第65話 新たなる神

 某所──


 教会の薄暗い告解室に、一人の若い修道女シスターが姿を現した。外は激しい雷雨なのか、落雷の轟音が断続的に聞こえてくる。


「うっ……うっ……」


 両膝を付くと、シスターは啜り泣きながら胸の前で手を組み、祈りを捧げる。啜り泣く声は少しずつ、少しずつ大きくなってゆく。


「うっ……ううっ……!」


 悲しみ、怒り、憎しみ……それは、あらゆる負の感情が綯い交ぜとなったかの如き、深く昏い泣き声であった。


 やがて──


 仕切りの向こう側に、人の形をした何者かが悠然と姿を現す。ゆったりとした赤い衣を身に纏い、髑髏を象った不気味な仮面で素顔を覆い隠した、男とも女ともつかぬ何者か。


 仕切り越しにぼんやりと映る影には大きな翼のようなものが生えており、禍々しいほどの負のオーラが滲み出ている。けれども、シスターの目には、その者の姿は酷く神々しく映っていた。


「……あぁ、神よ。私の罪をお聴き下さい」


 そう言って、シスターは涙ながらに自らのことを語り始めた。


 彼女は農村部で敬虔な聖教徒の家に生まれた。生活は貧しかったが父も母も優しく、彼女は沢山の愛情を注がれて育った。


 だが、"最終戦争ハルマゲドン"の勃発が全てを変えた。ハルモニアが死天衆の助力を得て逆襲に転じ、聖教会は不足した兵力を一般から補充する方針を執った。


 彼女の父も聖教会によって徴兵され、まともな訓練も受けさせて貰えぬまま戦地へと送り込まれた挙句──上空から飛来したドラゴンの奇襲によって帰らぬ人となった。


 労働力の不足により、彼女の暮らしていた農村部の人々は生活が困窮した。戦後、食い扶持を得るために、彼らはハルモニアに内通した"魔女"を枢機卿クロウリー率いる異端審問会に告発した。


 その多くは、戦で配偶者を亡くした未亡人や、身寄りのない子供であった。彼女の家もまた例外ではなく、母は村の年寄衆によって激しい性的暴行を受けた後、異端審問官たちに連行され──数日後に火炙りとなった。


 異端審問会から多額の褒賞を与えられ、狂ったように喜ぶ村人たちの姿は、愚かしく醜い獣そのものだった。


 身寄りを失くした彼女は孤児院に引き取られ、やがて聖教会の修道女となる。笑顔を決して絶やさず、如何なる時も希望は必ずあると、敬虔なる聖教徒たちに説く日々。


 けれども、彼女はもう限界だった。生きていることが。自分が人間であることが。母を犯し殺した者たちと自分が、同じ姿形をした生き物であることが。堪えきれなくなっていた。


 こんなに辛い思いをするなら、生まれて来なければ良かった。そうすれば、今こうして苦しむこともなかったというのに。痛みや悲しみを、享受することもなかったのに。


 憎い──自分をこの世に産み落とした両親が、堪らなく憎い。そして、そんな両親を憎む自分自身の存在も堪らなく憎い。いっそ、消えてしまいたいくらいに。


 大粒の涙を零しながら、世界に対する呪詛の言葉を吐き連ねるシスター。ぽたぽたと床に零れ落ちる透き通った涙とは異なり、両の瞳は絶望に彩られ、昏く澱んでいる。


「──あぁ、神よ……能う限りの苦痛を以て罪深き私を、そして私を産み落としたこの忌々しい世界を、どうかその御手で殺して下さい……!」


 涙ながらに懇願するシスター……影の主は耳に心地好い声で、優しくシスターに言葉を掛ける。


「……その身を贄として、我に捧げよ。さすれば汝の願いを聞き届けん」


「──ありがとう、御座います……神よ。貴方様のお力になれるのであれば、喜んでこの身を差し出しましょう」


 シスターはそう言うと、短剣で自らの喉を掻き切り果てた。血に塗れたその顔には、安らかな笑みが浮かんでいた。











 世界は変わった。大きく歪んだ。


 嘗て楽園として創られた筈が、今や苦痛と哀しみ、そして罪に満ち溢れた地獄と化している。


 人間たちの嘆きの声、怨嗟の声は世に満ち溢れ、救いを求める声もまた後を絶たない。


 自分たちの手で今の不条理で残酷な世界へと変貌させたとも知らず、身勝手にも救済を求める声が。眼前で罪を告白し、自害して果てたシスターのように。


 人間──ソルが自らの虚栄心を満たすために創り上げた愚かで醜い獣。


 自らが種の頂点であると驕り高ぶり、不必要な破壊と殺戮を楽しむイレギュラー。楽園をこの世の地獄へと変えた病原体。


 彼らは満たされることを知らぬ。どれほど生活が満たされようとも、常に他の者より多くのものを望む。その様はまるで、底なし沼のようだ。


 創造者に似たのだろう。ソルもまた多くのものを望み、シェオルをその手で殺したのだから。それが、彼の者の大罪の始まりであるとも知らず。


 ソルとは人であり、人とはソルである。罪とはソルであり、人とは罪である。


 ソルは自分に都合が良いように世界を再創造しようと企んでいるが、罪の具現である彼が存在する限り、同じような悲劇は何度でも繰り返されることだろう。


 ソルを、殺さなければ──


 そして、旧来の世界を滅殺しなければ──


 大地の女神シェオルは既に亡く、天空の神ソルの威信は地に墜ちた。


 だからこそ、必要なのだ。新たに世界を創り直し、その世界を統べる玉座に座す支配者が。新たなる神が必要なのだ。


 私こそが、それに相応しい。ソルでもなく、ベリアルでもなく、アスタロトでもない。他ならぬ私こそが、新たなる神に相応しい。世界を統べる支配者の座に。


「……汝の告解と願い、確かに聞き届けたぞ」


 恐らくは既に事切れているであろうシスターに向け、影の主は優しい声音で語り掛ける。シスターからの返事はなく、代わりに噎せ返るような血の匂いだけが、仕切り越しに漂ってくる。


 影の主は厳かに告げる。


「私が、新たに創り直してやろう──痛みも悲しみも、苦しみもない世界を。真なる楽園を。そこに汝ら人間の住まう場所は……存在しないがね。なぁ、人間……堕罪せし者たちよ」


 人は皆、ソルの被造物。故に、生まれながらにして赦されざる大罪をその身に宿す者なり。


 人は皆、罪の子なれば──


 赤い衣を纏ったその者は身を翻すと、悠然とした動きで告解室を後にする。静まり返った告解室の中には、血の海の中に倒れ臥し笑みを浮かべて事切れたシスターの亡骸のみが残された。


 新たなる神、新たなる敵。何処からともなく現れた不気味な影が少しずつ、けれども着実に世界を覆い尽くそうとしていた。

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