第64話 少女と軍神
都市国家アッカドで起こった一連の惨劇から、瞬く間に一月が経過した。
"
──"軍神エリゴール、敵軍に快勝"。
そのような見出しで、堕天使エリゴールと彼が率いる帝国第三軍が、聖教会勢力の連合軍数万を全滅させたことが連日のように報じられている。
常勝将軍、無敗の貴公子、軍神……各新聞社によってその呼び方は微妙に異なれども、何処も彼処もこぞって、彼の打ち立てた空前絶後の武功を称えている。記事に煽られ、国民たちも熱狂していた。
尤も──彼は国内が自分に熱狂していることなど、心の底からどうでも良いと思っているであろうが。
「……軍神、か。彼自身はその呼び名を、快くは思わないだろうね」
溜め息混じりに、セラフィナは小さくそう呟いた。
足元ではマルコシアスが、そんな彼女の様子を案じるかのように、整備された芝生の上に伏せながらも、それとなくチラチラと、セラフィナの顔を見やっている。目の下には隈が出来ており、心做しか以前よりも少しやつれたように見える。疲労の色が濃く、何処か痛ましささえ感じさせた。
「──?」
ふと何者かの気配を感じ、セラフィナは指先で髪をかきあげつつ顔を上げる。目の前に、一人の端麗なる堕天使が佇んでいた。
ハルモニア帝国軍の、それも軍上層部の所属であることを示す黒い将官服を優雅に着こなし、ハルモニアの国章が装飾されている制帽を被ったその堕天使の姿を見て、セラフィナはわずかに顔を綻ばせた。
「……エリ、ゴール。また会えて、嬉しいよ」
「──やぁ、セラフィナ。こちらこそ、また君に会えて嬉しいよ」
「……本来はさ、戦地にいる筈じゃないの?」
「戦況を報告するために、ちょっと時間を作ってね。つい今し方、ゼノンとベリアル卿に報告をし終えたばかりだよ」
皇帝のことをゼノンと呼び捨てにし、ベリアルをベリアル卿と尊称で呼ぶ辺り、彼があくまでもベリアルの配下であり、ゼノンを主とは一切認めていないのがよく分かる。
「しかし……暫く見ない間に、随分とやつれてしまったね。可哀想に」
エリゴールはセラフィナの隣に腰を下ろすと、ポケットから小さな袋を取り出し、セラフィナにそっと手渡した。
「……実は、甘いものが苦手だという部下から、配給のチョコレートを幾つか貰ってね。全部、君にあげるよ。堕天使の僕にとって、食事は不要だからね。ほら──遠慮せずお食べ、セラフィナ」
エリゴールに促されるまま、セラフィナは袋をゆっくりと開き、中に入っていたチョコレートを一粒、小さな口の中へと入れた。
口に含んだチョコレートを舌の上で少し転がしてみると、程良い甘みと苦みとが口の中いっぱいに広がり、落ち込んでいた気分が少し楽になったような気がした。
「……うん、美味しい」
「それは良かった──やはり、そうやって笑っている時が、君は一番可愛いよ」
セラフィナの髪を優しく撫でながら、エリゴールは白い歯を見せてふっと笑ってみせる。
「……アレスのこと、聞いたよ。彼の捜索を打ち切るんだって?」
「……うん。国が総力を挙げて探し続けて二年。それでも見つからないってことは多分、そういうことなんだと思う」
アレスは既に死亡している可能性が高い。ゼノンやベリアルたちは、そう判断したのだ。自分で探すのは勝手だが、過度な期待はしない方が良いとベリアルから直接言われてもいる。
力なく項垂れるセラフィナ──そんな彼女の方へと向き直ると、エリゴールは意外なことを口にした。
「慰めにはならないかもしれないけど──それで良かったのかもしれないよ、セラフィナ?」
「……え?」
「国が本当に総力を挙げて、アレス捜索に臨んでいたかどうかなんて、分かる訳がない。元は多くのハルモニア人を殺した"剣聖"、彼を未だ怨んでいる者も国内には大勢いるだろう。口では"総力を挙げて"なんて言っているけど、実際は何もしていなかったかもしれない」
国のトップに対する疑念を、さも当然かの如く平然と口にするエリゴール。彼は続けて、
「──だから、見方を変えればこれはまたとない好機なんだよ、セラフィナ。自分で情報を得て、自分で足を運び、自分の目で確かめる。勿論、それで全てが報われるとは限らないけど……見知らぬ誰かの言葉をそのまま鵜呑みにするよりは、自分自身で行って確かめる方がよっぽどマシだ。そう思わないかい?」
そう言って、エリゴールは再びにこっと笑みを浮かべる。
「──僕も微力ではあるけれど、出来る範囲で君に力を貸すよ。だから、何時までもそんな風に落ち込んでいないで、どうか何時ものように前を向いてくれないかな?」
エリゴールの言葉に呼応するように、マルコシアスも鳴き声を発する。
「ほら、マルコシアスもそうだと言っている」
「……うん。ありがと、エリゴール。お陰で、少し気分が楽になったよ」
「なら、良かった──カイム」
エリゴールが指を高らかに鳴らすと同時──
一羽の
鶫はつぶらな目でセラフィナの顔をじっと見つめたかと思うと、威厳に満ちた男の声で、
「──我が名はカイム。堕天使カイム。エリゴールからの要請により、其方に助力することと相成った」
堕天使カイム。牛の唸り声や狼の遠吠え、果ては風のざわめきや波の音が語る意味まで、世に存在するありとあらゆる言葉を識る者。
その存在を知る者は少なく、半ば御伽噺の存在であると思われていたが、まさかエリゴールの知己だったとは。驚きのあまり、セラフィナは思わず目を丸くする。
エリゴールの肩に留まるカイムをギロリと睨み付けながら、マルコシアスが大きく唸る。カイムはそれを見ても動じることなく、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「──不満かね、マルコシアス。私がセラフィナの行く先々に同行するのは」
「……止めなよ、マルコシアス」
不満しかないと言わんばかりに、尚も唸るマルコシアスをセラフィナはやんわりと窘める。
「──信用してもいいの?」
エリゴールに尋ねると、彼は小さく首肯しながら、
「動物たちの鳴き声や風のざわめきは、時として人の言葉よりも雄弁に物事を語る。下手をすれば人間のそれよりも、信用に値するだろうね」
「ふぅん……?」
「それに──こんな見た目だが、彼は戦士としても優秀だ。武器の扱いは勿論、魔術での支援も出来る。きっと、君の助けになるよ」
確かに、カイムの全身から溢れ出ている魔力の量は明らかに尋常ではない。可愛らしい鶫の姿をしているが、エリゴールの言う通り優秀な戦闘者であることは間違いないだろう。
何より、彼の持つ能力はアレスを捜索する上で大きな助けとなるに違いない。受け入れることで得られる恩恵の方が、遥かに大きいと言えた。
他ならぬエリゴールの推薦であることも、彼を受け入れる理由としては十分だった。
「……分かった。これから宜しくね、カイム」
セラフィナが軽く頭を下げると、カイムはセラフィナの肩へとひょいと飛び移り、彼女に対して恭しく一礼する。カイムもどうやら、セラフィナのことが気に入ったらしい。
「──ありがとう、エリゴール。君のお陰で、心強い仲間を得られたよ」
「君の力になれたのなら、何よりだ」
エリゴールは悠然とした動きで立ち上がると、虚空を見上げながらずっと目を細める。晴れていた筈の空には気が付けば暗雲が立ち込めており、今にも一雨降りそうな雰囲気が漂っていた。
「……さて、そろそろ戦地に戻らないとね。あまり留守にすると、何かあったのではないかと将兵たちが心配する」
「……うん。そうだね」
「……最後に一つだけ、君に注告しておこう」
豪雨の到来を告げる雷鳴が鳴り響き、雨音と共にエリゴールの言葉を掻き消す。けれども、セラフィナの耳にはしっかりと、彼の言葉が届いていた。
──"敵は、君の近くにいる。誰が敵で誰が味方なのか、決して見誤ってはならないよ"。
セラフィナが頷くのを確認すると、エリゴールは安堵したように微笑み、一陣の風となって姿を消した。
「──エリゴール」
──"生きていたら、また何処かで"。
心の中でそう呟き、セラフィナはマルコシアスとカイムを伴って大神殿の中へと入る。彼のくれたチョコレートを一粒、口に含みながら。
滝の如く降り注ぐ雨と、鳴り止まぬ雷鳴は、まるで混迷を極めてゆく世界情勢を暗示しているかのようであった。
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