第67話 黒鉄の幽鬼

 その怪物の噂が、まことしやかに囁かれるようになったのは、剣聖アレスの捜索打ち切りが公表されて間もなくのことであった。


 血塗られた黒鉄の鎧を身に纏った大男。身の丈ほどもある巨大な剣を手足の如く自在に操り、自らの前に立った者を容赦なく斬り捨てるという。


 まるで、この世の全てを憎んでいるかのように、たとえ眼前に立つ相手が女子供であっても、怪物は躊躇うことなく剣を振り下ろしたと、辛うじて難を逃れた者たちは語る。


 ──"目が合ったら、急いで武器を捨てろ"。


 ──そして、祈れ。相手が気まぐれな親切心から、こちらを見逃してくれることを"。


 黒き騎士の姿をしたその怪物を、人々は畏怖の念を込めてこう呼んだ。


 ──"黒鉄の幽鬼"ラルヴァ、と。











 ──"話したいことがあるから、来て欲しい"。


 通り掛かった巫女からセラフィナの言伝を聞いたシェイドは、即座に鍛錬を切り上げて大神殿に併設されている練兵場を後にし、セラフィナに宛てがわれている客室へと向かった。


 流れた汗をタオルで拭いながら室内に足を踏み入れると、優雅な所作で紅茶を口に含むセラフィナに、焼き菓子を小動物のような仕草で食するキリエ、相棒たるセラフィナの傍に侍るマルコシアスといった面々が一斉に、姿を現したシェイドへと視線を向けた。


「──こうやって顔を合わせるのは久しぶりだね、シェイド。元気にしてた?」


 すっかり元通り……とまではいかないものの、心身共にある程度回復した様子のセラフィナからの問いに、シェイドは軽く頷いてみせる。


「──元気かどうかはさておいて、一応は動ける程度に回復したよ。折れた左腕も、今じゃすっかり元通りだ」


 わざとらしく何度か左腕を大きく振ってみせると、セラフィナは胸に手を当てながら安堵の溜め息をほっと一つ吐いた。


「……良かった。アッカドの件では、君たちに迷惑を掛けてしまったね。色々と」


 隣に座っているキリエの様子を慮るように視線を動かしながら、セラフィナは深々と頭を下げて謝罪の言葉を口にする。


「ごめん──私がもっとしっかりしていれば、君たちが酷い怪我を負うこともなかったのに」


「セラフィナ……」


 セラフィナを救い出す為、万夫不当と謳われる大精霊パズズに挑んだシェイドとキリエ。両者とも戦いの中で深手を負い、特にキリエは脇腹が大きく裂けるほどの深刻なダメージを受けた。常人ならば容易く死に至るような深く重い傷。


 何とか一命は取り留めたものの、キリエの脇腹にはこれから一生、パズズとの戦いで負った惨い傷痕が残り続ける。そうなってしまった原因は自分の不甲斐なさにある。セラフィナの胸中には罪悪感が大きな渦を巻いていた。


「……話っていうのは、それだけか?」


 シェイドが尋ねると、セラフィナは目を伏せながら小さく首を横に振る。言うべきか否かで、大いに迷っている様子だった。


 やがて覚悟を決めたのか、セラフィナはゆっくりと顔を上げると、


「──私が、君たちに助力を乞う資格なんてないことは分かってる。でも、それでも……」


「…………」


「……お願い。君たちの力を貸して。行方を眩ませてしまったあの人の……養父アレスの行方を追う為に。私の力だけじゃ……全然、足りない。どうしても、君たちの力が必要なの」


 再度、深々と頭を下げるセラフィナ──シェイドとキリエは互いに顔を見合わせると、小さく……けれども力強く頷く。


 そこに葛藤は、微塵も存在していなかった。


「──良いよ、セラフィナ」


「……え?」


 シェイドの言葉に目を丸くするセラフィナ……そんな顔も出来たのか、と感嘆しつつ、シェイドは言葉を続ける。


「受けた恩が大き過ぎて、な……どうやって返したものかと、丁度困っていたところだ。これは君から受けた恩を返す、またとない好機。違うかな?」


「それ、は……」


「それに……嬉しいんだよ。俺たちの力が必要だって、君が言ってくれたことが。他の誰よりも強い君が、他ならぬ俺たちの力を必要としてくれている……こんなに嬉しいことが、他にあるものか」


「……寧ろ、私たちの方からお願いさせて頂いても宜しいでしょうか、セラフィナ様。貴方様の旅に、これからもどうかご一緒させて下さい」


 震えるセラフィナの手をそっと握りながら、キリエが優しく声を掛ける。


「……これからも私は、貴方様のお傍に居たいのです。砂時計の砂が全て落ち切り、世界が終わりを迎える、その日まで。親愛なる貴方様のお傍に」


 その言葉に安堵したのだろうか。強ばっていたセラフィナの華奢な身体が目に見えて脱力したかと思うと、今まで聞いたこともないような大きな溜め息が、薄桃色の小さく可愛らしい唇から飛び出す。


「……二人とも、初めて会った時はそんなこと言うような性格じゃなかったのに、ね。一体、誰に似てしまったんだろうね?」


「さて、ね……命の恩人にでも、似たんじゃないか?」


「そう、ですね……命の恩人に、似たんだと思います」


「……ありがとう、二人とも。それから……これからも宜しく、ね?」


 少し照れくさそうに指先で頬を掻きながら、セラフィナはそう言ってはにかむ。


 何時も無表情な少女が時折こうして見せる、歳相応のあどけない姿。それは見る者たちの庇護欲を掻き立てるには十分だった。


「──それで、どうやって捜すつもりなんだ?」


「それなんだけどね……カイム?」


 セラフィナに名前を呼ばれると、彼女の肩に留まっていた小さな鶫が何度か翼を羽撃かせる。


「そいつは……鶫か?」


「まぁ……可愛いですね。療養生活中に、懐かれてしまわれたのですか?」


 眼前の鶫がさも、普通の鶫であるかのように接する二人。それも無理からぬことである。彼が自ら交流を試みない限り、誰の目から見ても普通の鶫にしか見えないのだから。


「……お前たちの目は節穴か?」


 鶫が言葉を発すると、シェイドもキリエも、まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をして驚く。それもまた無理からぬことである。可愛らしい鶫の口から低い男の声が聞こえれば、彼らでなくとも肝を潰したに違いない。


「……まぁ良い。我が名はカイム。堕天使カイム。同胞エリゴールからの要請により、そこの小娘に助力することとなった。お前たちと馴れ合うつもりはないが、精々宜しく」


「…………」


「…………」


 早速、この場に立ち込める空気が悪くなってきているが、こればっかりはどうしようもない。早く慣れてもらう他ないだろう。


「……話を戻すね。彼……カイムは、ありとあらゆる言葉を識る堕天使。その能力を駆使して、各地の情報を収集・整理して貰っているんだけど……その中に一つ、気になるものがあったんだ」


「へぇ……」


 胡散臭そうな目でカイムを見るシェイド。そんな彼を冷ややかな目で見つめ返しながら、カイムは淡々と情報の内容を告げる。


「──"黒鉄の幽鬼"ラルヴァ。アレスの捜索打ち切りが公表されたのと時を同じくして、各地に出没し始めた連続殺人鬼」


「黒鉄の幽鬼……ラルヴァ……」


「血塗られた黒鉄の鎧を身に纏い、身の丈ほどもある大剣を手足の如く自在に操り、自らの目の前に立った者たちを容赦なく斬り捨てる黒き騎士」


「……それが、セラフィナ様のお父君とどう関係が?」


 キリエの問いに対し、カイムは事務的な口調で応えた。


「ラルヴァは血に飢えた剣鬼ではあるが、武器を持たぬ丸腰の者は殺さない。丸腰であったがゆえに辛くも難を逃れた者が、わずかではあるが存在する」


 その者たちは皆、口を揃えてこう言った。彼の剣鬼の振るう剣は悍ましいながらも同時に極限まで洗練されていて美しく、まるで剣聖のようであった、と。


「──あの人の捜索打ち切りが国から公表されるや否や、まるで入れ替わるようにして現れた黒鉄の幽鬼ラルヴァ。どうにも、無関係とは思えないんだよね」


 確かに、アレスの捜索打ち切り公表と入れ替わるように彼の剣鬼はぬるりと姿を現した。偶然の一言で片付けるには、余りにもタイミングが良過ぎるような気もする。


「と、なると……」


「うん。ラルヴァを見つけ出そうと思うんだ。勿論ラルヴァとあの人が、全くの無関係の可能性もあるけれど……当てずっぽうで動くよりは、遥かにマシ。そうでしょ?」


 方針は定まった。あとは、行動に移すのみ。


 "黒鉄の幽鬼"ラルヴァ──血塗られた彼の剣鬼とセラフィナたちが運命の邂逅を果たすのは、そう遠くない未来のことである。

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死にゆく世界で、熾天使は舞う 輪廻 @Maro2000

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