真冬の空歩き
墨色
上
開かずの踏切を前に立ちすくむ。
走るように忙しい師走。
急いで駆けたが捕まってしまった。
仕事帰りの夕暮れの中、久しぶりに間に合わなかったのは、俺があれから立ち直ったからだと思いたい。
「う、うう…う──、さむッ…」
風は薄まるというのに、立ち止まる方がよっぽど寒い。底冷えというのか、アスファルトはどうやら今日の太陽を捕まえなかったみたいだ。
季節は酷寒といった様相で、数日前の暖かさは何だったのかというくらいに寒い。
マフラーも手袋も、あの当時と色も柄も違っていて、随分と暖かいはずなのに、どうにも芯から凍えてしまう。
「…長いんだよな…ここ」
はぁ、とゆっくり吐いたのは、溜息でも諦観でもなく単純に暖まりたいからだと思いたかった。
「この踏切が…最後だったな…」
それでもやはり勝手に思い出していて、ここに立ち止まった時のお決まりのセリフが口を吐いた。
あいつの名前を思い出すのは、いつもこの踏切に立ち止まった時の、厳しい寒さが掛かる吐息の白さからだった。
まふゆ。
綾瀬まふゆ。
俺の幼馴染で、俺の彼女で、俺の愛していた女の子だった。
『──仁。絶対幸せになってね』
それは、高校を卒業した日で、寒さがようやく解け出しそうな春の日のことだったのに、名前のせいか、こんな寒い日にこそ思い出してしまう。
カンカンカンと不吉な音が心臓を跳ねさせながら鳴り響く。
その子が別にここで死んだわけじゃないけど、俺の中ではここで最後だと思ったことを思い起こさせる音だった。
今はどこで何してるかなんて、生きてるか死んでるかなんて、あいつの母親だって知らないんだ。
同級生達からの結婚報告が相次ぐ中、そんなことを聞かれたって俺だってわからない。
でもそれくらいに、彼女と俺は仲が良く、俺と彼女は愛し合っていた。
そう思われていたし、俺も疑ってなかった。
「はぁ──……ッ」
覚えているのは、このいつまでも上がらない踏切の不吉な音と、その音と同じリズムで刻んだ胸の痛みと、金属の車輪に轢かれたかのような尊厳で、そして向こう側のあいつのその涙のない泣き顔くらいなものだった。
──ようやくバーが上がった時には、もう彼女はいなかった。
そんなエピローグで、二人の物語は呆気なく終わり、それ以来会ってはいない。
それはもう10年も前のことで、今更考えても無駄だとはわかっているけど、男のサガというか、やはり初恋は特別だったのだろうか。
「今日は特別…寒いな…」
風を巻き込み、流れていく電車が途切れ、露わになった向こう側に、きっとあいつが居るだなんて妄想は、逃げられた男特有の…いや、真冬の寒さ特有の物悲しい雰囲気ゆえだろうか。
あの日は今日と違って春の日だったのに、俺はいまだに氷の中にでもいるのだろうか。
それくらいに凍えて寒いんだ。
あの時だってきちんと見れば、まふゆの様子が変だと気付けたのだろうけど、俺には到底無理だった。
ようやく叶った念願に、当時の俺に浮つくなとは歳をとっても言えないけど、どうにかしてあいつの助けになれたのではと未練にも思ってしまう。
いや、やっぱり俺の器では無理だったんだろうなと、またいつものところで後悔と未練の警笛は終わる。
悪夢を孕んだ回想が、電車の最後尾とあいつの後ろ姿を重ねて共に終わる。
電車のようにこっちを見ずに去っていく。
もう終わったんだ。
もう思い出さなくていいんだ。
例え無駄だとしても、そう強く思い込む。
「しかし、長いな……」
カンカンカンとようやく鳴り響いたその音の先が、行きたくないのに、電車を待たずにまた俺を時間旅行に連れていく。
『——わたしね、ずっと仁のものだから…大事にしてね? 絶対だよ…?』
俺の冷えた心臓を掴まえて、冷たい金属製の車輪が、更に容赦なく引き摺りながら運んでいく。
ジャリンジャリンと心臓を切り裂くようなその音は、その当時よりはもう痛くはないけど、俺を無理矢理轢き殺す。
そんな風にして、俺もお前の気持ちを鷲掴めたなら、どんなに幸せだっただろうか。
「はぁ───っ、……ははっ」
白の息が空の濃いオレンジの空に溶けていく。
せめてもの失笑も、解けて溶け合い混ざっていく。
そのまま空に連れ去りたかったと、今では強く思うけど、あいつの首には鎖が着いていた。
『──仁は今合宿中だよね。勉強頑張ってるんだよね。私も…ほら、頑張ってるんだ、よ?』
画面の向こうでそう言ったまふゆは、その夏色のスカートをたくし上げた。
いくつものコードといくつものカラフルな水風船が白い肌に映えていた。
頭を振り、あの悪夢を追い出そうとしても、この踏切の前ではどうやら無駄だったみたいだ。
「……愛せる日まで愛してみせる、か」
まふゆがそう決意していたのか、今ではわからないけど、彼女は付き合っていた当時、俺に献身的だった。
日常はもちろんのこと、記念日や恋人の特別な日はいつも二人で祝っていた。手作りのお菓子に手編みのマフラーやブランドの手袋ももらった。
だが、あくまであの男の遊びだった。
その裏では当たり前のように裏切っていた。
GWから始まり、夏休みにハロウィンとか文化祭とか。
それと今日みたいなクリスマスとか。
他にもいろいろあったけど、たくさんの思い出を俺とまふゆは過ごしていた、と思っていた。その全部の裏側で裏切っていたなんて、当時の俺は気づきもしなかった。
『——まふゆ、俺はお前が欲しい』
『——嬉しい……。わたし、ずっと仁のものだから大事にしてね? 絶対だよ…? でもまだお預けっ! 大学受験がんばろ? わたしも……頑張るから』
幼い頃からの約束通り、俺たちはずっと一緒だと伝えたつもりだった。けれど彼女は嬉しそうではあったが、そういえば力無く笑っていたなと、思い出したくないのに、どうにもままならない。
過ぎゆく電車が銀幕とかフィルムみたいで、自動車のライトとか、街頭とか赤い色が乱反射していて、俺とあいつの過去が映っては消える。
ガタンガタン。ガタンガタン。
『──とまぁ、夏からそんな感じでさ。でも、えへへ…仁のために頑張ったんだよ?』
ガタンガタン。ガタンガタン。
『──信じてもらえないかもしれないけどね、ああ、なんか照れちゃう……ま、まだわたし、しょ、処女なんだ…えへへ…嬉しい? …ちゃんと仁のために残してたんだよ?』
ガタンガタン。ガタンガタン。
『──あはは、ふふ、そんな瞳を向けられて、わたし興奮してる。ははっ……』
ガタンガタン。ガタンガタン。
『──ううん、……もうわかってるの。自分でもちゃんと自覚あるんだよ? だからね、仁は椅子に座ったままでいいから、わたしを躾て………え? あ…そ、そうだよね…大きくなんないよね。やっぱりこんなわたし汚いよね。知って、た。何期待してたんだろ。あははは…』
目の前を横切る軋んだ音が、まるで胸を刺すかのようで、いつもより時間旅行が深く長いのは、今日がクリスマスだからだろうか。
『まふゆッ! 待ってくれ! 俺、俺は…ッ、俺はッ──』
『──仁。絶対幸せになってね』
音が過ぎると、いつの間にか夕暮れは止み、小さく儚い白に囲まれていた。
卒業式の日、あの男に言われ、ようやく俺の前に晒した全ての痴態と、俺の項垂れた情け無さと、あいつの納得したような、それでいて寂しそうな瞳と姿は──
──例えばこのしらしらと降り出した、儚く溶ける雪の結晶のようでいて、場違いに美しいと思った当時の俺の気持ちのまま、やはりまだ凍ってでもいるんだろうか。
「はぁ──っ…、ようやく行ったか…」
だとすれば、あんまり温めちゃいけないんだろうなと、白い息に少し暖かい手袋の熱に、瞬く度に溶けるまふゆに、俺はそう呟いた。
「……ははッ」
踏切が上がると、目の前にはそのまふゆが、さよならさえ言わなかったあいつが立っているようにしか見えないんだから、ほんとに俺は──
「メリークリスマス、仁」
──どうしようもないなと、自嘲した。
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