ルンペルシュティルツヒェン

石濱ウミ

・・・




 いま思えば、最初に失くなった物はボールペンだった。


 なんの特徴もない、どこにでもある赤色インクの入ったペン先0.7ミリのジェルボールペン。

 知らず置き忘れてしまい、いつのまにか失くしてしまうことは良くあるし、そういったものは大抵、思いも掛けぬ場所から見つかるからとあまり気にしていなかった。気に入りのものならば探すこともしたのだろうが、特別な物ではなかったから買い替えて済ませてしまえば、後は日常に追われ忘れ去ってしまったのだ。


 そうすると次に失くなった物は傘だろうか。傘は、置き忘れたり盗られたりと、それこそもう何本と失くしている為、あゝまたか、と思った程度でこれまたあまり記憶にない。

 蓋付きの真空断熱お気に入りのタンブラーを失くしたのとマフラーを失くしたのは、どちらが先だったのか。

 財布を失くした事に気づいた時は文字通り血の気がひいた。スマホ決済が増え、鞄の底に財布を入れたままにしていた所為もあり、いつから無いのかも分からないのだから。

 慌てて警察署に免許証の遺失届を提出したり、同時にクレジットカード会社に連絡したり銀行に行ったりと忙しい中を走り回った。

 

 全ては自分の所為であると、それ以外ちらとも思い浮かびもしなかった。

 それもそのはず。

 スマホが冷蔵庫に仕舞ってあったり、エアコンのリモコンをスマホと間違えて家を出たり、思考に囚われていると手に持っている物を紛失したり遺失することが多かった為、自分以外を少しも疑っていなかったのだ。

 

 極めつきは、イエローゴールドのスマイルペンダント。

 シンプルで使い勝手の良い物だったが、別れた恋人との思い出がありすぎて仕舞い込んでいたこともあり、これは正直なところ誰かに指摘されなければ失くしたことにも気づかなかっただろう。


「……それで失くしものは見つかったのですか?」


 仕事が終わり、家に帰ってから冷蔵庫の中を覗き込み食べ飽きた常備菜を眺めて溜め息を吐き、新しく一人分を作る気力もなく、かといって何かを買って帰るのもまた面倒なとき、近所にあるカジュアルなスタンディングバーを利用する。

 一人飲んでいるところを話しかけられるのは好きではないのだが、間合いの詰め方が上手い人を素気無くあしらうほどの器量は、残念ながら持ち合わせていなかった。


 厭うほどの感情も湧き上がらなかったのは、相手のその外見から、同年代だと推察できたことも、大きな要素だったのかもしれない。

 もし、お仕事お疲れ様です、の一言を口にしたならば、なんとなく共感出来てしまう諸々が互いの背後に見えたといえばいいのだろうか。


 当たり障りない話から最近物忘れが増えてきたという笑い話になり、そこから失くしものの話になったのは、おそらく必然だった。


「いえ、それが全然。免許証なんて再交付手続きをしなくちゃいけないのが、もう面倒くさくて。車なんて免許を取ったときくらいしか運転してないんです。正直、免許証なんていらないんですけど。かと言って手放すのもまた……」


 大学二年の夏休みに、半ば無理矢理免許を取らせられたのだが、それは卒業したら実家に帰って来るのだから車は必要になるという親の思い込みと、その心理的圧力に屈したからだった。

 そんな親とは、顔を合わせず離れている限り上手く関係が築ける為、連絡は密に取り合うものの忙しさを理由に長期の休みでない限りは実家へ帰らないと理由をつけ、この二年ほどは帰省していない。


「見つからないからって必死になることもないですし、あまり物に思い入れがないのも、失くしものに気づかなかった所為かもしれません」


「恋人だった人から貰った物も?」


「ああ、それは仕舞い込んでいたし、まだ思い出になるには生々しいって言うか……いつかは思い出になるんでしょうけど」


 なるんですかね? と苦笑いをすると目の前の人は、飲み物をゆっくりと口に含んだ。


「さあ、僕には分かりません。けど……」


「けど?」


「僕にも忘れられない人がいて」


「……いて?」


「学生の頃、一度話しただけの人なんですけれど。そのときの印象というか……実に衝撃的で」


「もしかして、一目惚れですか?」


「きっと、そうだったのでしょうね。そのときは気づかなかったのですよ。強烈な感情に振り回されて、その人のことを苦手だと暫くのあいだ勘違いしていたくらいですから。二度と会いたくないと思った筈なのに、その人を見かけては思わず目で追ってしまったりしてね」


「わあ、なんか……」


「気味が悪い?」


「いえいえ。純粋だなあって」


「そう言って貰えると、ほっとしますよ」


「その人とは?」


「卒業してからは全然でしたが、最近また偶然に見かけることがありまして」


「わあ、もうそれ次に見かけたら話しかけたらどうです?」


「ええ」


「あ、話しかけたんだ」


「いえ、最初はずっと見ているだけだったのですが、どうにかして気づいて貰えないかなと思いまして」


「行動に移したんですね?」


「暫く試行錯誤を」


「わあ……それでどうなったんです?」


「全く。であればと勇気を出して話しかけることにしました。話しかけたら僕と気づかれて、嫌がるかと思ったのですが、気づいても貰えませんでしたね。おそらく僕の名前も知らないのではないでしょうか」


「話したことはあるんですよね? だったらほら、とっさに思い出せないだけで、名前も知ってるんじゃない?」


「知っていると?」


「きっと、多分」


 気づけば目の前にあったパインとベーコンのピンチョスも、無花果のクリームチーズあえも、手にしていた互いの飲み物も全て空になっていた。

 もう一杯頼もうか思案してメニューに目を走らせる。


「……それで失くしものは、どうなりましたか? 失くしたままでも、今はもう気にならなくなってしまったのですか?」


 静かに降り落ちた声に、顔を向けた。

 ふっと微笑んだ相手の目尻に柔らかな皺が寄るのを見ながら、いいえと首を横に振る。


「他にも仕舞ってあった筈の家の中にあったものが失くなっていることに気づいてから、怖くなって警察に相談したんです」


「それは以前に恋人だった人からのプレゼントですよね?」


「そう、そうなんです。鍵も壊されてなければ部屋を荒らされた様子はないし、自分で失くしたことを忘れてるんじゃなければ、別れた恋人なんじゃないかって警察に言われたんですけど」


「違った?」


 久しぶりの連絡も、彼は微塵も動揺することはなかった。

 すっかり過去のこととして区切りをつけていた様子が手に取るように分かり、あまつさえ、こちらの未練を見越したような物言いに、カッとなって話を終わらせたのである。


「それで部屋に監視カメラを置くことにしたんです。誰か知らない人が映っているのも怖いですけど、警察が言うように、忘れてるのが自分だったらと思うと怖くて、まだ観れてないんです」


「なるほど、そうか。それで……そうなんですね」


「だからかもしれません。不思議なんですけど、こんなことがあっても部屋に帰るのは怖くないんです。どこも変わったところはないし、荒らされてもないから、どこかで自分で捨てたか失くしたってことを認めたくないのかな、なんて思ったりもして」


 話すうちに、もうそれでも良いような気がしてきたのは、薄らと酔いが回ってきていたからかもしれない。

 もう一杯頼むのはやめて帰ろうと思った。

 帰る途中に、無駄な買い物しかしないと分かっているコンビニに寄るのはやめよう。

 まだ飲み足りないような食べ足りないような気持ちを引きずっていても、お風呂に入れば眠たくなってしまうのだから。


「では……」


 何かを確かめるような相手の声に、打ち寄せる思考の波から顔を上げた。


「録画したものに誰かが映っていたら、それは知っている人だと思いますか?」


「え……知っている人、ですか?」


「ええ」


「うーん、でもそうだったら知らない人より知っている人のが怖いかもしれません」


「怖い、ですか? 知っている人なのに?」


「自分だったらも含めて、知っている人だからこそ、どうしてそんなことをしたのか考えたら怖くありません?」


 一人自分が写っているのも怖いが、そこに嫌がらせをしそうな会社の何人かの顔を思い浮かべて、思わずぞっとする。

 しかし、住居侵入罪を犯してまでの嫌がらせをされることはない筈だ。


「ああ、なるほどそうでしたか。すみません。もしかしたら知り合いかもしれないと気づいて欲しいだけで、怖がらせるつもりはなかったのですが」


 つい想像してしまい、こちらの酔いが少し覚めてしまったのに気づいたのか、目の前の相手に謝られて首を振る。


 話が途切れたのを拍子に、帰る旨を告げると、まだ飲むと言う相手を前に会計の合図をして店員を呼んだ。

 なかなか来ない店員を、これまでの饒舌を忘れたかのように互いに無言のまま待ち、漸くと思うほど長い時間をかけて支払いを終えた。

 お先に失礼しますと軽く会釈をしたところで、いつのまにか立罩たちこめたぎこちなさと無言をいなすように、軽い調子で声を掛けられる。

 

「そうそう、帰ったらぜひ録画したのを観てください。怖いとおっしゃっていましたが、あるいは怖くなくなるかもしれませんよ……そうですね三日後までに観ると良いのではないでしょうか」


 言うだけ言うと、こちらの反応を気にすることもなく、おやすみなさいと手を上げさっさと席を移ってゆく後ろ姿に、何故だろうか不安と懸念が込み上げてきた。

 

 その後ろ姿を訝しげに見ながら、店を後にする。

 慣れた夜道を足早に部屋に帰ると、誰もいなかった筈の部屋、そのテーブルの上に一輪の薔薇が置かれていた。



『僕の名前を当ててください』



 と、書かれた紙と一緒に。








《了》



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