第三章
第66話 緋き異端者
聖教会自治領、聖地カナン──
教皇執務室の扉がゆっくりと開かれたかと思うと、豪奢な法衣を身に纏った初老の男が入室してくる。
「──お呼びですかな、教皇聖下?」
深刻そうな表情を浮かべ、眉間に皺を寄せている教皇グレゴリオを見つめると、枢機卿クロウリーは白い歯を見せて不敵に笑う。
「……おお、クロウリー卿。其方を呼び寄せたのは他でもない。各地で相次いでおる要人暗殺の件について、其方の見解を聞きたいのだ」
精霊教会の崩壊以後、聖教会勢力の要人が各地で暗殺されている。現場には必ず犠牲者の血で、何やら意味深な文章が残されていた。
──"女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に墜ちた"。
「ふむ──」
グレゴリオの言葉を受け、クロウリーは顎に手を当てる。ハルモニアの仕業、という訳ではどうやらなさそうだ。
ここ数日の、各地に展開している異端審問官たちからの報告と照らし合わせながら、クロウリーは現況の整理を試みる。
「──関係があるか否かは、現段階では測りかねておりますが。近頃、各地で自殺者が急増しておるようですな。同時に、堕罪者の数も」
「うむ……」
実に痛ましいことだ。沈痛そうな面持ちのグレゴリオとは対照的に、クロウリーは如何にも他者の生き死にに興味がなさそうである。
「これらを踏まえて、僭越ながら私見を述べさせて頂きますが……最も可能性が高いのは、
それが事実なら、新たなる異端の教えが聖教会の勢力内に出現したということになる。ハルモニアや精霊教会のような脅威となる前に、予め摘んでおく必要がありそうだ。
「おぉ……クロウリー卿。我らは一体、如何すれば良いのだろうか」
それくらいのことさえ、自分で考えることも満足に出来ないのか。この間抜けめ。
クロウリーは内心毒づくも、それを表情には出さず飄々とした態度で、
「──落ち着き下さい、教皇聖下。斯様な事態を想定し、我ら異端審問会が発足した歴史をお忘れか?」
グレゴリオはそれを聞くと、安堵の溜め息を吐く。百面相とは、彼のためにあるような言葉であろう。眼前の男が聖者グレゴリオの血を引く家の末裔とは、クロウリーには到底思えなかった。
端から彼のことを操り人形程度にしか考えていない自分自身は兎も角、真面目にグレゴリオを教皇として推した者たちは目が腐っているのではないだろうか。
「ご安心なされよ。我が目の黒い内は、異端者など恐るるに足らず。必ずや、奴らの息の根を止めてご覧に入れましょうぞ」
「何と、頼もしい。クロウリー卿……聖教会の希望よ。聖女シオンに其方、そしてレヴィがこの地におる限り、我が聖教会は安泰だ」
顔を綻ばせるグレゴリオとは対照的に、シオンとレヴィの名を出されたクロウリーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
シオンとレヴィ……両者のことを、クロウリーは快く思っていない。次期教皇に民衆からの人望厚いシオンを推す声もあるが、クロウリーに言わせれば狂気の沙汰である。
雌鶏歌えば、家滅ぶ──組織の長に女を擁立するなど、保守的なクロウリーにしてみれば自ら破滅の道を進んでいるようにしか見えなかったのである。レヴィという前例が出来てしまった以上、シオンを教皇に推す声は更に高まってゆくことだろう。
歴代の教皇は、全員男……シオンが選出されれば史上初の女性教皇となる。それだけは、何としてでも阻止しなければ。
「では、私はこれにて──」
悠然と身を翻すと、クロウリーは教皇執務室を後にする。昏く澱んだ双眸に、仄暗い焔が音もなく灯った。
「……今は良い。今は、な。我らは異端者の殲滅に注力しようぞ。だが、若しその時が来たならば、それがお前たちの最期となろう。なぁ、聖教騎士団長レヴィ……そして聖女シオンよ」
そう呟くクロウリーの口元には、邪悪な笑みが浮かんでいた。
同時刻──
帝都アルカディアの大神殿にて──
「──状況を報告せよ、我が友ベリアル」
「はい、陛下──」
無表情の皇帝ゼノン。余裕の笑みを湛えるベリアル。こちらもこちらで、実に対照的である。
「──精霊教会の崩壊から間もなく、ハルモニアの各地で有力貴族や国教会の要人が相次いで殺されております。"獣の教団"の仕業のようですね」
「獣の教団、か……奴らの目的は?」
「──"女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に墜ちた"と謳っております。どうやら、旧来の神に代わる新たなる
「……神を騙る者に、碌な者はおらんな」
「えぇ──全くです」
ゼノンとベリアル──両者は互いの顔を見つめ合うと、心底愉快そうに笑う。
「──それで? 獣の教団は、このまま暫くは泳がせておくつもりなのか?」
「泳がせておく必要はありませんが……派手な動きを見せるまでは、まぁ様子見で宜しいかと。アスモデウスが既に、彼の教団の調査並びに監視を開始しております。大概の動きは、こちらに筒抜けですよ」
「ふっ……アスモデウスの奴、久方ぶりの仕事だと張り切っておったわ」
それまで黙って聞いていたバアルが、うきうきで出掛けるアスモデウスの後ろ姿を思い出したのだろう、口元を手で押さえて今にも吹き出しそうなのを必死に堪えている。
「それにしても──獣の教団の首魁は、果たして何者であろうな?」
アモンがベリアルに問うと、ベリアルは何度か肩を上下させながら答える。
「さぁ、私もそこまでは──末端の信仰者を捕らえて尋問しても、"赤い衣の"……としか言わないもので。新しい神とやらはどうやら、慎重にして狡猾なようですねぇ。まぁ、組織の長ならそれくらい出来て当然ですが」
こちらに尻尾を掴ませた時点で、負け確定。まだまだ甘いとベリアルは嗤う。
赤い衣を纏った何者か。それが恐らくは首魁なのだろうが、現状では情報が不足している。彼はそう言いたげであった。
だが、アモンにはベリアルが敵の正体を知っていながらも、敢えて言葉を濁したように感じられた。
「……左様か。其方なら、或いは首魁の正体に辿り着いているものとばかり思っていたが」
アモンの言葉を受け、ベリアルの目がすっと細められる。意在言外──アモンが言外に匂わせた本音を鋭敏に察し、それを不快に感じたようだった。
「……一つ宜しいですか、アモン? 私は、君の戦闘力を高く買っている。文字通り、君の強さについては信用に値すると思っていますが……内面はこれっぽっちも信用しておりません」
「…………」
「君の言う通り、敵の首魁が何者なのか、ある程度の見当は付いておりますが、それを君に今ここで教える義理はありません。何故か? 君のことを私は信用していないからです。それに、若し敵にこの話を聞かれでもしたら雲隠れされてしまいますよ。そんなことも分からないのですか?」
お前のことなど、微塵も信用してなどいない。まるで突き放すようなベリアルの物言いに、アモンは押し黙る他なかった。
「とは言え……同時に引っ掛かりを覚えているのもまた事実。この件はアスモデウスだけに任せず、私自らも独自に調査を進めるとしましょう」
「ほぅ……?」
ベリアルが引っ掛かりを覚えるとは珍しい。そう言いたげに、バアルが目を細めながら笑う。
「ふふっ……私とて、決して全能ではありませんからね。それに──この世界に不要な因子は、早めに排除しないと。手遅れになる前に、ね?」
ベリアルもまた、バアルを見つめて楽しそうに笑う。アモンに対する冷ややかな態度とは大違いである。
「──と、言うわけですので陛下。この件は、我ら死天衆にお任せ頂ければと。陛下はこれまで通り、国政に注力なさると宜しい」
「ふっ──端から、私は其方に全て任せるつもりであったわ。ベリアル……親愛なる我が戦友よ」
玉座から立ち上がり、ベリアルの元へと歩み寄ると、彼の華奢な肩に手を置きながらゼノンは屈託のない笑みを浮かべた。
ベリアルと契約し、彼の助力を最大限に得られるようになっている今、ソルも、天使も、聖教会も、虫けら同然。今のゼノンに、恐れるものはないと言っても過言ではない。
そう──セラフィナを喪うことへの、純然たる恐怖を除けば。
死天衆に全幅の信頼を寄せているとは言え、その不安や恐怖だけは、どうしても払拭出来なかった。
とは言え、ベリアルと話し合い、暫くはセラフィナのやりたいようにやらせてやろうと決めている。それに、恐らく彼女はアレス捜索のためにハルモニア内を忙しなく動き回るであろうから、獣の教団と接触する可能性はゼロではないが限りなく低い。過度な心配は不要──ゼノンはそのように考えていた。
そんな彼の考えを見透かしているのか、ベリアルもまた胸に手を当て恭しく頭を下げながらも、薄桃色の唇を歪めて不気味な笑みを湛えていた。
或いは、彼には最初から全てお見通しだったのかもしれない。これから起こる事象も、それにセラフィナたちが巻き込まれることも。
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