを再現したので、ご安心ください」


 配膳までデミオンがしてくれた。ロナルド、イーディスへと運ばれて、最後にリリアンの席に彼が皿を置く。


「リリアン嬢のお口に合うと良いのですが」

「わ、わたし、いつも美味しくいただいています!!」


 思わず、ムキになって言ってしまう。けれども彼は微笑んだだけだ。


「で、デミオン様……」

「はい、何でしょうか?」

「……いつも、いつも、ありがとうございます。わたし、凄く嬉しく思っています。本当にわたし」

「ありがとうございます、リリアン嬢。貴女もですが、伯爵家の皆様はてきな方ばかりですね。誰もが俺へ感謝を示してくれます」


 でも、それは当たり前のことだ。手伝ってもらったら感謝を伝えるべきだと、リリアンとて知っている。リリアンは首を振りたくなる、違うのだと。伝えたいのは、もっともっと大きな気持ちなのだ。そして、申し訳なさ。

 けれども、デミオンを見上げるリリアンに何かを察したのか。

「……わたし」と、開きかけたリリアンのくちびるに、彼が人差し指を立てる。それはもういりませんよと告げるかのごとく、青色の目をしばたたく。


「何かをして、嬉しい顔をしてもらえるのは幸せですよ。少なくとも、舌打ちされるよりはマシだ。したことを喜ばれないよりも、ずっと良いと思っています」


 さあ、熱いうちに召し上がってくださいと言われ、リリアンはやはり首を振る。この人を大事にすると決めたのだ。彼を幸せにするのが、前世の記憶を持つ自分の使命だと思っている。だから、ここで彼のやさしさに折れてはいけない。


「わたしは……嬉しいです。どこかの誰がなんと言おうとも、デミオン様が頑張ってくれていることに、いっぱい感謝しています」


 心の中が見えたらよいのにと、リリアンは思ってしまう。自分のこの胸にあるものを引っ張り出して、彼にさらけ出せられれば簡単なのにと。感謝やありがとうという、数文字で終わってしまう言葉だけではなく、沢山気持ちがまっているのだと、どうやったら伝えられるのだろう。

 そこには、文字通りの意味だけではなく、デミオンを大切にしたい気持ちも入っているのだと、通じているのだろうか。彼の気持ちも教えて欲しいと思う。


「デミオン様……ご無理をなさっていませんか?」


 彼のじょうづかいと優しさは、自分のせいかと考えてしまう。リリアンが言った契約という言葉が彼を不本意にしばっているならば、それは自分の望みとは違う。デミオンにも、そのことを伝えなくてはならない。


「俺がですか? 大丈夫ですよ、いつもよりゆっくり寝てますし、三食美味しい食事がいただけてぜいたくな生活ができてますよ」

「そ、そうですか。でもデミオン様はわたしの婿殿なので、必要以上にお仕事をしなくともいいんです。特に今はかんきょうが変わったので、慣れるまでゆっくりしたほうが、身体にも良いと思うんです」

「リリアン嬢の優しいお気持ち、とても嬉しいです」


 そう返してくれる彼の笑顔が本心からのものなのかも、リリアンにはよく分からなかった。

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