爛れる夏、ねじれる春。

ねあ

爛れる夏、ねじれる春。

1)


 カナダ留学が二学期目を迎えるころ、百音の学習意欲はいつにも増して高かった。シャワーを浴び身支度も程々にして、毎朝8:30から始まる授業に欠かさず出席している。長い艶のある黒髪を後ろで結び、中古で買った質の高いヘッドフォンから流れるピアノメドレーを聴きながら、手元のタブレットに全集中を注いでいる。バス酔いをするからという言い訳を捨て、遠い先の目標を見据え努力する彼は、側から見れば勤勉な外国人留学生だ。

 この物語において、知っておいて欲しい前提条件が一つある。百音は正真正銘の「クズ」ということだ。決してすごくイケメンではないが、端正で自信に溢れた顔立ちは、人を惹きつけるものがある。すぐに嫌われる傾向にあり、特に男友達を作るのが苦手ではあるものの、出会い頭、ファーストインパクトは総じてかなり良い。日本生まれ日本育ちながら日本人としてのアイデンティティが心底嫌いで、物事をはっきり言う、外国人マインドの持ち主だ。割となんでもできるマルチタイプで、子供の時も大人の時もある。そして厄介なのは、そんな自分が好きなのである。

 日本にいる頃からそのクズっぷりは群を抜いていた。同時に五人の相手と関係を持ち、そのうち二人を愛し、三人に好意を持っていた。そう、「愛していた」「好意」というのが結構ミソで、体だけの関係ではなく、そこに確かの精神的な何かがある。心からなだけに百音の一挙手一投足に嘘がない。ベッドの上で百音が言う「好き」の二文字は、この世の何よりも美しい魂を宿している。そんなもんだから、五人とも彼に心頭していた。友人に「いつか誰かに刺されて殺されるぞ」と諭された時も、「どんな死に方よりもかっこいい」などと返し、しまいには「愛を一人にだけ注ぐのは、動物としておかしくないか」などと開き直り、一見浮気を肯定するような言種すらするようなやつだ。それでも友としてはなかなかに面白いやつで、数は少なくとも質の高い交友関係が出来上がっていた。さっきも言ったが、ファーストインパクトがべらぼうによく、その分引っかかってしまう人が多いのは事実だ。

 しかし何が起きたのか、今の百音からは何も感じない。突出した人当たりの良さも、危なっかしい魅力も、以前の彼を構成していたものは一つ残らずこそげ落ちて、痩せこけたようにさへ見えた。百音は「クズ」だった。変わってしまって、「危険人物」という新しい名札ができた。その変化はさまざまな憶測を生み出した。全員から詰められた、お腹を刺されて食事がまともに摂れない、Xで名前と顔を晒され、日本国民から叩かれまくっているなどなど。貼られたレッテルはそう簡単に消えるわけもなく、「クズで危険なやつ」へと進化を遂げた。

 日本から遠く離れ、大学にバスの終点が集まる、学生都市とも呼べるこの町で、彼は彼なりの努力をしているのであった。

 余談だが、百音は高二でやっと理系に英語が必要なことを理解し、中二で止まっていた時計の針を力に任せて無理やり進め、半年で英検準一級に合格した。さらに難関国公立大学に現役合格しておきながら、合格通知を親の前で破り捨てて、夢を追いかけ韓国に単身で渡るなど、行動力もずば抜けていて、歩んできた人生もまた、とても濃いものだった。今までなんとかならなかったことは無く、やろうと思えばなんでもできてしまう。これもまた彼を「クズ」たらしめていた要因とも言えるだろう。


2)


 食が合わず、また毎日シャワーのみという生活にひどく疲弊している。これが初めての留学というわけではなかったため、心の準備などとっくにできていて、どんな環境にも馴染み過ごしていけると、そう過信していた。潔癖症は最初の韓国留学で治ったし、ホームシックという感覚には陥ったことがない。新しいものは全て楽しめる。僕は割と留学に向いた体質ではある。それでも三ヶ月経って、ビザが取れなかった時用に押さえていた航空券を、まさか使うことになるとは。そんなことを12時間のフライト中一定間隔で考えていた。今回の旅の目的は日本食、温泉、気持ちの整理、そしてある人に会うため。お土産も、万が一会えなかった時のために、メモがわりの手紙も用意した。連絡が繋がらないのには少し不安を感じているが、会えば変わる。そう確信している。


 初めて会った時、彼女の印象は限りなくペンギンだった。報酬の三千円に釣られ、大学のオープンキャンパスにスタッフとして参加した。一つ上の学年の彼女は去年から運営の経験もあり、頼れる先輩という感じがした。肩までの金髪でハイウエストのジーパンを履き、思いのほか長身で、その美しいプロポーションは、赤いスタッフ専用T-シャツにファッション性を付与していた。かわいい。そう心から思った。ギャル特有のノリとでもいうのだろうか。常に小刻みにぴょこぴょこ跳ねるように歩く彼女は、服の色など関係なく、ペンギンそのものだった。

 彼女とバイト先が被っていると知ったのは、次のオープンキャンパスのことだった。「◯◯◯でバイトしてるよね?私もそこのレストランでバイトしてるんだぁ」と、彼女は突然話かけてきた。僕は全く知らなかったが、自分を認識してくれていることがとても嬉しかった。その後の会話の内容は忘れたが、とても充実した時間だったことだけは覚えている。それからというもの、バイトが被ればその日が楽しくなり、いないとやはり寂しく感じた。恋だなと思った。それからはアイスを奢り合ったり、課題を一緒にする仲になった。元カノに振られて時間は浅かったが、いろんな関係を清算して臨んだ、真剣な恋だった。普段なら付き合えてから別れれば両方失うことはないと考え、若干期間が被ったり、ずるずると両方引きずったりしていた僕だったが、彼女を本気で好きになりたかった僕は、それら全てを平気で捨てた。この時点でだいぶ不誠実だが、彼女にだけは誠実でいたかった。

 春も少し深くなってきた頃、僕は思い切ってデートに誘ってみた。「ファッションセンスが素敵だから服を選んで欲しいです。」そう言ってみると、彼女は二つ返事で了承してくれた。僕はデートを楽しみ、カフェでコーヒーを飲みながら、お互いの過去の話なんかをして談笑した。自分を知って欲しいと思っていたので、元カノと別れたことなども話した。彼女の表情は豊かで、パッと明るくなったと思うと、シュンと暗くなったりした。

 ただ一つだけ予想外なことといえば、彼女は見た目に反して一ミリもキャピキャピしていなかったことだ。恋愛経験が豊富そうに見えていたが、男性経験はあまりなかった。ギャルそうで、ギャルではなかったのだ。この頃にはもう僕は、彼女に夢中だった。それも含めて、好きになっていた。

 何かの小説に「3回目のデートで告白しなければ友達になってしまう。」という一節があったのを、その3回目の前日に思い出した。幸いデートプランにはそのようなロマンチックになりうる時間があったため、言うことだけを考えて挑んだ。しかしまあ自分の心というのはかくも御しづらいので、たった数行の思いを口にするのがこんなにもむずかしいとは思っていなかった。

 結局時間だけがいたずらに過ぎ、終電で住み慣れた街に帰ってきた。星が綺麗に見える場所があると言って、絶好のチャンスを作ってくれた彼女だったが、それでも僕の口から決意の言葉は出てこなかった。そんな気持ちを悟ってか、彼女は僕に、「こんなに居心地がいい男の人は初めてかも」なんて冗談めかして言ってくれたが、それもまたスルーして一日が終わった。いやあれは12時を超えていたから、ある意味二日無駄にしたとも言える。

 やっと思いを絞り出せた頃、僕らはすでに夏に片足を突っ込んでいた。街の花火大会をバイトで見られなかったという理由で、花火がしたいと彼女が言い出した。いつか星を見た公園の高台で、僕らは細々と花火をした。なぜかシャボン玉も飛ばした。その時撮った写真がTwitterで少しだけバズったのはまた別の話。

 夜中の12時を過ぎた頃、毛布を一枚持ってきた決断が僕の背中を押してくれた。

 思いのほか冷え込み、半袖の彼女と僕は、ベンチに座り同じ毛布にくるまった。僕の言葉はあまりにも自然にこぼれ落ち、静かに心に浸透していった。

 最初こそ考えさせてと言われたものの、大きくなってしまっていた僕は、彼女が押しに弱いことを知りつつ、少し強引に付き合った。

 それでも僕らは、相性が良かった。魂の番とでも言おうか、デコとボコが重なって、うまい具合に融合していた。と思う。もうわかってきたと思うが、おそらく僕は彼女に無理をさせていた。僕は誠実さを示すために、過去の黒い経験も含め、多くを喋り過ぎた。それは次第に彼女を不安にさせ、加えてそんなことを知りもしない僕の行動が、あの華奢な首をすこしずつ締め付けていたのかもしれない。付き合って8ヶ月と13日、僕の誕生日の3日前の夜、2回目の別れ話で、僕らは泣きながら別々の道を選んだ。


3)


 「帽子を忘れたから取りに行くね。」

 別れて一ヶ月が経とうとしていたその日、ブロックできなかったラインにメッセージが届いた。人生柄、残念ながら人の好意に敏感な僕は、その言葉に埋もれる、彼女も気づいていない感情を読み取った。だからこそその想いに応えるべきだと、自分を無理やり正当化して返信した。

 「お酒余ってるから手伝って。」

 僕は彼女に「呪い」をかけた。


 その芸術的なまでの背中に恋を翳して愛を注ぐ。アルコールで少し熱った可愛らしい頬。重なるやわらかい唇から力強い思いを感じる。触れる肌を中心に温もりが全身に広がっていき、もはや懐かしくもあるこの感覚がたまらなく愛おしくなる。動く度に感じる幸福感。とても大切で捨てがたくて、また罪深いこの感情を僕は、なんと言えばいいのか。なんと言えるのか。

 明らかに爛れたその関係は、奇しくも僕らの情熱を再燃させた。彼女も同じ気持ちだったに違いない。一度求め合えば何もかも崩れてしまう。それでも期待せざるを得なかった。互いに必要とするこの関係の先に、精神的な何かがまだ残っていると。僕はまた、昔の自分にもどった。彼女をまだ、愛していた。


4)


 僕は自分を人間に値していないと思う。

 「やりなおしたい。」

 そう言って久しぶりに連絡をくれたのは、遠方に住む元々カノだった。遠距離中に一度浮気がバレて別れを告げられたが、彼女の中で整理がついて、結局は僕、という感じになったらしい。飽き性ですぐに自分の気持ちがわからなくなるため、たいていの関係は2、3ヶ月で終わらせてしまう僕だったが、自分にしては長く続いたのが彼女だった。飽きずに終わった関係は、僕に選択肢を与えた。

 「取り戻す・切る」

 そして僕は、真ん中に丸を書いた。正直にいうと、僕はどちらも愛していた。等しくはない、しかし優劣をつけるなんてことはできない。色や形は違えど、どちらも愛。会えば一緒にいたくなり、触れれば傍においておきたくなった。


 事件はすぐに起きる。

 カナダ留学が決まった頃、遠くにいる彼女が僕を訪れることになったのだ。もちろん彼女らは互いの存在を知りもしないわけだが、天罰を受ける日が来ようとは思いもしなかった、いや、内心いつ来るのかと怯えていたのかもしれない。


5)


 僕は片付けがとても下手くそだ。もう不得意の域を超えて、不可能という言葉の方がしっくりとくる。冒頭でも話した通り、基本的に僕はなんでもできるが、恐ろしくできないことが稀にある。短距離、息継ぎ、正常な倫理観、人の指示を完璧に遂行することなど、常人ができることができないことがある。僕が常日頃から思う、絶対値理論という思考の震源地でもある。そのできないことの一つに、整理整頓がある。それを知っていた彼女は、優しさか、はたまた愛か、それとも期待かを胸に、片付けの手伝いにきてくれた。そしてほぼ彼女のおかげで僕の部屋は、業者が清掃して行ったかのようにピカピカになった。僕はお礼にご飯を作り、いつものように狭すぎるベッドに二人で横になった。僕は僕のしていることを心底軽蔑しているが、抜け出すことなどできなかった。それはきっと向こうも同じだった。

 遠方から遠距離中の彼女がきたのは、その4日後だった。札幌観光をして近くのホテルを予約して、夜まで歩き回った。ホテルに入ってからは、二人とも疲れがどっかに飛んでいった。エアコンの設定温度を2度下げたところで、あの頃の感情と記憶が蘇る。互いに確かめたのは、紛れもなく愛だった。

 翌日になって不意に遠方の彼女が「百音の住んでいる街に行きたい」と言い出した。僕の通う大学、バイト先、行きつけのコンビニまで、見てみたいというのだ。その日の予定を全てキャンセルして、電車に乗って街に戻った。僕は自分に興味を持ってもらえた気がして、ウキウキで街を案内をした。そして居酒屋でお酒を飲んだ後、〆に街に唯一のカラオケに行くことにした。

 併設するゲームセンターに脇目も振らずに素通りし、カラオケの受付カウンターに行った。自慢じゃないが、僕は歌も歌える。それを生業にしかけたことすらある。だからもう、何を歌おうか、どうやって僕にさらに惚れてもらおうか、それしか考えていなかった。鼻の下を伸ばしながら廊下を並んで歩いて、一つ目の角を曲がった。たくさんある部屋から溢れるいろんな声に、心の中でちょっとずつ酷評をしながら、二つ目の角に差し掛かった時。見覚えのある背格好と匂いの女性と鉢合わせた。瞬間、若干のけぞって、え?と言いかけた。僕の真っ赤な血液が逆流し始め、色も真っ青に変わった。血の気が引いていくのを感じ、急激に体温が下がった。向こうも向こうで、目を見開いた。同じような現象が彼女の血管内でも起こっているのがわかる。そしてふと、彼女は僕の知らない顔をした。感情は読めないが、間違いなく負のオーラを纏う。そう、きっとあれは絶望に違いない。知らない顔をしたと思うと今度は、さっと目を逸らしそそくさと店の外へ向かって行った。店員さんが「おきゃくさん?」と後ろから声をかける様子を背中で感じた。振り返れなかった。僕は知っている。今彼女に少しでも心を傾けてしまえば、両方を失う。こんな緊急の時でさえ、どうしようもなくクズな僕の脳は、保身のための次の行動を構築していた。「お水持ってくるから部屋に行ってて」などと言い、彼女が角を曲がり切るや否や、踵を返してエントランスへと走った。支払いをしていない彼女は、まだ遠くへは行っていないはずだ。そう冷静に分析しながらも、万が一を考えてしまうほどに僕は焦っていた。心臓が、体の至る所にあった。お腹、腕、足、首、そして耳。どくどくと音がして、次第に耳が機能しなくなった。ゲーセンの中で奇妙にも無音を体験した。体が浮いていたが、どうにか泳いで玄関の自動ドアを出た。彼女は思ったほど遠くへは行っていなかった。この世の感情という感情を全て混ぜたような表情だったが、彼女の目からだけははっきりと憎悪が滲み出ていた。

 「来ないで。話しかけないで。お願いだから。」

 奥歯の音が聞こえる。キリキリと、必死に怒りを抑えている。そして忘れかけていた呼吸をして、僕の横をナイフで切り付けるように通り過ぎ、店内へと戻って行った。僕はその後を追いかけたが、一言も話しかけず、会計カウンターの、今にも泣きそうな背中の彼女を横目に、水を持って部屋へと急いだ。そこからの記憶はあまりない。歌は歌ったが、どの曲も単調に聞こえたに違いない。それでもなんとか家に着いて、綺麗な部屋で一晩過ごした。もちろん寝れるわけもなく、結果的にだったが、掃除までしてもらった部屋で別の女と一緒にいるわけだから、向こうの心中は想像に難くない。想像に難くなく、そして想像を絶するものだったはずだ。


6)


 百音は、彼女が遠方に帰り一週間が過ぎた頃、このアクシデントをモザイクをかけて、都合よく改変して友人に伝えた。そして彼らの協力のもとなんとか彼女と話す機会を得た。一通り泣いて気持ちの整理がついたのか、落ち着いた様子で、いつものように百音に接する彼女をみて、彼は心から反省した。今後は絶対にボロを出さないようにしよう。ここでもやはりクズに変わりはないが、彼の心の奥深くには、行き場を失った二つの愛が露頭に迷っていた。百音にとって、これらは真に愛であり、どちらのことも傷つけたくはなかった。しかしそこには、百音自身のエゴもあり、彼女たちを沼から掬い上げようとはしなかった。その代わり彼女たちの足元に、息ができる程度に頭を出すための、沈まないが上がることのない足場を用意した。それでもその愛は本物で、もうそれは、一周回って居心地が良かった。だからこそ彼女はまた百音を求めた。百音もまた、最大限に真実の愛を注ぎ込んだ。


 それから一ヶ月と少し経って、百音がカナダへ旅立つ前日に、ベッドの中で彼女は百音に告げる。

「もう会わない。」

それでも、

「日本にはもう帰らないかもしれない。」

と百音がいうと、背中に回る細い腕にはぎゅっと力が入って、彼の体を強く引き寄せた。それは同時に彼女の心をも縛った。

 彼女の愛もまた、本物だった。


7)


 事がねじれはじめたのは、彼女が急に百音に返信しなくなった時からだった。百音は大きく動揺した。カナダにきて連絡をとり続けていた彼にとって、それはあまりに突然で、予想だにしなかったことだった。

 最初こそ百音は、安全面を心配していたものの、共通の友人から男ができたと知らされて初めて、自分の置かれている状況に気がついた。日本でまた会える日を心底楽しみにしていたせいで、恐ろしいことに、彼女へのプレゼントやらなんやらをちゃんと用意していた。百音の夢は、泡になって一瞬で消えた。ああ、捨てられるとはこういうことなのか。自分が犯してきた罪の重みを改めて理解した。

 それでも彼はどこまでも「クズ」で仕方がない。簡単に言えば取り戻そうとしたのだ。愚かなことだが、彼にはそれが可能だと、確信に似た自信があった。なにぶん友人の話だと、利用しているだけで付き合うことなんて絶対にないと言っていたらしい。それも一つの理由になった。会ってしまえばまた戻れる。彼女の手をもう一度引いて、強く優しく抱きしめよう。ありったけの愛を示そう。そうすれば、相手がどんなにイケメンでいいやつでも彼女は戻ってくる。そう信じて疑わなかった。

 百音はその自信とお土産を引っ提げて、一時帰国した。そして数日の期間を経て、クリスマスイブの前日の夜、とうとう彼女の家の前にやってきた。部屋の電気がついているのは外から確認した。言いたいことも三つにまとめ、緊張ではち切れそうな胸に手をあてながらインターフォンを押した。しばらくしてスピーカー越しに心地よい声が聞こえる。全てが無駄になる気はしていたが、名前と用件を伝えると、部屋に友達がいるとは言ったものの、思いのほか彼女はすんなり玄関にやってきた。そして玄関が開きチェーン越しに一言。

 「帰ってきたの?」

 第一声は予想の範疇を超えていなかった。そして絞った三つの質問をした。しかしそれらの答えは全て、百音が想像しうる返答の中で最も残酷なものだった。

「お土産と、それと借りてたお金、返しにきたんだよね。」

「え、そのために帰ってきたの?」

「まあ他にも確認したくて。三つだけ、いい?」

「うん。」

 希望が薄過ぎてもはや消えかかっていることは、さすがの百音もその肌で感じていた。しばらくの沈黙の後百音が声に出す。

「男、できた?」

「うん、できた。」

予想はしていたが、いざ面と向かって言われるとなかなか痛いのだ。しかしそれは百音にとって大切な質問ではなかった。続け様に二つ目の質問をした。

「今日、まだホテル取ってないんだけど、まあ、友達いるから泊まれないか。」

若干自己完結気味ではあったが、それにもはっきりと「今日は友達いるから無理。」と彼女は言った。ここで諦めないのが百音である。なんならむしろ希望を見出してた。「今日は」とはつまり、別日ならいいということだろうか。そんな考えに陥っている百音は「クズ」ぶりを発揮した質問を続ける。

「じゃあ、俺はもういらない?」

 百音は知っていた。これではまるで、彼女が悪者かのような言種だ。もちろんわざとだ。これには少し違和感を覚えたのか、嫌な顔をして答える。

「何その言い方。」

呆れたように鼻で笑う声に、暖かさはない。

「俺は割と寂しかったから。男できたならそう言ってくれればいいのに。」

「それは本当にごめん。ちゃんと言えば良かったね。」

 百音はそこから粘った。部屋に友達がいることも知りながら。そしてそれは多分新しくできた男で、その子が誰かも友人たちから聞いていた。それでも、すでに百音の手から離れた彼女を、とられるのだけは嫌だったのだ。

 ついに百音は理解した。彼女はもう、自分のところには帰ってこないのだと。そして荷物を預けている友人の家に歩き出す。スマホの画面には、凛々しいフォントで“0:04”が映し出される。スーツケース片手に、氷道を歩く百音の後ろ姿は清々しく、一周回って最高のクリスマスイブだと自分に言い聞かせた。


 友人の家に着いた僕は、暖房の届かない寒い玄関で体育座りをしてホテルを探していた。「部屋が汚いから片付ける。それまではそこにいろ。」と友人に言われ、頭を冷やすにはもってこいだと、自ら進んでそこに滞在した。

 突然インターフォンが鳴った。友人が無表情で、しかし目だけはひどく泳いで、ドアを指差す。彼女がすぐそこにきている事は容易に想像できた。ただし、二人の男を連れていた。

「彼氏の●●●●です。」

顔見知りの彼は不安な顔を必死にしまい込んで、しっかりとした軽蔑の目で僕をみる。いや睨んでいる。

「迷惑なんで、もう関わんないでもらっていいですか?」

彼の声はひどく低く、怒りが伝わってくる。背後には、しっかりと手を握られた彼女もいた。そしてふと僕は友人の話を思い出した。そして振り回されないように頑張ってね。なんて口走りそうになったが、寸でのところで踏みとどまった。

「ごめんね。色々と。」

それだけ言った。彼はそれでも不安な顔をしていた。するともう一人の男の子が口を挟んできた。

「すぐ帰るんすか?」

風貌を見るに、少しヤンチャをしているようにも見える彼は、火種を起こそうとしていた。何かあれば彼が僕と喧嘩をしてくれる役だったのだろうと思う。

「まず名乗ったら?」

そう聞くと、彼氏の友達のいとこですとだけ言った。きっとやさしい子なんだろうと思った。不安そうな彼女を守る彼氏、その彼氏の用心棒としてきた彼に、感動すら憶える。しかしそんなに格闘派に見えたのだろうか。殴りかかるような危なっかしさを見せた記憶はないだけに、謎だった。友人の家の前で、怪我をさせて暴行罪で捕まったりはしたくないので、挑発的な彼の言動は流した。そして少しほっともした。彼氏はいい人だ。面識がある分それは自分でもわかっていた。その切実さには目をみはるものがある。彼らがいなくなるのを音で確認してから、そっとドアを閉じた。

 爛れた夏を覆い隠すように、雪が降っていた。


8)


 雪が溶け、暖かさが頬をかすめていく季節。七ヶ月間のカナダ留学が終わりを迎えた。帰国してからも僕らの人生はねじれたままだ。大学の廊下でのすれ違いざまや、エレベーター内で鉢合わせた時も、僕の心には波一つ立たない。堕ちたなぁと、心底思う。願わくば彼女にも、そうあって欲しい。お互い何も感じる必要はない。そんな無駄なことはするべきではないと思う。

 彼女の物語の中で僕は死んだ。僕も彼女を殺すことにする。少しだけ針で刺されたような痛みを感じた。二本の直線は二度と交わることはない。


 命の香りがして、ねじれた春がやってきた。




あとがきにかえて


 百音のしたことは許されないことであり、世間的にも宗教的にも良しとされてはいないと思います。「浮気」というテーマは、ある種プラットフォーム化されていて、題材としてはとても扱いやすく、リアリティを出すことは割と容易ではありますが、この「爛れる夏、ねじれる春。」においては、起きたことよりも「浮気」をする人の心に焦点を当て、自分と世間との間にある深い溝に苦しむ青年を描きました。あるドラマで主人公が言っていた、「真実は人の数だけあるが、事実は一つ。」というセリフそのものと言ってもいいでしょう。「浮気」には理由があって、それは私たちからしてみればただの言い訳で、それでも彼の中では筋が通っている。そんな百音には、自分の胸の内を語る、少しの猶予くらいはあっていいと、私は思います。

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爛れる夏、ねじれる春。 ねあ @ner_kpop

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