第3話 街角を通る人

 現在、あの小さな池の中のようなチョコレート店のガラス窓にはぼんやりとした輪郭があいまいなココア色の人影が映っています。誰かが窓の近くにいるのではなく、影だけが気泡の浮いた板ガラスに浮かび上がっているのです。理由は跡取り娘と角砂糖売りの二人にありました。


 珈琲店に度々悪魔が訪れるようになったしばらくしたある日、チョコレートを投げつけたいと思っていた跡取り娘が願望を行動に起こしたのです。

 こっそり珈琲店を店番をしながら見張っていた跡取り娘は、角砂糖を投げつけられた悪魔が足早に半地下の階段を上がってくるのに気が付きました。ボブヘアのさらさらの髪を振り乱し、一粒のトリュフチョコを力いっぱいパジャマ姿の悪魔に投げつけました。

 トリュフチョコは悪魔の寝起きの髪に吸い込まれるように消え、悪魔はびっくりした表情で跡取り娘の事を見つめました。

「お嬢さん、何をなさるんです?」

 悪魔はそう言うとチョコレート店にふらふらと近寄り、窓ガラスをしげしげと見ました。

「ここならずっと静かに眠れるだろう」

 悪魔はそう呟くと窓ガラスの中に飛び込みました。跡取り娘は悪魔が飛び込んだ後のガラス窓が水のように波打ったのを確かに見ました。水面の揺らぎがおさまると、そこにはコーヒーで描かれたような影がくっきりと映っていました。まるで板ガラスがその部分だけ、コーヒーゼリーになってしまったかのように、半透明の暗い色が確かにあるのでした。

 

 跡取り娘は困惑しました。自分が正しいことをしたのか、間違ったことをしたのか、訳が分からなくなってしまったのです。

 そこに、角砂糖売りが通りかかりました。悪魔がちょくちょくお店に現れるようになったので、角砂糖の回転が速くなり、角砂糖売りも頻繁に訪れるようになっていたのでした。今日、寝起きの悪魔に角砂糖を投げたのは、きっとマスターだったのでしょう。

「こんにちは」

「こんにちは」

 跡取り娘と角砂糖売りは挨拶を交わしました。

「一段落させたようですね。あの悪魔を」

「トリュフチョコレートを投げたらこうなってしなったのです」

 跡取り娘は説明しました。


 角砂糖売りは窓ガラスに近寄り、じっと見つめ、やがて口を開きました。

「これはこれは。ちょっと角砂糖を投げてもいいですか?」

「はい」


 角砂糖売りは試供品の角砂糖を内ポケットに入れていた巾着から出すと、こつんと変色した窓ガラスに当てました。

 水のように波紋が生まれました。型抜きのコーヒーゼリーのようだった人影の輪郭と色がやや柔らかくなりました。

 まるで無造作にココアパウダーを人影の形に散らしたようなふわっとした輪郭線とココア色です。

 ふうむ、と軽く唸ると角砂糖売りは跡取り娘と話を続けました。

「きえませんなあ。こやつはあの悪魔でしょう?寝起き姿で目が赤い……」

「はい、そうです……。そうだったんです……」

 跡取り娘は答えに過去形を付け足しました。


 そんなわけで、小さな池の中のようなチョコレート店の窓ガラスには今でもココア色の人影がぼんやり映っています。

 角砂糖を投げるとガラスに水のような波紋が生まれるので、時々試しに角砂糖を投げに子供がやってくることもあります。そのたびに店番の跡取り娘はこういいます。

「その悪魔はもう何もしない。無駄な事はしてはダメよ」

 跡取り娘は人影がこれ以上ぼやけてしまうのを気の毒だと思うのでした。赤い目をショボショボさせていた寝起き悪魔……。


「赤い目は本当に寝不足のせいだけだったのかしら」

 跡取り娘は時々そう考えます。

 

 灰色のひげの角砂糖売りは珈琲店への配達の帰りにチョコレート店で買い物をするようになりました。

 トリュフチョコを二粒。一粒をお店から出てすぐに口の中に入れます。

「あとの一つは家でゆっくりとね」

 そう言って寂し気に微笑みます。唇に着いたトリュフチョコの粉砂糖を、ぺろりと舌で舐めます。


 跡取り娘の両親、つまりチョコレート店の店長夫婦は窓ガラスをどうしようかと話し合う事が増えました。

「余計なことをしない方がいいのかしら」

「うーん、相手が悪魔だからなあ」


 跡取り娘はそういった会話を耳にすると決まってこういうのです。

「悪魔は今頃ぐっすりよ。起こさない方が良いわ。起こしたら家にちょくちょく苦情を言いに来るかも」

 跡取り娘がそう言うとその話題はとりあえず終わるのでした。

 

 角砂糖売りは定期的に、珈琲店とチョコレート店に訪れ続けています。

                   完


 

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角砂糖売り 肥後妙子 @higotaeko

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