ふたりのはなし

冬 時見

ふたりのはなし


 

皮膚に当たらない風の上を、銀色の糸みたいな埃が泳いでいた。窓辺の話だ。

そこが空き教室になっても、遠のいた足音が耳に残っていた。水たまりを見て雨を感じるように、音が去っても、誰かの気配の残りカスみたいなものを感じて、しばらく教室は落ち着かないのだと思った。

僕は、その椅子に座りたいと思っていた。そうして、座ってしまおうと思った。なぜだかわからないけれど、ずっとそうしてみたかったのだ。

本棟から離れたここ一号館には、人通りが少ない。きっと誰も来ない。わかっていながら、恥部を隠すみたいに、二つある青い扉をどちらも閉めた。できるだけ素早く閉めようとしたら、扉の向こうの廊下で、ばたんと大きな音が響いた。

教室は四角形だったが、景色は扇形に広がっていた。

座ってみると、やっぱり、暖かかった。やっぱり、ということは、期待していたのだ。ぬくもりはおしりの形をしていた。さっきまで千夏が座っていたからだ。

僕は、性欲ではないけれど、それに近い興奮を感じた。

僕は変態だろうか? 自問して、少しだけそうだろうと思った。けれど、僕が知らないだけで、見たことがないだけで、聞いてみたことがなかっただけで、僕の変態と似たそれを、実はみんな、どこかに、あるいはどこかで隠し持っているのだ。

 

   〇

 

千夏は三十三歳の教員だった。きちんと梳いた短い髪、黒いスーツに、スカートから覗く決して細くない、生白い足。白いけれど少し膨らんでいる頬、飾り気のない顔は芋っぽく、化粧をしているようには見えない。彼女は三十代前半で、男に愛されることを諦めているみたいだった。しかし、僕にはそれがよかった。細い目に大きな涙袋、授業を面白くしようとして、ぜんぜん面白くない、そういう不器用さが、特に。

「先生」僕はリュックを背負って彼女に声をかけた。

「はい?」千夏は座っていたから、見上げる形になった。

「今度、食事にいきませんか?」

視界の外で、生徒が、次々と教室を出ていく音が聞こえていた。

「食事?」

「はい」

「どうして?」

「ぼく、先生と仲良くなりたいんです」

「はぁ……」

千夏は別に嫌な顔をしなかった。

「この前、赴任したばかりで、お昼ひとりで食べてるって言ってたじゃないですか」

「それ、憶えててくれたんだ……」

「はい、憶えてました」

「……じゃあ、いまからお昼いくんだけど、一緒にどうかな。付き合ってくれる?」

「勿論です」

僕から誘ったのに、わざわざ誘い返してくれるあたりが、おかしかった。

千夏はサラダを頼んだ。僕はそばを二つ頼んだ。黄緑色のトレーをもって席に着くと、

「多くない?」と、ようやく笑われた。

「育ち盛りですから」

僕はそう言った。うまく返事できたか、少し気になったが、気にしないよう努めた。一緒に手を合わせ、食べた。彼女がお箸を動かしている間、僕は時折、彼女の顔を盗み見た。見つめすぎて、途中で目が合ったりだとかは、しなかった。食事中は殆ど会話がなかった。おいしいとか、あついとか、そういうことは言った。

トレーを返却口に流したあと、話しながら冬の校舎を少し歩いた。それは、研究室までの道のりだった。空が曇っているのを見て、「どんな天気が一番好きですか?」と訊ねた。退屈な質問だったけれど、彼女はうーんと言って、ちょっぴり悩んでくれた。

「私は、雨が好きだったりする」

「どうしてですか」

「小さい頃、雨に濡れるのがすきだったの」

「変わってますね」

「さすがにもうしないけどね」

「どうしてですか」

「もう若くないから」

「まだお若いですよ」

僕がそう言うと、千夏は笑顔を作った。

「じゃあ、僕はここで」

と言った。彼女も小さく手を振った。

足を方向転換させると、背中に声をかけられた。少し大きな声だった。

「ごめんなさい。あの、お名前、なんだったかな」

「村上です」

「村上くん。うん。憶えた。今日はありがとう」

「はい」

「またいつでも研究室にきて。お昼は暇だから」

「はい。ありがとうございます。それじゃあ」

「うん。また」

僕は昂った気持ちを、地下鉄の改札までもっていった。

そして、小さなこぶしを作り、発散した。


それから僕は、千夏の研究室によく足を運ぶようになった。短期間のうちに仲良くなるのは良くない気がして、計画的に足を運ぼうと思っていたのに、毎日通った。どうやら僕は、彼女と話すのが好きらしい。

彼女は僕の淹れたコーヒーが好きらしかった。インスタントだから、自分でやればいいのに、よく頼まれたものだった。

その日も、僕と彼女は、青い長椅子に隣り合って座っていた。僕らは毛布を引き延ばし、それをひざ掛けにしてコーヒーを飲んでいた。研究室には窓があって、枯れた木が左に伸びていて、たまに小鳥がその枝にとまる。

「寒い」

「うん。寒い」

「君が寒いのは、こんな薄い生地のやつ着てるからだよ」

千夏はそう言って、僕の服をぴろぴろとなびかせた。彼女の爪には、おとなしめの赤いマニキュアが塗られていた。

「そのマニキュア。かわいいね」

「そうかな」

彼女の指が天井に向かって背伸びした。

「ほんとうに寒い」

小動物みたいな手が、毛布の中にもぐった。

二分間、僕らは顔も合わせなかった。その間に湯気は立たなくなった。僕は彼女の膝に触れないよう、毛布をちらりとめくった。スカートをめくったみたいで、悪いことをしている感じがした。彼女は楽しそうに僕の様子を見守った。僕は、彼女の手を握り、握ったまま、膝上に戻した。そして元通り毛布で覆い、土を均すみたいに上からとんとんと叩いた。彼女と一緒に微笑んだ。鼻がふふんと鳴った。

それから五分後。彼女は大胆にも、僕の右肩に頭をよせた。

思わず、彼女にキスをしたくなった。そして実際に、した。


彼女の食卓にはてんこ盛りの野菜が頻繁に並んだ。千夏は、野菜は食べることは他の料理を咀嚼するより楽で、つい、偏った食生活をしてしまうのだと言う。だから僕は、千夏のためによく料理をしてあげた。ありがとうと言われる度、あなたには健康でいてほしいと返事をした。

その日はプルタブが開いた。僕はまだ未成年だから千夏がそれを飲んだ。千夏は酷い酔い方をしない。いまはすっぴんだから、酔うとすぐにわかる。

すっぴんの彼女は、やっぱり三十代のひとだ。つまり、正直に言うと、あんまり可愛くはない。けれど、僕はそれでよかった。彼女が美しく居るより、少しブスだけど、すっぴんで居てくれる方が、僕は自然と嬉しいのだ。

「つまらないかな、私の講義」

彼女に訊ねられた。僕は思っていることと反対のことを言った。レジュメの出来を褒め、しかし若い人にはとっつきにくいテーマだと思うと付け加えた。僕がそう言うと、彼女は笑った。

「君だって若いくせに」

彼女は机の下で、足の甲を、舐めるように足で撫でた。白い靴下の上を、タイツが這った。僕は椅子を立ち、彼女の傍に行ってキスをした。口の中で彼女の舌が動いた。二人の唾液が入り混じった。たまらなくなり、彼女を持ち上げ、優しくベッドに寝かせた。

「電気は消して」

僕は悪戯に無視をして、シャツのボタンを外し、何度も見た味気ないブラを、今日も見た。


   〇


「続いてるの?」

料理が運ばれてくるより前に、北村に訊ねられた。

「うん、付き合えてはいないけど」

「ふーん」

彼女は鼻を鳴らして、店の外を眺めながら、水を一口、二口飲んだ。窓の外には少し遠くなった青空があった。夏に比べ、色素が薄い。

「先生のどこがいいの?」

僕は少し笑った。

「なんでそんなこと聞くの」

「聞いちゃだめだった?」

「いや、いいけど」

「どこがいいの?」

僕は考えた。しかし、答えはなかった。僕にとって愛は、見つけるものではなくて、許すものだ。つまり僕は、千夏の悪いところまで好きだ。

「じゃあ、結婚とか、考えてるの」

「わかんない。でも、いつかはしたいかな」

「でもそれってやばくない?」

「なにが」

「歳の差、すごいじゃん」

「まあ、そうだけど」

テーブルに視線が落ちた。

「悪いこと言わないから、やめときなよ」

「どうして」

「君はまだ若いから」

「若かったら、だめなの」

「そういうのじゃないけど。でも、勿体ないし、正直、」

「正直?」

「正直、痛いよ」

それから、僕は何も言い返さなかった。面倒だったから。

コップの水の水面が揺れているように見えた。


家に帰ると、千夏に抱きついた。

「どうしたの」

彼女はびっくりしていた。僕は、付き合ってほしいと口走った。言葉が宙に浮いた。逃げ場を失った熱のように。返事もままならない彼女にキスをし、押し倒した。凄まじい性欲を感じていた。千夏の喉が酸素を求めて、むぐ、むぐと喘いだ。彼女のボタンがひとつ弾けた。ブラの下のおっぱいを揉んで、下着に手を伸ばそうとすると、彼女はそれを、やんわりと拒んだ。無理やりだった僕は、それで我に返った。

「ごめん。今日、生理なの」

「おれも、ごめん」

彼女は首を振った。

「どうしたの」

改めて聞かれ、僕は今日のことを話した。

千夏はそれを静かに聴いてくれた。何度か空まわり、気持ちが先行し、同じことを言った。まるで、終わらない円をぐるぐる回るみたいに。

それでも千夏は、静かに聴いてくれた。間違いなくそれは許しだった。

「渡辺君はさ」

「うん」

「渡辺君は、私と、どうなりたい?」

「さっき言ったよ」

「……うん」

「でも、それ以上のことも」

「私も渡辺君のことが好きだよ」

「うん」

「君も知ってると思うけど、私も好きなんだ」

「うん」

「実は、ずっと考えてた」

そうだったんだ、と僕は素直に思う。

「私と君は、二倍も生きた年数がちがうから」

「たった十四年だよ」

んーんと彼女は控えめに首を振った。

「こわいの」

「なにが」

「十代の子と付き合うのは、こわいことなんだよ」

さんざんセックスをしておいて、何を言うのだろうと思った。

僕はフローリングの目で溝をなぞった。彼女のたるんだおっぱいと、下着が見えていた。

ふたりのはなしがしたかった。

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ふたりのはなし 冬 時見 @huyutokimi

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