第6話
「そのことばが僕には謎でな」
と
「あとで考えてみると英語じゃないかと思うんだよな。だから、英語の先生の君ならわかるんじゃないかと思って」
は?
しかし、惣吉郎さんも
当然、英語はひと通りわかるだろう。
その惣吉郎さんにわからないことばが、僕にわかるだろうか?
しがない英語教師の僕に。
でも、訊かないわけにはいかない。
「で」
と、まじめに答えます、というポーズで、僕は惣吉郎さんの目をはっきりと見る。
ゆっくりと言う。
「なんて言ったんです、彼女は?」
惣吉郎さんはゆっくりと発音する。
「グロィア、ン、エクッシェルシス、デオ、エッ」
そこで惣吉郎さんはことばを切ったが、まだ続きがあるようだった。
もしかすると、その彼女がそこでほんとうにことばを切ったのかも知れない。
「イン、テルワ、パックス。夢でも見てるように、目線を上げて、そう、歌うみたいに言って、それも澄んだ声で、そこまで言って、それから
惣吉郎さんは、そこまで言って、穏やかに笑って見せた。
「その彼女が、その、女学校の制服か何か、洋服姿で、今朝の夢に出て来た。まあ、あれが生きてるあいだは遠慮して出て来なかったんだろうが」
「あれ」というのは妻の
「それで、その夢で、「わたしが最後に何を言ったか、覚えてる?」って言うんだ。「ああ、覚えてる」って言ったら、それで、彼女が、ふふっ、と笑って、それで目が覚めた」
なかなかいい話だ。
できすぎだと思うほどに、いい話だと思うが。
夢なのだから、しかたあるまい。
そう思って油断している僕に、惣吉郎さんは
「で、英語の先生ならわかるだろう?」
と言う。
しまった。
そういう話だった。
「グロィア。ン。エクッシェルシス。デオ。エッ。イン。テルワ。パックス」
惣吉郎さんは、その「彼女」の最後のことばを、一単語ずつ切って言う。
残念ながら、僕にはまったくわからない。
だいたい、頬にまで火傷を負っていたその「彼女」の発音が正確だったのか、正確だったとしても、少年時代の惣吉郎さんが正しく聴き取ったのか、もう七十年以上が経って、きちんと覚えているのか。そこからして疑問だ。
でも、聴いている振りぐらいは、しなければいけない。だから、僕は
「すみません。もういちど言っていただけます?」
と訊く。惣吉郎さんは、いやがりもせず答えてくれた。
「グロィア、ン、エクッシェルシス、デオ、エッ」
僕は復唱する。
「グロイア、アン、エクッシェルシス、デオ、エ」
「「アン」って感じじゃなかったな」
細かいつっこみが入る。
「あ、はい。あ、メモしていいですか」
そう言って、僕は、惣吉郎さんが持ってきてくれた割り箸の箸袋に、ボールペンで
「グロイア、ン、エクッシェルシス、デオ、エ」
と書く。
去年から手帳を持ち歩くのをやめていたので、こういうときは不便だ。ふだんはスマホにメモするのだが、戦前生まれの惣吉郎さんを前にそういうことをするのもなぜか気が引ける。
「イン、テルワ、パックス」
「インテル、ア、パックス」
そう言って書き留めると、惣吉郎さんは
「いや、違う違う」
と強烈にツッコミを入れた。
「インテルじゃなくて、「イン、テルワ」だよ。「イン」と「テル」のあいだは切れとったし、「ア」じゃなくて、どっちかというと「ワ」だったな」
どうやら、アメリカのIT企業の何かのパック、というわけには行かなさそうだ。
そこで、「インテル、ア、パックス」の全体に線を引いて、惣吉郎さんの主張するとおり、「イン、テルワ、パックス」に書き換える。
ここはさっさと白状するに限る、と思った。
「いや、わからないですね」
そう言って、上目づかいに惣吉郎さんの顔を見て、何も隠していません、というところをアピールする。
「英語じゃないんじゃないですか?」
実際、英語でわかることばと言えば「イン」ぐらいだ。
想像すれば、「エクッシェル」がやっぱりアメリカのIT企業の製品名に似てるとか、その程度。
はっきりしたことは何も言えない。
「パックス」も、複数形の「パック」っていったい何のことだろう?
「そうか」
惣吉郎さんは、梅酒の入ったグラスを手に持って、そのグラスを見て、しばらく揺すっていた。
そして、とても残念そうに言った。
「英語じゃないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます