何年振りか、高校を出てからだから実に10年振りか。


 それは幻ではなかった。


 久しぶりに見た彼女は、髪を染め、美人っぷりを磨いていたが、この寒さのせいか、力無く笑っているように見えた。



「メリークリスマス、仁」


「あ、ああ、メリクリ。随分と久しぶりだな」



 あまりにも普通で、声が上擦ったのは仕方ないだろう。



「元気だった?」


「まあな。お前は?」


「元気、だったよ」



 それが嘘なのは、明々白白だったけど、俺のトラウマは身体を彼女には向けさせなかった。


 どうも身体が動かない。


 いざ望みが叶ってみると、あれだけあった言いたかったいろいろなこと──どこに住んでるだとか、今何してるんだとか、おばさんが心配してるだとか、あの時俺はお前に見惚れてただけだとか──その全てが雪の結晶みたいに空に溶けては消えていく。


 心はやっぱり溶けてなかったようだった。


 いつの間にか、不吉な音がまた近づいてきていた。



「…ここ、長かったよね…」


「…そうだったな」



 ようやく出せたそんな言葉に、何かを噛み締めるような、懐かしんだ顔をして、まふゆは遮断機を見つめていた。


 カンカンカンと不安にさせる音が鳴る。


 そして俺をまた時間旅行に轢き擦っていく。


 ──それを知ったのは、高校を出て随分と経ってからだった。


 大学は地元を離れていて、あの春の日からまふゆも姿を消していた。


 上京して四年、就職を機に地元に帰っていた俺は、小さな同窓会に呼ばれた。


 その時の居酒屋で聞いた話だった。


 実際には聞いたというか、推測の域を出なかったが、俺には合点がいったのだ。


 当時あった謎が解けたと言った方が正しいかもしれない。


 我が母校である高校の、ある一人の教師による長年に渡っての不祥事が発覚したのだ。


 キッカケは些細なもので、おそらくそいつも予期していなかったのではと俺は思った。


 それくらい生徒からの信頼も厚く、斯くいう俺もそう信じていたし、進路の相談も熱心に聞いてくれた教師──橋本の淫行事件が明らかになったのだった。


 それだけならまだ良かった、いや良くはないが、そうではなくて、その教師が受け持っていた部活内での出来事だったのが問題だった。


 それは、彼女がその部活に入っていたことと、その時の不可解な態度が明確な鋭さを持って繋がってしまった。



『——仁はもし、もしだけどね。私が別の人と付き合ったりしたら、それでも取り戻してくれるかな?』



 ある日、突然思い詰めたようなことを言ってきて、俺は咄嗟に声が出なかった。


 しゅんとした、それでも真剣な目は俺を離さず見ていた。


 確かに俺が志望していた大学は遠方で、彼女は就職希望だった。


 だから不安に駆られて聞いたのだと思って疑わなかった。


 当時、その言葉がどういう意味かすらよく考えてなかったのだと思うけど、今にも消えて無くなりそうなまふゆの危うさに、俺は咄嗟にこう答えた。



『——まふゆを手離すわけないだろ』



 幼い頃からの約束通り、俺たちはずっと一緒だと伝えたつもりだった。けれど彼女は嬉しそうではあったが、力無く笑っていた。



『——嬉しい…わたし、ずっと仁のものだから大事にしてね? 絶対だよ…?』



 叶いそうにない、実際すでに叶わなかったその言葉は、まだ世間も道理も知らない18歳の俺には、その意味すら理解出来ず、何も出来ないまま卒業式を迎えた。


 そして全てを叩きつけられた。



「ね…今から、時間ない、かな…?」



 それは消え入りそうなくらい小さくて、でも俺の耳は捕らえていて、そしてそれが現実へと呼び戻した。


 でもそれは、俺が散々言ってきたことで、最後の方にはついに叶えてくれなくなった類の願いだった。



『──ごめん、ちょっと時間ないんだ…後輩に呼ばれてさ…顧問もしつこくて…』


「ッ、あ──、すまん、ない」


「そ、そっか…クリスマスだもんね…」



 だから、俺にそれを言うのはダメだろう。例え何かあったとしても、時間をくれなかったのも止めたのもお前で、でもそれを言うわけにはいかないじゃないか。



「じゃ、じゃあいつだったら良い──」


「悪いな。奥さんと子供待ってんだ」



 まあ、そんな嘘くらい吐かせてくれよ。


 おそらく何か事情があるから現れたのだろうけど、巻き込まれたくはないし、お前を憎みたくも恨みたくもないしな。


 それに、それこそお前が望んだ未來だっただろ。



「ッ、だ、だよね…そうだよね。仁、素敵だからね…あははは…はは、結婚…して…ふふ、そっか、子供か……。おめでとう。幸せなんだね……」



 そう言いつつも、チラリと俺の指を確認しようとして──ポケットに入れた手を見ているような気がするが、それ以上は聞いてこなかった。


 この10年で俺も嘘が上手くつけるような大人に、いつの間にかなっていたのかもしれない。


 昔ならすぐに俺の嘘を見抜き、出しなさい、なんて強引に腕を取って手袋を剥いていただろうけど、それをしないのは、出来ないのは、それそのままに俺とお前の今の関係を物語っていた。


 つまりまふゆは俺に弱くなっていて。


 俺はお前に更に弱くなっていた。


 なんでも言い合えた仲で、歪ながら全てを晒した同士だったけど、それ故か、たったこれだけが出来ない関係になっていた。


 そうして、昔みたいに過ぎゆく電車を二人で眺めていた。


 その当時、耳を寄せ合って、甲高い車輪の音に感謝しながら、良い匂いに照れながら話したことをふと思い出した。



「……」


「……」



 もしかしたらまふゆも思い出しているのかもしれないけど、お互い言葉が出ない。


 言葉を紡ぐというのは会話の入り口で、けど、そんな余地もないくらいに、それが出ないのは、おそらく俺はお前と話したくはないんだと思った。


 それは決して恨んでるとかじゃなくて、お前がその大人びた格好に似合わない、子供っぽいマフラーをしているのも、気づいて欲しかったり、何か意味があるんだろうけど、そんな昔を思い出せてしまうほどまふゆは今でも光眩しく、だからこそ黄昏時に作られたその影は、暗く濃く俺の心を侵していくんだ。


 だから俺は見ないフリをしたいんだ。


 それが俺の正しい選択だと信じたいんだ。


 そうして、ようやく遮断機が上がる。


 何かを言いたそうな、不服そうな、名残惜しそうな態度で、遮断機のバーは下にしなったまま上がっていく。



「…メリクリ。それじゃあな…まふゆ」


「…うん、メリー…クリスマス。…さよなら、仁」



 そのやっと聞けた言葉で、俺の凍っていた時間が動き出した気がした。



「ああ、さよならだ。お前も幸せになれよ」


「……うん、ありがとう」



 そしてようやく捉えたその顔は、ホッとしたような、諦めたような、また俺の見たことのない顔だった。


 ただ、少しあの最後の泣き顔みたいで、でも、とても綺麗な笑顔だった。


 そんな顔をしながら、次の遮断機が下がるまで、彼女はそこに立って手を振っていた。


 北風に吹かれたその髪に、俺はもうときめいてはいないのだと安心して手を振り返した。


 今度は謝るような、項垂れるようにして、また遮断機が下がり出した。


 そして彼女は何かを言った。


 だけど俺は当時みたいに、聞き返す事はなかった。


 不吉な音はもう止んでいて、しらしらと降る儚い雪が、その強さを増して彼女の姿を次第に消していく。


 だからようやく長い未練が終わったのだと俺は思った。


 それが、まふゆとの最後だとも知らずに。





 彼女が自殺したのは、その日の夜だった。


 俺があげた長いマフラーを、クリスマスのリースみたいにして、彼女は死んだようだった。


 遺書なんてなかったようで、突発的な自殺だという話だった。



「まふゆ…」



 彼女の幸せが、子供を産めない彼女の幸せが、死ぬことだとは思わなかった。


 だけど、俺の凍っていた心は、あの雪解けたみたいな春の日を思い出して、ようやく瞳から溶け出したんだ。


 ああ、最初からそうすれば良かったんだ。



「──グルベル、ジンジンジングルベル鈴が鳴る〜」



 そう呟いて見下ろした男の顔は、ひどく歪んでいたのに、その赤垂れた頭部と白濁の口泡で、ははっ、まるで馬鹿みたいに笑ってクリスマスを祝っているように見えた。


 ああ、あの時、最後の言葉はいったいなんだったのだろうかと、真冬の空を歩いては儚く溶けて消えていく。


 そんな問いかけも、まるで真冬の雪の結晶のようでいて、いつも空にすぅっと消えていた。

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真冬の空歩き 墨色 @Barmoral

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