第12話

〔エピローグ〕

克也は年末、正月を実家の家族と過ごすために栃木へ帰省した。

母親と兄弟達からは、由佳ちゃんは一緒じゃないのと問われ、「俺、フラれちゃった」と、戯けて嘘をついた。

妹のさくらは、フラれた理由を執拗に聞いてきたが、大人の事情だというと、拗ねて、しばらく口を聞いてくれなかった。

そして、父親の幸一郎とは、まともに顔を見ることすらできなかった。

家族と新年をのんびり祝い、去年の由佳との思い出が異次元の世界で起きた出来事のように感じる時もあったが、克也の心の中に空いた大きな風穴はなかなか小さくなることはなかった。

克也が東京に帰る前日、実家に帰省してからほとんど会話がなかった父親から声をかけられた。

「克也、ちょっとだけ付き合ってくれ」と素っ気なく誘われた。

互いに重苦しい雰囲気のまま克也が車の助手席に乗ると、幸一郎は行き先も告げずに車を走らせた。

車の中では一言も会話がなく、気まずい時間を埋めるようにボリュームを抑えたクラシック音楽が流れていた。

おそらく、克也が父親を避けていることを幸一郎も感じ取っているのだろう。

車で20分ほど走ると幸一郎が経営する会社に到着し、父親の後を追うように五階建ての白いビルに入っていく。

ここに来るのは、5年ほど前に幸一郎の会社の自社ビルが完成した時以来だ。

克也は父親に続いて最上階の社長室に入ると、部屋の中央に応接セットがあり、父親に促されて3人掛けソファーの真ん中に座った。

直後にドアをノックする音が聞こえ、事務系の制服を着た女性が2人分のコーヒーをテーブルに置き、ごゆっくりと言って部屋を出ていった。

父親の幸一郎が反対側のソファーに座り、コーヒーを一口啜り、小さなため息を吐いてから、真剣な眼差しで克也を睨み、話し始めた。

「克也、ごめん。まさかお前が愛美を連れてくるなんて、思っても見なかった」と、突然頭を下げた。

いきなり愛美の名前が出たので克也は少し驚いたが、誘われた時に何となく想定していたような気がする。

「父ちゃん、由佳が鷹島愛美だって知ってたんだね?」

幸一郎は大きく頷いたあと、克也の顔を改めて直視して、話を続ける。

「川村由佳は、俺が大学時代に付き合っていた女性の名前だ」

父親が発した言葉の意味がわからず、克也の頭は混乱していた。

「俺は、由佳が妊娠していることを知らなかった。俺は農家に生まれ、毎日朝早くから泥だらけで働く爺ちゃんと婆ちゃんの姿を見て、いつか自分が金を稼いで二人には楽な暮らしをさせてあげたいとずっと夢を見てきた。大学生の時には夢を叶えるために一生懸命勉強した。その時付き合っていた川村由佳には、いつも淋しい思いをさせていて、普通の恋人がするようなデートもあまりしてあげられなかった。大学を卒業してからはもっと忙しくなり、そんな俺に嫌気がさして由佳は俺から離れていったと思っていたんだ。そんな時、俺は知人と共同で投資していた企業で不祥事が起きて、大きな損失を被った。もう俺の夢と人生は終わったと思った。そんな人生のどん底にいた俺が一人暮らしの家に帰ると、テーブルの上に現金の入った紙袋と部屋の鍵、そして由佳からの手紙が置いてあった。手紙には一枚の写真が添えられていた」

幸一郎は徐に立ち上がり、デスクの引き出しから写真を持って戻ってきた。

写真を克也の前に差し出し、克也が写真を手に取ると、そこには赤ちゃんを抱いた綺麗な女性が写っていた。克也は、その女性が愛美の母親だとすぐにわかった。どことなく愛美に雰囲気が似ていたからだ。

写真を見ている克也の様子を見ながら、幸一郎が続きを話し出す。

「手紙には、好きな人ができて、その人との間に子供が産まれたので、もう連絡をしないでほしいと書いてあった。仕事に失敗した俺にとって唯一の希望は由佳だと思っていたから、電話をしたり昔住んでいた家に行ったり、由佳を探した。由佳を見つけられなかったが、俺のいない間に手切れ金と別れの手紙を置いていったのだと思った。あの頃の俺はバカだった、自分のことしか考えられず、由佳に裏切られたと本気で思っていたんだ」

幸一郎が情けなく呆れた表情で、克也を見ていた。

「俺はその金で、もう一度自分の夢に挑戦してみようと立ち上がったんだ。由佳の本当の気持ちなんて、まったくわかっていなかった」

幸一郎は、その時代の自分に怒っているようだった。

克也は、幸一郎が愛美の母の川村由佳さんに対して深く後悔していることだけは理解でき、無言の父親に話しかけた。

「父ちゃんは、今でも由佳さんのこと好きなの?」

幸一郎は顔を上げて、克也を見る。

「そうだな、たぶん。俺にとって由佳は、付き合っていた頃からずっと時間が止まったままだ」

「父ちゃんは、娘の愛美さんのことはどう思ってたの?」

「愛美が俺の子だと知ったのは最近だ。たまたまうちでバイトしていた女の子が「未来創生の和」に詳しくて、少し話をしたことがきっかけだった」

克也は、その時のバイトの女の子が情報を「未来創生の和」に伝え、鷹島翔生の耳に幸一郎の居場所が伝わったのだろうと思った。

「「たかしま」という名字は珍しくないが、鳥の鷹の文字を使った「鷹島」は珍しいからな、由佳が結婚した相手と関係があるとは思っていた。そこで、組織の中心人物の鷹島翔生と愛美が本当の兄妹じゃないこともわかったので、それからネットなどでいろいろ調べ、愛美の母親の名前が由佳だとわかった。それで、愛美は俺の子だと確信したんだ」

「どうして、本当の兄妹じゃないことで、愛美さんが父ちゃんの子供だって確信できたの?」

幸一郎は改めて克也の目を見て話を続ける。

「愛美という名前は、俺が付けたんだ」

克也は幸一郎が言ってることがまた理解できず、首を傾げながら訊ねていた。

「どうして自分の子供が産まれたことを知らない父ちゃんが、名前を付けられるんだよ」

「昔、由佳に子供が産まれたら、何て名前を付けるか聞かれたことがある。その時は妊娠なんてしてなくて、普段の恋人同士のたわいも無い会話だった。俺は悩みながらも、男なら由佳の一字を取って佳之、女の子だったら皆んなに愛される由佳のように美しい女性になってもらいたいから愛美と伝えた、その時のことを思い出した」

「だから息子に佳之と付けたんだ」と、克也が呟くと、幸一郎も頷いた。

「さすがに長男には付けられなかった。母さんに申し訳ないと思ったからな、でも結局次男の名前に付けたけどな」

「川村由佳さんは、父ちゃんが言った名前を採用して、自分の娘に愛美と付けたんだ、でも、その愛美さんは‥」

愛美の名前を発すると、愛美が最後に微笑って克也の部屋を出ていった姿を思い出し、言葉の途中から涙が溢れ、声は掠れ、言葉が上手く話せなくなった。それでも声を絞り出し、涙声で話し続けた。

「もう、父ちゃんが名付けた、愛美さんは、もう、死んじゃって、いないんだ」

「知っている」と、幸一郎が小声で呟く。

克也は右腕の袖で涙を拭い、時間をかけて息を整え、話し続けた。

「愛美さんは父ちゃんと俺を憎んで死んでいったんだ。どうして自分の娘だと知っていたなら、婆ちゃんの葬式で会った時、言わなかったんだ」

感情を抑えきれず、克也の声が部屋中に響き渡る。

克也は、愛美が死ぬ前に、本当のことを知って欲しかった。

そして、今となっては愛美に伝えられないことが、心底悔しかった。

「言えなかった。お前達新しい家族の前で、愛美に話すことができなかった、すまん」

頭を下げた父親の足元に光るものがすうっと落ちたのを、克也は気づいた。

家族に弱い姿を見せたことのない父親の涙を、克也は生まれて初めて見た。

父親の苦しみが、克也の体を覆うように伝わり、もうこれ以上、誰も傷つく必要はないと思った。

それぞれがそれぞれに、十分苦しんだ。

その時克也は、幸一郎との会話をどこかで愛美が聞いているような気がした。

克也は立ち上がり、父親の肩に手を置いた。

その手の上から父の手が重なり、父親としての幸一郎ではなく、一人の人間としての幸一郎を少し知ることができたような気がした。

克也は心の中で、愛美に話しかけた。

「姉ちゃん、父ちゃんを許してやってほしい。父ちゃんは今もまだ、由佳さんと由佳さんとの娘を愛しいと思っている、と、俺は思うよ」

克也の心の風穴が、少しだけ小さくなっていたことに、たった今気づいた。

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恋人、10日間のバイト。 @LIONPANDA1991

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