第3話

 僕は、これまで、惣吉郎そうきちろうさんにも、その政子まさこさんにも、冠婚かんこん葬祭そうさいとかの儀式以外では会ったことがなかった。

 それは、政子さんとかおるが、憎み合うと言っていいほど嫌い合っていたからだ。

 そういう儀式で顔を合わせても、「実の母と娘」とはとても思えないようなよそよそしい会話を交わしていた。僕と馨の結婚式の日ですらそうだった。

 なぜなのかはよくわからない。

 馨には姉がいたのだが、その人は僕と馨が結婚する前、若いうちに亡くなった。そのことと何か関係があるらしいのだが、詮索せんさくすると馨が機嫌を損ねるのはわかっているので、いまだに僕は事情をよく知らない。

 「あれは、戦前戦中にこの上ないってほど厳しくしつけられて、そのしつけを信じ続けた、まあ、きまじめで陰気な女だったし、馨は陽気な娘だから」

 惣吉郎さんは唇を横に引いて困り果てた表情を作った。

 それより、僕は、惣吉郎さんが、亡くなって一年も経たない自分の妻を「陰気な女」と言ったことが引っかかった。

 引っかかったけれど、ほじくり返すことでもない。

 それで

実葉みはもまじめな子でしたからね」

と僕は言う。

 「馨は、まじめに勉強をするよりも、友だちと仲よく遊べるようになることがよっぽどだいじだ、なんて言って、実葉がそれに反発してよけいに一人で勉強ばっかりするようになってしまって」

 「勉強ばっかりするように」は「勉強ばっかりするキャラに」と言おうとしたのだけど、惣吉郎さんには「キャラ」という表現はわからないかも知れないと思って、寸前で切り替えた。

 「親なんて、普通はまじめに勉強しろと子どもには言うものだけどなあ」

 惣吉郎さんが明るく笑う。それでぼくも苦笑いして

「さすがの馨も、下の子にはそう言ってましたけどね。いまも言ってる」

と言う。

 下の娘のももは、高校生の同級生たちとアイドル研究会というのを結成して、その同級生らをアイドルとして売り込むのだとか言って活動している。それで、地元でお店をやっている元アイドルとか、商店街の役員さんとか、たしかに人脈は拡がって行くのだが。

 成績もそんなに悪くはないのだが……。

 僕はふと思いついたことを惣吉郎さんに言ってみた。

 「上の娘が母親に反発して母親と反対の性格になろうとする。その上の娘に反発して、下の娘が姉と反対の性格になろうとする。こういうの、なんとかなりませんかねぇ」

 「そうなるのは親の躾がちゃんとしてないからだ」

 惣吉郎さんがそんなことを真顔で言うので、僕はどきっとした。

 しかし、すぐに笑って

「あれなら、そう言ったことだろうよ」

と惣吉郎さんはつけ加えた。

 つまり、去年亡くなった政子さんならば、そう言った、ということだろう。

 惣吉郎さんが続ける。

 「でも、けっこうなことじゃないか。そういうので、最近はやりの多様性っていうのが保てる、ってもんじゃないのか」

 いたずらっぽく笑う。

 惣吉郎さんが多様性を尊重したいと思っているかはわからない。それより、「多様性」がときどきニュースに取り上げられていて、そのニュースをよく見ている、と、惣吉郎さんはアピールしたいのだろう。

 だから、僕もつき合って笑った。

 「いや、家のなかでそんなに多様性があっても、もうとまどうばっかりで」

 「いや、だから、さ」

 惣吉郎さんは、猪口ちょこを持ったまま、首を傾けて僕を見ていた。

 言う。

 「そういうときに、思い切って外国に行く、ってことができてよかったわけじゃないか。最初はアメリカだったかな」

 実葉のことだ。

 「はい」

 ぼくはうなずいた。話をする前に、手に持っていた猪口の酒をからにする。

 「最初は、ニューヨークにいる、馨の友だちのところに世話になって。でもニューヨークの音楽学校に入ることができなくてくすぶってるところにドイツ人の先生に声をかけてもらって、最初はドイツのボンに行ったのかな。それから、ウィーンに行って」

 「世界は広い」

 惣吉郎さんが言う。芝居がかって言ったのか、本心からの感慨かは、僕にはよくわからない。

 「そういう世界に触れて自分の居場所が見つけられる。そういうのが、なんというのか、あるべき世界ってものなんだと思うよ」

 惣吉郎さんは、言うと、ふっと笑って目を自分の猪口に落とし、それからその猪口のなかの濁りのない酒を一気にあおった。

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