in terra pax ― 新春

清瀬 六朗

第1話

 惣吉郎そうきちろうさんは僕を穏やかな笑顔で迎えてくれた。

 「こんな正月だから、ろくな料理はないが」

と言って、僕を座敷にいざない、二合瓶の酒を出してくれる。

 たがいに手酌で酒を猪口ちょこに入れながら、正月料理をつまむ。

 「こんな正月」というのは、去年、つまり今日になって「去年」になった年、惣吉郎さんは妻を亡くしたからだ。

 したがって惣吉郎さんは今年は喪中だ。だから「おめでとう」というあいさつはしなかった。

 惣吉郎さんは妻の父にあたる。だから、僕の家も喪中なのだろうけど、惣吉郎さんは十一月のうちに「気にしなくていいから」と伝えてくれていた。

 でも、喪中ではないことにしても、僕の家に「正月っ」はまるでない。

 妻のかおるは、勤め先が観光振興協会というところなので、人出の多い正月はかえって仕事が忙しい。ウィーンから帰国してオーケストラに就職したばかりの上の娘は、オーケストラの仕事があると言って出かけて行った。下の娘も、高校で「アイドル研究会」などというのをやっていて、その幹部なのだそうで、お正月はその活動で家にいない。

 しがない英語教師の僕だけが家に残り、そのことを知ってか知らずか、惣吉郎さんが僕をその家に誘ってくれたのだ。

 惣吉郎さんは、奥さんと、つまり馨の母と二人暮らしだったから、いまは一人暮らしだ。

 父と義理の息子と、一人だけ残された男二人が、向かい合って酒を飲んでいる。

 「ろくな料理はない」と言うけれど、そのことばとはうらはらに、鶏肉の煮込み、煮豆、さわらの焼き魚、根菜の炊き合わせと、種々の料理が揃っている。

 たぶん、すべてこの惣吉郎さんが作ったのだ。

 「お父さんは器用だから、ほんとは料理もうまいんだよ」

 「ふん♪ ふん♪」と後ろに鼻歌をくっつけて、馨が言っていたのを思い出す。

 それほど寒くなかったので、座敷の障子を開け放って、かわりにストーブの火を最大限に大きくして、二人とも毛糸のセーターやカーディガンを着たまま、惣吉郎さんと僕は向かい合って飲む。

 日本の古い家だ。防寒のことなんか何も考えていない。

 座敷の外側には縁側えんがわがある。その向こうには蒲沢かんざわの街が広がり、その街の向こうには海がもっと大きく広がっている。

 正月の午後の海は、暗い、落ち着いた色で、そのところどころが日の光を反射して、きらっ、きらっと光っていた。

 厳寒の冬のはずだが、ときどき吹いてくる風は優しく、柔らかで、たしかに「初春」というのには似合っていると思った。

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